第71話:月下の空蝉
『オイ、クソガキ。気ィ抜くなよ』
ジェーンさんがナイフを握り直し、戦闘態勢に入った――そう見えた、その瞬間。
頭の奥から、ざらつくような声が響いた。
オーガの声だ。
『あのクソッカス女、まだ余力がありやがンな。見せてねえ何かがある』
(……見せてない何かって何?)
『……オメエ、どこまで覚えてやがる。指を鳴らすこと、接吻されたことは覚えてンのかよ?』
(…………覚えてるよ。あれ、そ、その、口で、さ、されたけど……大丈夫……なんだよね?)
『ア゛? なンだそのシャバい反応。気持ちわりィヤツだな。接吻ごときで動揺しやがッて。心配しなくとも、テメエの身体に何かが残ってることはねえ。どッちかッつーとアレは精神に作用するヤツだな。とっくに弾けとンでッから安心しろ』
ジェーンさんに何かをされた感覚はある。
けれど、オーガが今言ってくれたように、自分の身体に異変はない。
そこは信頼してもいいだろう。
ただ、どんなカタチであれ、あの出来事は適当に流せるものじゃない。
冷夏さんの色仕掛けとは比べものにならないくらい、思い返せば、最悪の気分になる。
できるだけ思い出したくはない。
(それで……見せてない何かって、結局何のこと?)
『知らねえよ』
(え……教えてくれないの?)
『ハンッ! オレがこれ以上教えるわけねえだろうが。オレは気分で教えただけだ。あとはテメエの頭で考えやがれ、クソガキ』
相変わらずの乱暴な物言いだった。
意外ではない。
何せオーガだ。優しさは最初から期待できない。だから、期待もしない。
(……ソウデスカ。ホントウニオシエテイタダキアリガトウゴザイマス)
できるだけ棒読みになるように心がけた。
『ケッ……せいぜい死ぬなよ、クソガキ』
いつものように吐き捨てて、オーガの気配が奥に消えていった。
オーガが気まぐれなのはいつものことだ。
ただ、ここ最近、絡まれることが多い気もする。
たぶん気のせいなんかじゃない。
……今そのことを考えてもどうしようもない。
そもそも、気まぐれな鬼みたいな存在を読み解こうだなんて、どれだけ暇になっても勘弁したい。
『……まったく、どっちも素直じゃないんだから』
ジュリアの呆れたような声が届いた。
どっちも、と言われたことに少し不服だったが、今はそこに気を取られている場合ではない。
目の前にいるジェーンさんの鋭い気配が、少しずつ濃くなっているからだ。
「――話し合う、という割には、とても緊張しているように見えるが?」
「あなたの殺気のせいだよ、ジェーンさん。そういうジェーンさんも、話すつもりがないっていう割には、こうして声をかけてくれるんだね?」
「なぁに。少しばかり興が乗っただけだ。契約と任務の範囲内であるなら、楽しむぶんには構わない。ただ、それでも私は、できるだけ迅速に終わらせることを最優先にする」
「ならそろそろジェーンさんの正体とか、どんなご飯が好きとか、教えてもらってもいい?」
「重要な情報を渡すことはできない。時間もなるべく無駄にはしない。ただ、干渉を自力で解いたことだけは素直に賞賛する。どうやったかは知らないがな。ちなみにだが……私の大好物はおしるこだ」
「……答えてんじゃん。おしるこ美味しいよね。焼きたての香ばしいお餅があれば、なおさら最高だな」
「ああ、まったく同感だ。だからこそ――殺すには惜しい」
その瞬間、ジェーンさんの指先が、ひゅっと地面を撫でた。
「――《空蝉》」
地面が――盛り上がった。
最初は、足元の土がわずかに震えただけだった。
けれど次の瞬間、波紋のような揺れが月明かりの下を走り、土が内側から押し上げられる。
ぼこり、と地面が裂けた。
湿った土が盛り上がり、人の輪郭を作っていく。
足。
腰。
胴体。
肩。
首。
土の塊だったものの表面が、さざ波みたいに揺れながら整っていく。
粗い泥の質感が消え、布地のしわが浮かび、肌の色が乗り、髪の一本一本まで形を得ていく。
そして、そこに立っていたのは――。
ジェーンさんだった。
同じ顔。
同じ服。
同じ無表情。
ふっ、とまた地面がうねった。
二人目。
今度は左側の土が跳ねる。
地面から引き抜かれるように、もう一人のジェーンさんが立ち上がった。
三人目。
背後に近い場所で、土が渦を巻くように盛り上がる。
そこから、ナイフを持ったジェーンさんがぬるりと現れる。
四人目。
月光を浴びた地面が波打ち、土の腕が伸び、身体が生え、顔が形作られていく。
それだけでは終わらない。
五人目。
六人目。
七人目。
土の中から、ジェーンさんが次々と立ち上がっていく。
地面がうねるたびに、同じ顔が増えていく。
同じ無表情が、音もなく僕を見据えていく。
「あはは、さすがに多勢に無勢すぎるって……」
気づけば、僕の前には――。
十人のジェーンさんが、半円を描くように立っていた。
(話し合いたいって言ったけど、さすがに僕はショウトクタイシじゃないぞ。一気に別のこと話されるのは無理がある。そもそもショウトクタイシが誰かよく知らないけど)
『……ホノちゃん、ときおりふざけてるのか真面目なのかわかんない発言するよね?』
(僕はいつだって真面目なのに、そう思われてるのは心外だなぁ)
ジュリアのツッコミを軽く流して、僕は目の前の状況に集中する。
全員が、同じ角度でナイフを握っている。
全員が、同じ目で僕を見ている。
全員が、本物みたいだった。
『土人形……いえ、これは』
ミネルヴァの声が、緊張と興味を帯びる。
『術式の型が、見たことのないものですわね』
(……ミネルヴァも見たことないって相当じゃない?)
ミネルヴァの声が、少しだけ慎重になった。
『ええ。あの女、闇属性ですが――ただ闇属性というだけではありません。回路に……古い傷のようなものが走っていますわ。あの練度は、その傷を抱えたまま鍛え抜いた者のもの――』
(傷……?)
『嫌な予感がしますわ。あの女、まだ何かを“使う前提”で動いている』
(それってオーガが言ってたヤツと同じ?)
『オーガ風に言うなら、「知らねえ」ですわね』
(……うん? そこはオーガ風じゃなくて普通に答えてもらえると嬉しいんだけど?)
とりあえず、引き続き警戒は強めておいて損はなさそうだ。
なにせ、目の前には月光に晒されている十人のジェーンさんがいる。
どれが本物か、わからない。
しかし人形なら――汚れ方が違うはずだ。
さっきの戦いでついた返り血。
靴底の泥。
月光の照り返し。
僕は、目を凝らした。
……同じ。
全部、同じだ。
暗くて見えづらい部分もあるが、見て確認できる部分は全部同じ。
血の飛び方も、泥のつき方も、つやの濃淡も――寸分違わず、同じ。
一流の飴細工職人でも、ここまでまったく同じものは作ることなんてできやしない。
(……厄介だな。ジェーンさん一人相手でも面倒なのに、十人も相手しないといけないだなんて……)
心の中で毒づくと、十人のうちの一人が、口を開いた。
「見分けようとしても無駄だ。多くの人間がそれを試みるが、失敗に終わる。本体の見た目と質感は、常に分身と同調する。最初から見分けることはできない。意味はない。諦めろ」
「なるほどね。でも今喋ってるジェーンさんが本物なんじゃないの?」
「……そう思うなら試してみるといい」
腰の包丁を抜く。
Eランクの、魔煌玉なしの、ただの肉切り包丁。
僕の立派で心強い相棒。
構造を読むなら、これで十分。
僕は腰に提げたランプのつまみを回して、光量を最大にした。
ジェーンさんたちの姿がはっきりと見えた。
そして静かに唱える。
「――《解体》」




