第55話:夜に溶ける声と、『涙』の令嬢
「なに? 西芳寺さん」
「実は私ね…………いなくなった友達を探しにきたの」
西芳寺さんのトーンが、すっと落ち着いたのがわかる。
僕は小さく揺れる火を見ながら、言葉を返した。
「友達?」
「瑠衣って子。学園からは『家庭の事情で転校した』って発表されたけど……それっきり連絡がとれなくなって」
焚き火の赤が、西芳寺さんの色素の薄い横顔を照らす。
長い睫毛が、寂しそうに揺れた。
「だからここに来たの。ここに瑠衣が訪れた可能性があるから、何か手がかりがあるんじゃないかと思って」
炎に縁取られて、彼女の声が、わずかに震えた。
「でも……」
気配が変わった気がした。
「こんな怖い魔物がいるなんて思わなくて……」
そう言って、彼女の瞳が湿っていく。
「私、なんて見通しが甘いのかしら……だめな女ね……」
その言葉を、肯定も否定もしたくなかった。
ここで下手に反応したら、ダメな気がした。
「だからね、鴨葱くん……」
彼女の頬が、赤くなる。
「私を助けてほしい……」
彼女はそう言って、僕の小指をやさしく握った。
そのタイミングで、彼女の瞳から大粒の涙が一粒こぼれ落ちる。
焚き火に照らされて、綺麗だった。
「西芳寺さん……」
「もちろん、タダとは言わないわよ……」
彼女は僕の手に指を、やさしく這わせるように絡ませた。
西芳寺さんの左手と、僕の右手が、恋人つなぎになる。
「私はこう見えても、しっかり〈迦導国〉の令嬢なの。だから未来の旦那様を満足させるためにも――」
細くてやわらかい感触が、ぐっと僕の手を握った。
「夜伽の心得もあるわ」
そう言って、彼女はゆっくりと舌を出した。
不快じゃない困惑と、支配欲のような馴染みのない渇きと衝動が、背骨を走る。
……僕はこの感覚を、まだよく知らない。
「ねえ、鴨葱くん……」
琥珀色の瞳が揺らめく。
捕食者に睨まれた獲物のように、僕の体が固まった気がした。
心臓のリズムが少し速くなる。
思わず、生唾を飲んだ。
「……協力してくれたなら、私のことを好きにしてくれて構わないわよ」
「そ、それは……」
彼女は僕の左手を、自分の赤くなった頬に添える。
やわらかい感触と、熱い体温が伝わる。
ずっと触れてきた実家の牛たちとは違うぬくもり。
「ほら、私の頬が赤らんでるのがわかる? ……ドキドキしてるの」
彼女の頬に添えられた僕の親指を、彼女は咥えて、ちゅぱ、と舐めた。
――不意だった。
あまりに柔らかくて、温かくて、ぬめるような感触に――。
「西芳寺さんっ!?」
咄嗟に手を引いた。
西芳寺さんの表情は、依然として妖しい。
頬は赤くなり、目はとろーんとしている。
唇は湿り気を含んで、艶やかで、ぷっくりとしている。
それらが、ゆらめく火に照らされて、じわじわと何かに「そそられる」ような気分になる。
「――ふふ、鴨葱くんってうぶなのね。かわいい」
西芳寺さんの人差し指が、僕の胸の上に乗った。
そのまま胸から首にかけて、つう、とやさしく這う。
――ゾク。
今度は、耳の裏まで、くるくると指が這っていく。
――ゾクゾク。
(このままじゃだめだ! 拒否しないと……!)
そう思っているはずなのに、不快になるどころか、抗う気力をまるで吸い取られていくような感覚があった。
西芳寺さんの手が、僕の頬にやさしく添えられる。
そのまま、ゆっくりと。
西芳寺さんの顔が、僕の顔に近づいてくるのがわかった。
艶やかな唇に、視界を吸い込まれる。
やばい。
このままじゃ――。
「きゃあっ!?」
西芳寺さんの悲鳴が上がる。
「……あ、ごめん!」
目の前には、尻餅をつく西芳寺さんの姿があった。
不意に僕は、西芳寺さんを突き飛ばしてしまったらしい。
「ちょ、ちょっとびっくりしちゃって……あの、こういうのはその、まず知り合って、大事にしたい人とそういうことした方が……」
「――今のは私が悪いわね」
西芳寺さんのその声だけ、反省しているように聞こえた。
ただ、それも一瞬だけ。
「でもね、鴨葱くん。友人が失踪したのは本当なの」
空気がまた引き戻される。
「だから鴨葱くん、お願い――」
みるみるうちに、涙が溜まっていく。
肩が震え、睫毛が濡れ、光を弾く。
涙が瞳から溢れるように滴った。
それはまさしく――。
「助けて」
――完璧な「可哀想で妖艶な美少女」の仕草だった。
そう。
……あまりにも完璧すぎた。
僕は思わず、言葉を呑む。
『……ケッ! あのクソハーフエルフ! 怪しいとこだな』
ざらつく声が脳内で響く。
オーガだ。
『特に涙管の収縮が不自然極まりねえな。斬り捨てちまうか?』
『気安く性を売る令嬢なぞ焼き払うがいい。灰にするのが一番だ』
ヴァンデルも過激なことを言い出した。
犬猿の仲であるはずのふたりが、物騒な意見で一致する。
ほんとはこいつら、仲いいんじゃないか。
『アハハ! いいじゃん、あの冷夏って子! シノビのクノイチも、色気と毒はしっかり組み合わせて使うからねえ。自分を犠牲にしてでも友達を助ける演技と気概、アタシは嫌いじゃないよっ! 頬を赤らめる技術も高くてよし!』
ジュリアが、クノイチらしい評価をする。
あれが演技でも、確かに覚悟は本物だったと思う。
『クク……宿主よ、よく見てごらン。彼女の涙の塩分濃度……悲嘆による分泌じゃあないイ。これは、眼球の乾燥を防ぐための生理反射を、魔力で無理やり増幅したものダ。毒を食らわば皿まで《オーバードーズ》……彼女もなかなかの狂気を孕んでいるネエ……あアッ! 実に、舐めたイッ!』
レクターが愉快そうに笑う。
……その様子が、相変わらず気持ち悪い。
けれど。
英雄たちのガヤを差し引いても、僕の中に残る感覚は同じだった。
四者四様の意見は、確かに僕の感覚も肯定してくれている。
彼女のふるまいは自然に見えた。
でも――。
(――噛み合っていない違和感がすごい……)
僕なりに培ってきた観察眼が、彼女の表情を「ひとつの感情」としてではなく、複数の“部位”として分解して捉えてしまう。
涙の量。
頬の強張り。
呼吸の間。
人の感情は、肉の火入れに少し似ている。
表面だけなら、いくらでもそれらしく整えられる。
焼き色をつけることも、香りを立てることもできる。
でも、芯に熱が入っているかどうかは、切ってみなくてもわかることがある。
指で押したときの返り。
滲む脂。
ほんのわずかな弾力。
彼女の泣き顔には、それがなかった。
その泣き顔は、まるで――熟成の足りない安物の肉のようだった。
表面だけは整っているのに、芯に「本音」という脂が、まるで乗っていない。
だから僕は、いきなり断じる代わりに、一度だけ確かめることにした。
「……西芳寺さん」
声の温度を落とす。
できるだけ目は、優しくあるように心がけた。
傷つけたいわけじゃない。
ただ――確かめたいだけだ。
「その泣き顔……変だよ」
彼女の肩が、ぴくりと揺れる。
「筋繊維の使い方が不自然なんだ。本当に悲しい時は、もっと目尻の筋肉が緩む。……実家の牛さんだって、もう少しマシな泣き真似をするよ」
西芳寺さんの涙が、ぴたりと止まった。
焚き火が、ぱちりと爆ぜる。
その乾いた音だけが、二人の間を埋めていた。
数秒。
彼女は伏せていた視線を、ゆっくりと持ち上げる。
「……最悪」
彼女は吐き捨てるように、そう言った。
「【闇属性】の男に、筋肉の動きで嘘泣きを見抜かれるなんて」
乱暴に涙を拭い去ると、彼女は一転して、鋭い牙を剥くような笑みを浮かべた。
「色気も泣き落としも通用しない男……上等じゃないの」
泣き落としをしていた少女の顔では、もうなかった。
「いいわ。ここからは小手先のテクニックなんて使わない。まっすぐ言うわね」
「……なに」
「鴨葱焔乃士。取引しましょう」
「……取引?」
「ええ。この竜息山に入ったことは、学園に内緒にしてあげるわ」
「うん? ……それは嬉しいけど、それ取引になってる? だって禁足地に踏み入れたのは、西芳寺さんも一緒でしょ」
「――馬鹿ね。一緒じゃないわよ」
西芳寺さんは、あきれたように肩をすくめた。
「私は『西芳寺』の令嬢。残念だけれど、この山の持ち主にすごく顔が効くの。そして学園にもね。だから、あなたと私じゃ情報の価値が非対称なのよ」
「価値が非対称……だから、西芳寺さんは平気ってこと?」
「そうね。私も完全に無傷では済まないかもしれないけれど、せいぜい小さな火傷で数日の謹慎ってところが関の山ね」
その声は淡々としていた。
「でもあなたは、間違いなく火達磨になるわ。一発アウトの退学だってありえる。それでも私とあなたが一緒だと思うなら、試してみてくれてもいいのよ?」
西芳寺さんは、焚き火を指さした。
うん、これはどう考えてみても――。
(脅しってやつだね)
けれど、ただ怖がらせるための言葉じゃない。
彼女は本当に、それができる立場にいるのだと思った。
「……わかった、僕の負け。その取引ってやつを聞かせて」
「あなたのその『解体』の技術――それを、私の友達を助け出すために使いなさい」
「え、でも……友達って転校したんじゃ――」
「そんなの嘘に決まってるでしょ」
西芳寺さんが、すっと立ち上がる。
「彼女はまだ、どこかで……生きてる」
「……なんで、そう思うの?」
「不自然だわ」
西芳寺さんの声が、わずかに低くなる。
「私に一言もなくいなくなるなんて、変よ。どんな理由があったら、そんなことするのよ……」
そう言いながら、彼女は歩き出す。
さっきまでの作り物めいた笑みとは違う。
今の横顔は、怒っているようにも、泣くのを我慢しているようにも見えた。
「私が集めた情報によると、瑠衣は、竜息茸が欲しくて〈竜息山〉に入った可能性があるの」
西芳寺さんは、そこで一度だけ足を止めた。
「癪だけど、ヴィオレッタにも念押しされたから間違いない。ここに手がかりがあるはずよ」
「手がかり……なるほど」
「それで、どうなのよ?」
「え」
「え、じゃなくて。取引、どうするのよ」
「えーと、その」
僕は、目の前に立つ西芳寺さんを見る。
協力したい気持ちはある。
でも、ここは。
「――保留じゃだめかな」
「ほ、保留? あなた……ふざけてるの?」
西芳寺さんの眉が、ぴくりと跳ねた。
「うーん、協力したいけれど、でも冷夏さんの本音がまだ見えないから、今はなんとも」
「バ、バカじゃないの。普通に瑠衣のことを助けたいのは本音よ」
「確かに、助けたいの『は』本音なんだろうけど……」
「なら――」
「でもなぁ、なんかしっくりこないんだよね。もう少し冷夏さんのことを知った後でもいいかな?」
「……意味がわからないわ」
「あはは、僕にもよくわからないよ」
自分でも、うまく説明できない。
ただ、ここで取引として頷いてしまうのは、なにか違う気がした。
「あ。でも、西芳寺さんが今日やろうとしてたことなら協力できるかもだよ。何をしたかったの?」
「……私は瑠衣が竜息茸を取りに来て何がしたかったか、その痕跡を探りたいわね」
「なら、西芳寺さんも群生地に行くってわけだね。それならなおさら協力できるよ」
「それは嬉しい申し出だけれど――本当に保留でいいのかしら」
西芳寺さんは、探るように目を細めた。
「私、あなたのことを学園にバラすかもしれないわよ?」
「――ないよ」
「……ない?」
「西芳寺さんは、そんなことしない」
「……なぜそんなことが言えるのかしら」
「短い間だけどわかるよ。嘘をついて、僕のことを騙そうとして、利用しようとしたかもしれない。けど、必要以上に傷つけようとしてるわけじゃない」
西芳寺さんの視線が、ほんの少しだけ揺れた。
「たとえば、さっきの『お色気大作戦』だって、あれ、本当に協力しようとしたら、西芳寺さんは実行する気だったでしょ?」
「……それはそうね」
「ほら。約束は守ろうとしてるじゃん」
「いいわ。『お色気大作戦』って名前は少し不服だけれど、別にそれを求めるなら応えることもできる……」
彼女は、わざとらしく髪を耳にかけた。
「その代わり、協力はしっかりしてもらうけど――」
「ストップストップ西芳寺さん! 変な方向に進めないで! 僕にそんなつもりはないよ!」
慌てて両手を振ると、西芳寺さんは意外そうな顔をした。
この人、僕を何だと思ってるんだろう。
「……それに、なんでそこまで僕の協力にこだわってるの。僕じゃなくても他に協力者を探せばいいじゃん」
「アイアン・バイソンを一撃で仕留めるところをみたのよ。腕っぷしが立つ感じがシンプルに素晴らしくていいわ」
「それが理由? 別に強い人ならたくさんいるでしょ。僕なんかよりもずっと」
「理由はそれだけじゃないの。まず、私と関わりが深すぎる人を一番の協力者にしたくないのが大きい。誰が黒幕と繋がってるかわからないから」
西芳寺さんは、そこで少しだけ言い淀んだ。
「でも――」
彼女は、こちらを見た。
探るような目ではなかった。
「一番の理由は別にあるわ」
「なに?」
「私の直感」
「直感?」
「ええ、直感」
「……そっか」
「今ので納得したの……?」
「うん」
「……変な人」
けれど、さっきまでの鋭さは少しだけ薄れていた。
「そうかな。じゃ、さっそくだけど、とりあえず群生地行っとく?」
「……そうね。時間も有限だものね」
彼女は足元を確かめ、それから山の奥へ視線を向ける。
その横顔は、迷いを表に出すのをやめた人のものだった。
「ちなみに、なんであなたは裏山に来たのかしら? 竜息茸が狙い?」
「そのとおり。僕は、牛さんのえさとしてキノコを採りに来たんだ」
「……牛さんのえさ?」
一瞬、間が空く。
「それ、変じゃない?」
「そうかな」
「ええ、そうよ」
「そっか」
彼女が、くすりと笑った。
「でも、少し安心したわ。色気も涙も効かなかったときはどうしようかと思ったけど――」
西芳寺さんは、暗い森の奥へと目を向ける。
「あなた、素直な人なのね」
「まあね」
「うふふ……それをあっさり認めるのも、やっぱり変よ」
そんな他愛ない会話を交わしながら、二人は並ぶ。
火の始末を済ませて、僕たちは菌糸の群生地へと向かった。




