第73話:音か
「――っ!?」
息が止まる。
身体が、真後ろへ吹き飛ばされる。
受け身を取る余裕なんてなかった。
背中から地面に叩きつけられ、肺の中の空気が全部押し出される。
みぞおちに、強烈な鈍痛。
まっすぐ蹴りが入ったのだと、遅れてわかった。
口の中に、血の味が広がった。
吐き気がこみ上げる。
「かはっ! げほっ! ごほっ!」
倒れたまま、僕は大きくむせた。
(うぅ……ちくしょう、痛い……帰りたい……)
十人を同時に相手するのは、さすがに無謀すぎた。
僕はその場でふらつきながらもゆっくりと立ち上がり、周囲のジェーンさんに意識を向ける。
「……ジェーンさん。それにしても、十人はさすがにずるくない? 大人げないよ」
「都合が悪くなると、都合のいい理屈を使う。君はしっかり子どもで安心したよ。それに十人いても、すべて私だ。話し合い、してくれるんだろう? ……今のところ、話し合いというより殺し合いになっているがな」
軽口で答えるジェーンさんには、だいぶ余裕が戻っているように見えた。
さっきまで見せていた動揺は、もう微塵も感じられない。
このままじゃ、ペースを握られる。
できるだけ早く、本物を見つけないと、じり貧でやられる。
敗北の色が、じわじわと濃くなっていく。
さて、どうしたものか。
『小市民、ないものねだりをするな。背伸びは愚者のやることだ。己が何を持っているか、今一度振り返ってみろ』
ヴァンデルにしては、珍しい物言いだと思った。
上から目線なのは、相変わらずだけど。
ただ、言われたことに関しては、意外とわかる部分もある。
たしかに、ないものねだりをしてもどうしようもない。
(外も内も一緒なのはわかった。なら、呼吸と動きは?)
現状をざっくり把握する。
そして僕が今、持っているものを冷静に数える。
(これだって、今となっては僕の血肉になってるんだ)
僕は息を整え、足の裏に意識を集中させた。
《振動探知》。
ハクゲツから受け継いだ、足裏で世界を読む感覚。
土人形にも、重さはある。
歩けば、音もする。
でも――生き物の足音には、ノイズが乗る。
心臓の拍が骨を伝う、微かな揺れ。
呼吸で上下する、重心。
疲れた筋肉が生む、ほんのわずかなブレ。
目を閉じた。
息を、ゆっくり吐く。
感覚が研ぎ澄まされ、足裏が、地面の脈動を拾う。
十の足音。
そのうち九つは――綺麗すぎた。
機械みたいに正確で、静かで、同じ。
けれど、一つだけ。
一つだけ、揺れている。
生きている。
(……見つけた)
足が動いた。
揺れている一人へ、一直線に踏み込む。
左右から土人形が詰めてくる。
けれど、筋肉の動きが単調な攻撃は読みやすい。
肩の沈み。
肘の向き。
重心のズレ。
それだけを拾って、半歩ずつ避ける。
本物まで、あと少し。
伸ばした手が、ジェーンさんの肩を掴んだ。
(届い――)
「音か」
十人が、同時に言った。
その瞬間。
勢いが、殺された。
ジェーンさんはその場で身体を沈め、僕の踏み込みを受け流すように回転した。
掴んだはずの肩が、手の中からすり抜ける。
まずい。
そう思った時には、もう遅かった。
ジェーンさんの掌底が、僕のみぞおちへ向かって――。
振り抜かれた。
「がっ――!?」
――痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
内臓が、ひっくり返ったみたいだった。
息ができない。
膝から力が抜ける。
視界が、白く弾ける。
先ほど痛めたみぞおちに重なるように容赦ない一撃が突き刺さった。
「私にも、相手の力を利用する技はある」
ジェーンさんの声だけが、やけに近くで聞こえた。
その声はしっかりと冷えていて、容赦ない暗殺者のような雰囲気を纏っている。
「別に、君だけの特別じゃない」
「げほっ……!」
咳き込んだ瞬間、口の中から熱いものが溢れた。
新鮮なレバーを食べたときに感じる、あの鉄の味。
――血だ。
赤いものが、地面に落ちる。
意識が、一瞬、遠のきかける。
倒れるな。
倒れたら終わる。
そう思っているのに、身体が言うことを聞かない。
「今のは惜しかったな」
ジェーンさんが、静かに言った。
「だが、そこまでだ――」
(すぐ看破された! クソ……でも本物のジェーンさんは一回見たから……)
「……そう思うよな」
十人のジェーンさんが、同時に足を動かした。
踏み込むのではない。
土を、蹴った。
乾いた地面が、一斉に跳ね上がる。
「うぐっ!」
反射的に両腕で顔を庇る。
細かな土が腕に当たり、頬に当たり、閉じた瞼の隙間にまで入り込んでくる。
小石が額を打ち、頬骨を打ち、剥き出しの手の甲にぱちぱちと弾けた。
耐えられないほどじゃない。
でも、地味に痛い。
うっとうしい。
『その割にはホノちゃん、涙目になってない?』
(う、うるさい!)
目を開けられない。
けれど、見えなくても《振動探知》がある。
そう思って、足裏に意識を落とした瞬間――。
踏む音。
蹴る音。
土が落ちる音。
小石が跳ねる音。
十人分の足音と、ばら撒かれた土粒の振動が、暴力的なまでの音の嵐となって僕を襲った。
《振動探知》に頼っているからこそ、逃げ場がない。
痛みで集中が削られる。
音で感覚が濁っていく。
地面の上が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。
やがて、十人分の足音がふっと消えた。
……静かだった。
月の頼りない明かりしかない。
それなのに、目を閉じていてもわかるくらい、周囲には濃い土煙が立ち込めている。
見えない。
読めない。
さっきまで暴力的なほど溢れていた振動が、嘘みたいに途切れていた。
不気味な静寂。
僕は息を殺したまま、ゆっくりと目を開ける。
土煙が、少しずつ薄れていく。
その向こうに、ジェーンさんが立っていた。
一人だけ。
「え?」
「だがそれも、たいていのモノがそうする」
ジェーンさんが、静かに言った。
「人間なんて大して変わらないんだ。名前をつけて、認識しようとしているだけだ」
その言葉と同時に。
一人に見えていたジェーンさんの輪郭が、横へずれた。
いや、違う。
一人が動いたんじゃない。
重なっていた。
十人のジェーンさんが、僕から見て一直線に並んでいたのだ。
その十人が、同じ足で地面を踏み、同じ角度で肩を開き、同じ速度で横へ展開していく。
まるで、一枚の絵が十枚に分かれるみたいに。
歩幅も。
呼吸も。
重心の揺れも。
筋肉の動きも。
すべてが、同じ。
今度は、姿かたちだけじゃない。
生きているときに出るクセまで、同じだった。
(ほんと、ずるい……)
「故郷では、身体動作を精緻化するところから始まる」
十人のジェーンさんが、同じ声で言った。
「歩幅。呼吸。重心。筋肉の動き。視線の運び。そういうものを、限りなく同じに近づける。個性は、武器になる前に隙になるからな。私たちに個性はいらない。私たちはただの道具だ」
横一列に並んだ十人が、同時に構える。
「……へへ。ジェーンさんったら」
思わず口元が緩んだ。
「なんだその顔は……」
「いや、嬉しくてさ。いっぱい話し合いしてくれてるみたいで」
十人のジェーンさんの瞳が揺れた気がした。
でも次の瞬間には、張り付けたような無表情に戻る。
「……強がっても、もう、見抜くことはできない」
足裏に響く十の気配が、ひとつの生き物みたいに揃っていた。
「見失ったな。どうする?」
逃げ場がない。
女たちは、ゆっくりと、確実に、距離を詰めてくる。
手を伸ばせば届く距離まで――
来る。
女たちの手が、一斉に、僕へ伸びた。
全部、避ける?
無理だ。
全部、防ぐ?
無理だ。
先ほどの攻防で、嫌というほど身に染みている。
その時。
『ホノちゃん』
ジュリアの声がした。
『アタシの足、ちょっと貸すね』
《英傑貸出》。
ジュリアの神経が、僕の足に通った。




