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蹄煮込み、経験を喰らう――牛好きの少年は「死」を食べて強くなる  作者: メイ
第二章:言葉を探す少年

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第70話:僕は僕だ

 冷たい。

 熱い。

 ……痛い。


 その三つが、ほぼ同時に、僕の首筋を通り過ぎていった。


 そして聞こえた――六つの知っている声と、一つの懐かしいのによく知らない声。

 あれは気のせいだったかもしれない。


 僕の世界に、音がじんわりと戻ってくる。

 足裏から伝わる振動も、よくわかる。


 いつもより木々の位置を高く感じる。

 なぜそうなったのか、自分の現状を確認してすぐにわかった。

 気づけば僕は、尻もちをついていたようだ。


 ――ズキ。


 首筋に、痛みと細い熱。

 指で触れると、ほんのり暖かい。

 その指を見ると、赤く濡れていた。


(い、痛い……首を切られた? でもこれは――)


 ……浅い。


 刃が触れた瞬間、僕の身体は勝手に仰け反っていたらしい。

 不幸中の幸い。


 ――違う。誰かが助けてくれたんだ。

 不幸中の幸いなんかじゃない。

 いつもの暖かさ。心の内側に潜む英雄たち。

 その正体は、きっとそれだ。

 ……なんだ。いつも通りのことか。


 倒れた拍子に眼鏡がずれて、月が二重に見える。

 僕は眼鏡をゆっくりと戻した。


 視界がクリアになっていく。

 月がよく見える。


 とてもきれいだ。


『ホノちゃん、おかえり』


 ジュリアの声が――いつもより澄んで聞こえた。


(じゅ、ジュリア!? ジュリアだよね!?)


『そうだよ、アタシだよ。どうしたのホノちゃん。まるでしばらく会ってないみたいに言って』


 くすぐったい声……ジュリアの声だ。六英雄のクノイチ、ジュリアの声だ。


(良かった……ジュリアの声だ……ほんとうによかった……僕、怖かったんだ。もう会えないかもしれないって――そう思ったから)


『ホノちゃん……覚えてないの?』


(何を?)


『最後、どこまで覚えてる?』


(……首を切られたところ? かな)


『――そっか。でもその様子だと、愛は戻ってきたみたいだね』


(愛が戻った? なにそれジュリア。なんかクサいセリフだね?)


『――いいのいいの、気にしないで。ところで気分はどう?』


(えーと、悪くないかも)


『なら、もう大丈夫だね』


 気づけば耳鳴りのノイズは、もうない。


 頭がすっきりした気がする。

 さっきまでは水の中にいたみたいに、もがいてた感覚がある。

 でも今は引き上げられたみたいに、空気をとてもおいしく感じる。

 息苦しくない。


「バカな……避けた、のか? それとも偶然バランスを崩しただけか……?」


 聞きなれない温度の低い声。

 目の前には、ナイフを手にした女が固まるように立っていた。


 ありえないことが起きた――そんな目で、僕を見下ろしている。


 僕はその女を見て、質問されたことを思い返した。

 ――君は肉を食べるか?


 ついさっきまで起きたはずの出来事が、まるで走馬灯のように鮮明に僕の記憶の中で再生された。


「あ……あは……」


 声が、漏れた。


「ふっ……あはは……あはは!」


 僕の中に、実感がふつふつと湧いてくる。


「あはははははは!! なんだ、そういうこと……?」


 すとんと、納得が落ちた。

 それと一緒に、心の奥へじんわりとした温かさが広がっていく。

  

 僕はこの短い時間に、自分を見失っていたみたいだ。

 自分じゃない誰かになっていたような時間。

 そのあとで、ひどく温かいものに包まれていたような感覚だけが残っている。

 

 女は言った。

 ――君は肉を食べるか、と。


「あは、本当僕ってバカなんだから。でもそういうことか……あは、ははは……あははははははっ!」


 答えるのは簡単だ。

 たどり着くまでは難しかった。

 いや、今だって、納得しきれた日はまだない。


 それでも朝になれば、覚悟を毎回問い直す。


 ――死ぬ命は巡る命。

 僕は感謝して、命を頂く。


「…………なんだ君、どうした……急に笑い出して……あまりの恐怖に狂ったか」


「そうやってさ。まるで同情するような、かわいそうな目で見るの、やめてよ」


「何を言っている……」


「――気づいてないんだね。むしろかわいそうなのは、あなたの方かも」


「どうでもいい。もう一度やるだけだ」


 女が、指を掲げた。


 ――パチン。


 ……何も、起きない。


 ――パチン。パチン。


 ……乾いた音が森に響く。


「何してるの?」

 

 僕の質問を無視して、女はその後も執拗に指を鳴らし続ける。


(そう言えばさっきも指を鳴らしていたな。なぜそうしているかの理由は正直よくわからないけど)


『クク……もう効いてないネェ……所詮はその程度カ……つまらなイ』


 レクターが、わざとらしく欠伸をした。


「……なぜだ」


 女の声に、初めて、平らじゃないものが混じった。


「なぜ立て直した……? 深いところまで流した。精神はそれなりに削った。一人で立て直すことなど……無理なはずだ!」


「うーん、よくわからないけどさ。それは僕が、一人じゃないからじゃない?」


「一人じゃない、だと? 何を言っている……?」


「孤独な人には、きっとわからないよ」


「孤独……? ……それは、私に言っているのか……?」


「あはは。あなた以外にここに誰かいるように見える?」


 女の指が、止まった。

 混乱したような気配もある。


(まあいきなり一人じゃないって言われても困るよね。それ以上説明する気は僕にはないけど)


 僕は、膝に手をついて、立ち上がる。


 膝が笑ってる。

 それでも、立つ。

 お尻についた土ぼこりを払う。


「あなただって、きっと僕の中に、自分を見出したいだけなんだよね」


「何だと」


「……わかるとは言わないよ。でも今、わかってることもある」


 息を、ゆっくりと吸う。


「僕は僕だ。いろんな僕がいる。でも、どれも僕だった」


 僕は胸に手を当てた。


「僕がどういう人なのか、わかりきらない部分も正直ある。でもね、今決めきる必要もないんだ。僕は昨日の僕と違う。僕は明日の僕と違う。今の僕は――今の僕でしかない」


 少しだけ乾いた笑いがこぼれたあと、そのまま続ける。


「食べる意味ね……考えてみたよ……ていうか、ずっと考えてる……でも、いくら考えても、まだわかんないんだもん……!」


 駄々をこねるような声が出てたかもしれない。


「じゃあ仕方ないじゃん。なら、いつかのためにとっておくよ。だって、とっておいたデザートはすっごく美味しいからね」


「――何があったんだ……べちゃくちゃべちゃくちゃと。気持ち悪いぞ」


「あ、それ、僕がレクターによく言ってる言葉だ。こうして言われてみると、確かにキツイね。でもレクターは事実として、ほんっとに! 気持ち悪いから仕方ないよ! アイツ、本当にキモイんだもん!」


『あアッ! 宿主ホストォ!? あ、あまりけなさないでくレ……! 絶頂(エクスタシー)!』


「……ただ今日は助かった。それも事実。キモくてもそばにいる。それが巡り巡って、今日みたいに、ちょっとだけ芽吹くこともある。認めるのは癪だけどね」


 胸の奥で、何かが小さく息をした。

 それは正義なんかじゃなくて、もっと身勝手な願いだった。


「全部をどうにかしようなんて、本当にエゴなのかもしれない。でも、それでも、わがままでいたいじゃん。人間だもん。笑って生きたいもん」


 だから、やっと気づけた。

 僕はずっと、自分の願いだけを後回しにしていた。


「――追い詰めてくれてありがとう。そのおかげで僕は、自分に対しても『どうしてほしいかだけ』を聞くことが、やっとできた。……これ、冷夏さんに言ってた割に、自分にやってなかったんだね。あはは、僕ってば、ダサイなぁ……」


 女は、何も言わなかった。


 ただ、ナイフを握り直した。

 どうやら混乱し続けることは、やめたみたいだ。


 なら、僕もそうする。


「ね。良かったら、あなたの名前を聞かせてほしいな」


「…………ジェーン。ただの、ジェーンだ」


「ありがとう、ジェーンさん。ちなみに、何者か聞いてもいい?」


「…………それは、君が決めろ」


「わかった。そうするね」


「……もういいか」


「うん、はじめようか」


「まだ震えてるぞ」


「……そりゃあ、怖さは簡単に消えないからね。でも怖いからといって、何もしないわけにはいかない。だから調理開始――ちがうな、話し合いを始めよう」


「…………話すことなどない」


 僕はパチンと一度だけ自分の頬を叩いた。


「上等」

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