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蹄煮込み、経験を喰らう――牛好きの少年は「死」を食べて強くなる  作者: メイ
第二章:言葉を探す少年

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第55話:夜に溶ける声と、『涙』の令嬢

「なに? 西芳寺さいほうじさん」


「実は私ね…………いなくなった友達を探しにきたの」


 西芳寺さんのトーンが、すっと落ち着いたのがわかる。


 僕は小さく揺れる火を見ながら、言葉を返した。


「友達?」


瑠衣るいって子。学園からは『家庭の事情で転校した』って発表されたけど……それっきり連絡がとれなくなって」


 焚き火の赤が、西芳寺さんの色素の薄い横顔を照らす。


 長い睫毛が、寂しそうに揺れた。


「だからここに来たの。ここに瑠衣るいが訪れた可能性があるから、何か手がかりがあるんじゃないかと思って」


 炎に縁取られて、彼女の声が、わずかに震えた。


「でも……」


 気配が変わった気がした。


「こんな怖い魔物がいるなんて思わなくて……」


 そう言って、彼女の瞳が湿っていく。


「私、なんて見通しが甘いのかしら……だめな女ね……」


 その言葉を、肯定も否定もしたくなかった。

 ここで下手に反応したら、ダメな気がした。


「だからね、鴨葱くん……」


 彼女の頬が、赤くなる。


「私を助けてほしい……」


 彼女はそう言って、僕の小指をやさしく握った。


 そのタイミングで、彼女の瞳から大粒の涙が一粒こぼれ落ちる。


 焚き火に照らされて、綺麗だった。


「西芳寺さん……」


「もちろん、タダとは言わないわよ……」


 彼女は僕の手に指を、やさしく這わせるように絡ませた。

 西芳寺さんの左手と、僕の右手が、恋人つなぎになる。


「私はこう見えても、しっかり〈迦導国かどうこく〉の令嬢なの。だから未来の旦那様を満足させるためにも――」


 細くてやわらかい感触が、ぐっと僕の手を握った。


「夜伽の心得もあるわ」


 そう言って、彼女はゆっくりと舌を出した。


 不快じゃない困惑と、支配欲のような馴染みのない渇きと衝動が、背骨を走る。

 ……僕はこの感覚を、まだよく知らない。


「ねえ、鴨葱くん……」


 琥珀色の瞳が揺らめく。


 捕食者に睨まれた獲物のように、僕の体が固まった気がした。


 心臓のリズムが少し速くなる。


 思わず、生唾を飲んだ。


「……協力してくれたなら、私のことを好きにしてくれて構わないわよ」


「そ、それは……」


 彼女は僕の左手を、自分の赤くなった頬に添える。

 やわらかい感触と、熱い体温が伝わる。


 ずっと触れてきた実家の牛たちとは違うぬくもり。


「ほら、私の頬が赤らんでるのがわかる? ……ドキドキしてるの」


 彼女の頬に添えられた僕の親指を、彼女は咥えて、ちゅぱ、と舐めた。


 ――不意だった。

 あまりに柔らかくて、温かくて、ぬめるような感触に――。


「西芳寺さんっ!?」


 咄嗟に手を引いた。


 西芳寺さんの表情は、依然として妖しい。


 頬は赤くなり、目はとろーんとしている。

 唇は湿り気を含んで、艶やかで、ぷっくりとしている。


 それらが、ゆらめく火に照らされて、じわじわと何かに「そそられる」ような気分になる。


「――ふふ、鴨葱くんってうぶなのね。かわいい」


 西芳寺さんの人差し指が、僕の胸の上に乗った。

 そのまま胸から首にかけて、つう、とやさしく這う。


 ――ゾク。


 今度は、耳の裏まで、くるくると指が這っていく。


 ――ゾクゾク。


(このままじゃだめだ! 拒否しないと……!)


 そう思っているはずなのに、不快になるどころか、抗う気力をまるで吸い取られていくような感覚があった。


 西芳寺さんの手が、僕の頬にやさしく添えられる。


 そのまま、ゆっくりと。


 西芳寺さんの顔が、僕の顔に近づいてくるのがわかった。


 艶やかな唇に、視界を吸い込まれる。


 やばい。


 このままじゃ――。


「きゃあっ!?」


 西芳寺さんの悲鳴が上がる。


「……あ、ごめん!」


 目の前には、尻餅をつく西芳寺さんの姿があった。


 不意に僕は、西芳寺さんを突き飛ばしてしまったらしい。


「ちょ、ちょっとびっくりしちゃって……あの、こういうのはその、まず知り合って、大事にしたい人とそういうことした方が……」


「――今のは私が悪いわね」


 西芳寺さんのその声だけ、反省しているように聞こえた。


 ただ、それも一瞬だけ。


「でもね、鴨葱くん。友人が失踪したのは本当なの」


 空気がまた引き戻される。


「だから鴨葱くん、お願い――」


 みるみるうちに、涙が溜まっていく。

 肩が震え、睫毛が濡れ、光を弾く。

 涙が瞳から溢れるように滴った。


 それはまさしく――。


「助けて」


 ――完璧な「可哀想で妖艶な美少女」の仕草だった。


 そう。


 ……あまりにも完璧すぎた。


 僕は思わず、言葉を呑む。


『……ケッ! あのクソハーフエルフ! 怪しいとこだな』


 ざらつく声が脳内で響く。

 オーガだ。


『特に涙管の収縮が不自然極まりねえな。斬り捨てちまうか?』


『気安く性を売る令嬢なぞ焼き払うがいい。灰にするのが一番だ』


 ヴァンデルも過激なことを言い出した。


 犬猿の仲であるはずのふたりが、物騒な意見で一致する。


 ほんとはこいつら、仲いいんじゃないか。


『アハハ! いいじゃん、あの冷夏って子! シノビのクノイチも、色気と毒はしっかり組み合わせて使うからねえ。自分を犠牲にしてでも友達を助ける演技と気概、アタシは嫌いじゃないよっ! 頬を赤らめる技術も高くてよし!』


 ジュリアが、クノイチらしい評価をする。


 あれが演技でも、確かに覚悟は本物だったと思う。


『クク……宿主ホストよ、よく見てごらン。彼女の涙の塩分濃度……悲嘆による分泌じゃあないイ。これは、眼球の乾燥を防ぐための生理反射を、魔力で無理やり増幅したものダ。毒を食らわば皿まで《オーバードーズ》……彼女もなかなかの狂気を孕んでいるネエ……あアッ! 実に、舐めたイッ!』


 レクターが愉快そうに笑う。

 ……その様子が、相変わらず気持ち悪い。


 けれど。


 英雄たちのガヤを差し引いても、僕の中に残る感覚は同じだった。


 四者四様の意見は、確かに僕の感覚も肯定してくれている。


 彼女のふるまいは自然に見えた。


 でも――。


(――噛み合っていない違和感がすごい……)


 僕なりに培ってきた観察眼が、彼女の表情を「ひとつの感情」としてではなく、複数の“部位”として分解して捉えてしまう。


 涙の量。

 頬の強張り。

 呼吸の間。


 人の感情は、肉の火入れに少し似ている。


 表面だけなら、いくらでもそれらしく整えられる。

 焼き色をつけることも、香りを立てることもできる。

 でも、芯に熱が入っているかどうかは、切ってみなくてもわかることがある。


 指で押したときの返り。

 滲む脂。

 ほんのわずかな弾力。


 彼女の泣き顔には、それがなかった。


 その泣き顔は、まるで――熟成の足りない安物の肉のようだった。

 表面だけは整っているのに、芯に「本音」という脂が、まるで乗っていない。


 だから僕は、いきなり断じる代わりに、一度だけ確かめることにした。


「……西芳寺さいほうじさん」


 声の温度を落とす。

 できるだけ目は、優しくあるように心がけた。


 傷つけたいわけじゃない。

 ただ――確かめたいだけだ。


「その泣き顔……変だよ」


 彼女の肩が、ぴくりと揺れる。


「筋繊維の使い方が不自然なんだ。本当に悲しい時は、もっと目尻の筋肉が緩む。……実家の牛さんだって、もう少しマシな泣き真似をするよ」


 西芳寺さんの涙が、ぴたりと止まった。


 焚き火が、ぱちりとぜる。

 その乾いた音だけが、二人の間を埋めていた。


 数秒。


 彼女は伏せていた視線を、ゆっくりと持ち上げる。


「……最悪」


 彼女は吐き捨てるように、そう言った。


「【闇属性】の男に、筋肉の動きで嘘泣きを見抜かれるなんて」


 乱暴に涙を拭い去ると、彼女は一転して、鋭い牙を剥くような笑みを浮かべた。


「色気も泣き落としも通用しない男……上等じゃないの」


 泣き落としをしていた少女の顔では、もうなかった。


「いいわ。ここからは小手先のテクニックなんて使わない。まっすぐ言うわね」


「……なに」


鴨葱かもねぎ焔乃士ほのじ。取引しましょう」


「……取引?」


「ええ。この竜息山りゅうそくざんに入ったことは、学園に内緒にしてあげるわ」


「うん? ……それは嬉しいけど、それ取引になってる? だって禁足地に踏み入れたのは、西芳寺さんも一緒でしょ」


「――馬鹿ね。一緒じゃないわよ」


 西芳寺さんは、あきれたように肩をすくめた。


「私は『西芳寺さいほうじ』の令嬢。残念だけれど、この山の持ち主にすごく顔が効くの。そして学園にもね。だから、あなたと私じゃ情報の価値が非対称なのよ」


「価値が非対称……だから、西芳寺さんは平気ってこと?」


「そうね。私も完全に無傷では済まないかもしれないけれど、せいぜい小さな火傷で数日の謹慎ってところが関の山ね」


 その声は淡々としていた。


「でもあなたは、間違いなく火達磨ひだるまになるわ。一発アウトの退学だってありえる。それでも私とあなたが一緒だと思うなら、試してみてくれてもいいのよ?」


 西芳寺さんは、焚き火を指さした。


 うん、これはどう考えてみても――。


(脅しってやつだね)


 けれど、ただ怖がらせるための言葉じゃない。

 彼女は本当に、それができる立場にいるのだと思った。


「……わかった、僕の負け。その取引ってやつを聞かせて」


「あなたのその『解体』の技術――それを、私の友達を助け出すために使いなさい」


「え、でも……友達って転校したんじゃ――」


「そんなの嘘に決まってるでしょ」


 西芳寺さんが、すっと立ち上がる。


「彼女はまだ、どこかで……生きてる」


「……なんで、そう思うの?」


「不自然だわ」


 西芳寺さんの声が、わずかに低くなる。


「私に一言もなくいなくなるなんて、変よ。どんな理由があったら、そんなことするのよ……」


 そう言いながら、彼女は歩き出す。


 さっきまでの作り物めいた笑みとは違う。

 今の横顔は、怒っているようにも、泣くのを我慢しているようにも見えた。


「私が集めた情報によると、瑠衣るいは、竜息茸ドラゴンマッシュが欲しくて〈竜息山りゅうそくざん〉に入った可能性があるの」


 西芳寺さんは、そこで一度だけ足を止めた。


しゃくだけど、ヴィオレッタにも念押しされたから間違いない。ここに手がかりがあるはずよ」


「手がかり……なるほど」


「それで、どうなのよ?」


「え」


「え、じゃなくて。取引、どうするのよ」


「えーと、その」


 僕は、目の前に立つ西芳寺さんを見る。


 協力したい気持ちはある。


 でも、ここは。


「――保留じゃだめかな」


「ほ、保留? あなた……ふざけてるの?」


 西芳寺さんの眉が、ぴくりと跳ねた。


「うーん、協力したいけれど、でも冷夏さんの本音がまだ見えないから、今はなんとも」


「バ、バカじゃないの。普通に瑠衣のことを助けたいのは本音よ」


「確かに、助けたいの『は』本音なんだろうけど……」


「なら――」


「でもなぁ、なんかしっくりこないんだよね。もう少し冷夏さんのことを知った後でもいいかな?」


「……意味がわからないわ」


「あはは、僕にもよくわからないよ」


 自分でも、うまく説明できない。


 ただ、ここで取引として頷いてしまうのは、なにか違う気がした。


「あ。でも、西芳寺さいほうじさんが今日やろうとしてたことなら協力できるかもだよ。何をしたかったの?」


「……私は瑠衣るい竜息茸ドラゴンマッシュを取りに来て何がしたかったか、その痕跡を探りたいわね」


「なら、西芳寺さんも群生地に行くってわけだね。それならなおさら協力できるよ」


「それは嬉しい申し出だけれど――本当に保留でいいのかしら」


 西芳寺さんは、探るように目を細めた。


「私、あなたのことを学園にバラすかもしれないわよ?」


「――ないよ」


「……ない?」


「西芳寺さんは、そんなことしない」


「……なぜそんなことが言えるのかしら」


「短い間だけどわかるよ。嘘をついて、僕のことを騙そうとして、利用しようとしたかもしれない。けど、必要以上に傷つけようとしてるわけじゃない」


 西芳寺さんの視線が、ほんの少しだけ揺れた。


「たとえば、さっきの『お色気大作戦』だって、あれ、本当に協力しようとしたら、西芳寺さんは実行する気だったでしょ?」


「……それはそうね」


「ほら。約束は守ろうとしてるじゃん」


「いいわ。『お色気大作戦』って名前は少し不服だけれど、別にそれを求めるなら応えることもできる……」


 彼女は、わざとらしく髪を耳にかけた。


「その代わり、協力はしっかりしてもらうけど――」


「ストップストップ西芳寺さん! 変な方向に進めないで! 僕にそんなつもりはないよ!」


 慌てて両手を振ると、西芳寺さんは意外そうな顔をした。


 この人、僕を何だと思ってるんだろう。


「……それに、なんでそこまで僕の協力にこだわってるの。僕じゃなくても他に協力者を探せばいいじゃん」


「アイアン・バイソンを一撃で仕留めるところをみたのよ。腕っぷしが立つ感じがシンプルに素晴らしくていいわ」


「それが理由? 別に強い人ならたくさんいるでしょ。僕なんかよりもずっと」


「理由はそれだけじゃないの。まず、私と関わりが深すぎる人を一番の協力者にしたくないのが大きい。誰が黒幕と繋がってるかわからないから」


 西芳寺さんは、そこで少しだけ言い淀んだ。


「でも――」


 彼女は、こちらを見た。

 探るような目ではなかった。


「一番の理由は別にあるわ」


「なに?」


「私の直感」


「直感?」


「ええ、直感」


「……そっか」


「今ので納得したの……?」


「うん」


「……変な人」


 けれど、さっきまでの鋭さは少しだけ薄れていた。


「そうかな。じゃ、さっそくだけど、とりあえず群生地行っとく?」


「……そうね。時間も有限だものね」


 彼女は足元を確かめ、それから山の奥へ視線を向ける。


 その横顔は、迷いを表に出すのをやめた人のものだった。


「ちなみに、なんであなたは裏山に来たのかしら? 竜息茸ドラゴンマッシュが狙い?」


「そのとおり。僕は、牛さんのえさとしてキノコを採りに来たんだ」


「……牛さんのえさ?」


 一瞬、間が空く。


「それ、変じゃない?」


「そうかな」


「ええ、そうよ」


「そっか」


 彼女が、くすりと笑った。


「でも、少し安心したわ。色気も涙も効かなかったときはどうしようかと思ったけど――」


 西芳寺さんは、暗い森の奥へと目を向ける。


「あなた、素直な人なのね」


「まあね」


「うふふ……それをあっさり認めるのも、やっぱり変よ」


 そんな他愛ない会話を交わしながら、二人は並ぶ。


 火の始末を済ませて、僕たちは菌糸の群生地へと向かった。

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