第66話:もうひとりにしないで
「かごめ、かごめ♪」
メロウの歌声が響く中で、複数の影鬼が、冷夏を囲んだ。
だが、囲みながら影鬼が歩いていく瞬間、その巨体は黒い霧へと変わっていく。
輪郭が崩れ、黒い霧が円状に流れる。
冷夏の周囲を、ぐるぐると回る。
実体がない。
影鬼の顔が一瞬だけ浮かんでは消える。
腕が見えたと思えば、次の瞬間には霧へ溶ける。
前にあった魔力が、横へ流れ、背後へ回る。
(実体を見る意味は薄いわね)
冷夏は、影鬼そのものを追うのをやめた。
見るべきは本体ではない。
(そこ……!)
右側の霧が濃くなる。
そこから腕が生え、拳が飛んできた。
冷夏は一歩だけ身体をずらし、最低限の動きで回避する。
(やっぱり攻撃の瞬間だけ、影が濃くなるわね……)
冷夏はさらに集中力を高めた。
背後の霧が凝縮され、今度は薙ぎ払いの予感。
振り向かず、冷夏はその場で身を低く落として躱した。
「かごのなかの鳥はぁ~~」
メロウが歌う。
黒い霧の輪が、さらに狭まった。
「いついつ出やるぅ~~?」
冷夏は跳ばない。
無理やり輪の外に飛び出さない。
跳べば、また空中を狙われる可能性がある。
そもそも、空中に逃げ道があるとは限らない。
地上で避け続けることを決めた。
(鬼は鈍いわけじゃない。でも見えているわ……落ち着けば大丈夫)
半歩だけ、身体を傾ける。
足首を捻る。
わずかに首を逸らす。
実体化した影鬼の指が、冷夏の髪を数本だけ掠めて散らした。
その瞬間、メロウの目が輝く。声が跳ねる。
「今の! 今のつかまえられた! もう一回! もう一回やればいける!」
そして、メロウは歌の最後を口にする。
「うしろの正面、だぁれ?」
冷夏の背後で、霧が急激に濃くなり、本命の影鬼が、背後から実体化する。
だが冷夏は、言葉には引っ張られない。
見るのは「後ろ」という言葉ではない。
魔力が、どこで凝縮したか。
冷夏は振り返らず、身体を斜め前へ滑らせる。
背後から伸びた四本の腕が、冷夏の服の端だけを掠めた。
「なんでっ……なんでそこまで避けるのぉ!?」
メロウがまたもや叫んだ。
冷夏は小さくふぅと息を整える。
だが、完全な余裕は見せない。
乱れかけた呼吸を、わざと少し大きく見せる。
一瞬だけ膝を沈め、バランスを崩したように見せる。
大げさに動いて、頬を伝う汗までも追い詰められた証拠に変える。
メロウには、こう見えるはずだ。
あと少し。あと一回。
もう少しで捕まえられる、と。
冷夏の見せた隙を本物だと思ったのか、メロウは、ぱぁっと笑った。
「お姫さま、すぐに死なないのすごいすごぉーい☆」
頬を赤くして、心底楽しそうに笑う。
その場で手を振って、小躍りまで披露した。
「メロウ、今すっごく楽しくなってきちゃった! もっと遊ぼう!?」
冷夏は、黒い霧の流れを見据えたまま、静かに息を整えた。
「いいわよ。嫌になるまで遊んであげるわ」
「やったやった……! すごぉくうれしい!」
メロウは本当に嬉しそうに笑った。
冷夏は、わずかに目を細める。
(皮肉で言ったつもりなのに、本当に嬉しそうね……)
許されるわけがない。
命乞いを踏みにじり、人を溶かし、奪った命をペンダントに閉じ込めてきた子だ。
けれど、それでも。
(やっぱりこの子は、大量殺人者であると同時に――まだ子どもなのね)
冷夏はメロウを見る。
その無邪気な笑顔を。
その手にまとわりつく、濃すぎる魔力を。
そして、少しずつ薄くなっていく魔力の芯を。
(なら、気のすむまで遊びなさい。あなたが嫌になるまで)
冷夏は構える。
(その頃には、もう立っていられないでしょうけど)
メロウはどんどん夢中になっていった。
「簡単に死なないでねぇ!?」
童歌を切り替えながら、自由気ままに展開していく。
「鬼さんこちら」で、影鬼を呼ぶ。
「とぉりゃんせ」で、影壁を作る。
「かごめかごめ」で、黒い霧の輪を広げる。
歌が変わるたびに、影の形も変わる。
拳になり、壁になり、霧になり、棘になり、腕になった。
そのすべてが、冷夏を捕まえるために動いていた。
だが、冷夏は捕まらない。
影鬼の一撃は、地面を砕く。
影壁は、逃げ道を狭める。
黒い霧は、攻撃の瞬間だけ濃くなって実体を持つ。
どれも強い。
だが、どれも重い。
影鬼を出すたびに、メロウの魔力が大きく削れる。
影壁を重ねるたびに、流れが薄くなる。
黒い霧を維持し、攻撃の瞬間だけ実体化させるたびに、制御でさらに消耗する。
最初は濃く見えた黒紫の魔力も、今は少しずつ芯を細らせていた。
歌声だけが、まだ楽しげに弾んでいる。
メロウ本人は、自らが少しずつ追い詰められていることにも、冷夏が本気で反撃していないことにも、気づいていない様子だった。
それはきっと楽しいから。
夢中になるぐらいの遊び相手だから。
自分が尽きる経験をしたことがないから。
それほどまでの強敵が本気を出すのを、おそらく経験したことがないから。
十数分後。
その時は突然やってきた。
冷夏の呼吸は浅くなっていた。
頬には細かな傷が増え、指先には痺れが残っている。
それでも、致命傷だけは一度も許していない。
「なんで……?」
メロウの無邪気な笑みの奥に、焦りが見え始めた。
「なんで捕まえられないの!?」
その瞬間、冷夏は静かに刺した。
「先生は、それを見て褒めてくれるのかしらね」
メロウの顔が変わる。
「……先生は」
メロウの手が震える。
「先生は、メロウのこと、ちゃんと見てくれるもん」
それは怒りというより、祈りに近い声だった。
「メロウがちゃんとできたら、えらいって言ってくれるもん」
冷夏は何も言わなかった。
「先生だけは……べつだもん」
冷夏はただ見守る。
その沈黙が、メロウをさらに焦らせる。
「ぜったい、ぜったい捕まえるもん……!」
メロウが両手を広げる。
足元から、影が大きく広がっていく。
「先生に、ほめてもらうんだから……!」
影鬼がいくつも立ち上がる。
影壁が何枚も重なる。
黒い霧が冷夏を包む。
そこが、消費のピークだった。
だが、その黒は、もう最初ほど濃くない。
冷夏の目には見えている。
魔力の芯が、細くなっている。
(あと、何回……?)
冷夏はメロウを見る。
(この子、自分が空っぽになりかけてることに、気づいてもいない……そのことを無視するほど私は甘くない)
メロウがもう一度、手を叩いた。
「鬼さんこちら……」
影が揺れる。
だが、影鬼は出てこない。
いや、出ようとはした。
小さな腕。
崩れた肩。
形になりきらない黒い塊。
それは途中で、ぐしゃりと崩れた。
メロウが瞬きをする。
「あれ……?」
もう一度、呼ぶ。
もう一度、手を叩いた。
「あれ? あれれ?」
――パンパン!
――パンパンパンパン!
――パンパンパンパンパンパンパン!
リズミカルさはなく、手が赤くなるまでメロウは執拗に手を叩く。
何かに縋るように、メロウは手を叩き続けた。
しかし影は影らしく沈んだままだった。
メロウの願うような手を叩く音は虚しく森の中に響く。
「な、なんでなの!? か、影鬼ちゃん……?」
影は立ち上がらない。
「なんで……ちゃんと出てこないの……?」
出せるはずのものが出ない。
呼べば来てくれるはずの友達が、来ない。
冷夏が待っていた瞬間が来た。
メロウの呼吸が荒くなる。
メロウの足元がふらつく。
メロウの手先が震える。
(来たわね。もう影鬼が顕現しない。呼吸が乱れ、手足が震える。その症状はおそらく――)
人生ではじめての魔力切れ。冷夏はそう判断した。
メロウの唇が震えたままに、そこから声がもれた。
「やだ……」
掠れるような声だった。
だが、それは怯えだけでは終わらなかった。
次の瞬間、メロウの感情が爆発する。
「やだやだやだやだやだやだやだもん! なんでメロウばっか!! なんでメロウこんな目にあうのっ!」
涙目で叫ぶ。
「メロウは愛されるべきだもんっ! 楽しかったのに! おひめさまのいじわるっ!」
怒り。
恐怖。
被害者意識。
甘え。
すべてがぐちゃぐちゃに混ざっているように冷夏には見えた。
「死んでよぉ! お願いだから死んでよぉっ!」
それは命令であり、懇願でもあった。
冷夏は近づく。
「やだぁ……!」
メロウは後ずさる。
「来ないで来ないで来ないで来ないで……!」
目の前にいるのは、もう魔力を失った十歳の子ども。
だが、冷夏は止まらない。
この子は人を殺してきた。
命乞いを踏みにじってきた。
他人の尊厳を壊してきた。
だからこそ、殺さない。
だが、止める。
冷夏の手に雷が集まる。
《雷槍》ではない。
もっと近い。
もっと直接的に、手のひらに帯電する雷。
《雷掌》。
当たったとしても、致死には届かない。
だが当てれば、確実に戦闘不能へ落とせる。
冷夏は覚悟を決めた。
「――覚悟なさい」
冷夏の手のひらで、雷が低く鳴る。
冷夏は着実に一歩ずつメロウに近づく。
そのたびにメロウがビクンと反応する。もう後ずさることもしない。
影鬼は出ない。
キャンディーも出ない。
先生もここにはいない。
(これで終わる……)
――しかし冷夏が、メロウにたどり着くことはなかった。
冷夏が《雷掌》の間合いへ踏み込もうとした、その瞬間。
メロウがすがるように胸元のペンダントを見た。
メロウは震える手で、それを手に持ち――
「……みんな」
――ピキィン。
ガラス製のペンダントをそのまま握り潰した。
「愛してるよ」
冷夏の視線が、ペンダントに集まる魔力に吸い込まれるように釘付けになった。
その魔力は、メロウ自身のものではない。
もっと濁っている。
もっと混ざっている。
いくつもの色が、溶け合っている。
メロウが、泣きそうな声で言った。
「たすけて」
それは十歳らしい、かよわい声だった。
「メロウを……」
ペンダントが眩いぐらいに光る。
「もうひとりにしないで……っ!」
瞬間、ペンダントから膨大な魔力が溢れ出した。
光の奔流が冷夏の視界を埋め尽くす。
その魔力の残滓からはっきりわかる。
強かった者たち。
溶かされた者たち。
命乞いを踏みにじられた者たち。
それが、ペンダントに閉じ込められ、燃料にされたいくつもの命の残滓なのだと。
冷夏の表情からすっと余裕が消えた。
「その力は……」
ペンダントの光が、ついには夜を塗り潰した。
この子が最後にペンダントへ縋る可能性は、読んでいた――はずなのに。
それでも――もう手遅れだという実感が、冷夏に歯を噛みしめさせた。
「あなたが、溶かした人たちの……!」
ペンダントの魔力が、メロウの魔力に変換されていくのが、嫌なぐらい冷夏にはわかった。




