第74話:勘
伸びてくる十数本の腕。
その関節の「起こり」が、ぜんぶ見える。
思わずこう思った。
――遅い。
そう感じるほどに。
世界が、ゆっくりになった。
でも違う。
僕が、重力から解放されたかのように速くなったんだ。
腕と腕の間に空いた、針の穴ほどの隙間。
――よく見える。
僕の身体は次の動きの正解を知ってるみたいに、脱力した。
身体を斜めに。
地面を擦るような、足捌き。
するり、と。
英雄たりえるクノイチの動きが、僕の感覚に浸透していく。
これが同じ身体で可能なのかと疑うほど、一切の無駄がない。
自分の身体じゃないみたいだ。
――楽しい。
僕の身体は、包囲の輪を縫って抜けていた。
まるで最初から、そこに道があったみたいに。
包囲していたジェーンさんはピクリとも動かなかった。
いや、反応できずに動けなかったのだろう。
ジュリアが軽いのはノリだけで、積み重なった鍛錬には重さを感じた。
それをピンチには存分に使ってくれる。
(ありがとう、ジュリア……)
『……アハハ、いいよ。ちょっと複雑だけど』
(え?)
『足捌きの感覚は、ホノちゃんの中にずっとある。だってアタシ、前に教えたもん。これに懲りたら、次はしっかり練習してね。今回は特別』
(あ……うん。何も言えないや。次は真面目にやる)
ジュリアの特訓で、嫌というほど教え込まれた足捌き。
けれど、僕はそれを途中でサボった。
その報いが、これだ。
借り物の足で、かろうじて命を拾っている。
……次からは、ちゃんとやろう。
僕は静かに、そう決心した。
そのとき。
「――――」
ジェーンさんの声が、初めて、揃わなかった。
「……その体捌き……シノビの……!」
十人の中の、一人だけが、言った。
「なぜ、君がその技を使える……!? しかもその練度は――」
目を見開くジェーンさんに対して、答えることはできない。
「なぜ思い浮かぶ……伝説のくノ一、東雲樹利亜。私たちの流派では、最高峰として受け継がれている名だ。だが、もうとっくに生きているわけがない……なのに、その足捌きは、大ジジ様以上の……! どういうことだ」
(なんであの人ジュリアのこと知ってるの!?)
『——どうやら、アタシと似たような出身らしいね』
その一言で、なんとなく察した。
英雄ジュリア、いや、伝説のクノイチとしてのジュリアを知っているということは、きっとジュリアのルーツに関係しているのかもしれない。
でも説明したら、ややこしいことになるのは僕でもわかる。
ごめんね、ジェーンさん。その質問は無視するね。
「……答えるつもりはないか。だが、いい。捉えたあと身体に聞くとしよう。覚悟するんだな」
どれが本物か。
《振動探知》はもう、使えない。
でも――閉じた目の裏で、僕にはもう、わかっていた。
たった今、揃わなかった声。
そこに、答えがあった。
ジェーンさんが、初めて僕に向かって踏み込む。
同時に、残った人形たちも一斉に僕へ襲いかかる。
左右から。
正面から。
背後から。
いくつもの腕が、僕を捕まえようと伸びてくる。
でも、もうさっきほど怖くない。
どれが本物かは、わかったから。
なら、もう迷う必要はない。
それに――動きが、さっきと違う。
同調したあとの土人形たちは、もっと精密だった。
呼吸も、重心も、筋肉の流れも、本物と見分けがつかないほど自然で、細かかった。
でも今は違う。
本物のジェーンさんが動揺しているせいか、人形たちの動きが単純になっている。
僕を捕まえる。
僕を殺す。
その命令だけで、まっすぐ突っ込んできているのか。
これなら、《解体》で筋肉の細かい動きまで読む必要はない。
目で見て、足でずれて、流れに乗せればいい。
伸びてくる手を、半歩ずれてかわす。
懐に入り、腕を取る。
そのまま重心を流して、投げる。
一体目の土人形が、地面を滑るように転がった。
続けて、二体目。
正面から飛び込んできた土人形の足を払い、肩を押し込み、さっき投げた一体目の方へ転がす。
三体目は、蹴りを避けながら足首を掴んだ。
逆らわない。
力を受け止めない。
勢いだけを借りる。
僕は土人形の身体を振り回し、他の人形たちにぶつけるように投げ飛ばした。
鈍い音。
土の身体同士がぶつかり、絡まり、崩れかけながらも、また立ち上がろうとする。
だけど、それでいい。
殺すわけじゃない。
人形なら、遠慮はいらない。
それに、《熟成軟化》は便利だけど、無駄撃ちできるほど軽い魔法でもない。
溶かすなら、まとめて。
下拵えと同じだ。
散らばった素材は、まず一箇所に集める。
「っ、は……!」
横から伸びてきた腕をくぐり抜け、肘を取る。
そのまま背負うようにして、放る。
絡まった身体を、ジェーンさんたちがほどこうとした。
させない。
そこへ、次を思いっきりぶつける。
隙は与えない。
四体目。
五体目。
六体目。
土人形たちを、次々に同じ場所へ叩き込んでいく。
そしてついには九体目を放り投げた。
足元で土が跳ねた。
木の根が軋む。
人の形をしたものが折り重なり、地面の上でうごめく。
それでも、まだ動く。
腕を伸ばし、這い上がり、僕を掴もうとしてくる。
だから僕は、手をかざした。
「《熟成軟化》」
肉を柔らかくするように。
古い繊維を、ほどくように。
折り重なった土人形たちが――ぐずり、と崩れた。
腕が崩れる。
脚が崩れる。
顔が崩れる。
人の輪郭が、土と水にほどけて、地面に流れ落ちていく。
どろり、と。
べちゃり、と。
さっきまでジェーンさんの形をしていたものが、ただの土くれへ戻っていく。
「な――」
ジェーンさんが、絶句した。
残ったのは、一人だけ。
本物の、ジェーンさん。
感情まで、まるで剥き出しの。
「人は殺せないと、言っていただろう……!? しかも、その溶かし方は、まるでメロウの……」
ジェーンさんは、そこで言葉を切った。
……何かを、飲み込んだ。
その“飲み込んだ”が、僕の胸に、奇妙に引っかかる。
この違和感は、なんだろう。
「うん。食べるわけじゃないし、殺したくもないよ。巡らせることのできない者の命を、奪いたいとは思わない」
僕は、ゆっくりと言う。
「だから、人形だけ溶かしたんだ」
「何っ!? なぜ……人形だけを選べた……? まさか、見破ったとでもいうのか……!?」
声が、わずかに震えていた。
「いや、だって、さっき動揺したときに喋ってたのが一人だったから……」
「それだけで確信したというのか……? 私が本物ではない土人形に、喋らせることもある」
「いや、それだけじゃないけど」
「じゃあ、なんなんだ! 何で確信した!?」
……うーん。
なんて答えればいいだろう。
「えーと……強いて言うなら、勘かな?」
「……何と言った」
よく聞こえなかったのかな。
「だから、勘」
「……かん? カン? 勘…………はぁあああ!?」
ジェーンさんが、初めて声を荒げた。




