第53話:よかったら、お肉食べる?
……静かすぎる。
虫の声が、ほとんど聞こえない。
(……あれ?)
土を踏むたび、靴底からじんわりと熱が伝わってくる。
夜だというのに、地面がぬるい。
呼吸をすると、喉の奥がわずかにひりついた。
(気のせい……じゃないよね?)
足を止めた、その時だった。
――ガサァッ!!
ジャーキーによってブーストされた振動探知が、茂みの奥の「質量」と「殺気」を捉えた。
「……え?」
次の瞬間。
――ガァァアアアッ!!
「ヒィッ……! 出たぁぁ!」
月明かりを裂くように、巨体が飛び出してくる。
全身を鋼鉄の毛皮で覆われた魔獣――鋼鉄毛皮牛。
SV二五〇級。
基準兵換算で二十五名分。
あのハクゲツ成体とほぼ変わらない等級だ。
筋肉の塊みたいな体躯が地面を踏み鳴らし、低く重い咆哮が腹の底に響いた。
油断していたら、反応すらできずに吹き飛ばされていただろう。
当たり所を間違えたら――一撃で終わる。
『焼き払え、小僧。塵も残さぬのが魔法の美学だ』
『斬れッ! 物理で叩き伏せンのが一番手っ取り早えッ!』
『おい。野蛮人。貴様が我と同じ世代でなくて助かったな?』
『ア? オメエが先に死ぬからか?』
オーガとヴァンデルが、主導権を奪い合い始める。
喧嘩はまだ続行中のようだ。
物理至上主義と魔法至上主義。
究めた者同士、相性はずっと最悪だ。
「うるさいなもう!」
叫びながら、僕は一歩後ずさった。
目の前のバイソンよりも、頭の中のほうが騒がしい。
「僕は……僕のやり方でやる!」
腰の肉切り包丁を抜く。
判定は、最低ランクの汎用魔具。
要するに、魔導具としてはほぼ価値ゼロの包丁だ。
刀鍛冶だった職人がこしらえた一点物ではある。
けれど、動力源となる魔煌玉が埋め込まれていないため、現代の基準ではただの鉄くず――Eランクの調理器具扱いだ。
魔力伝導率が低いから、ナマクラ。
古代兵器に干渉できないから、ゴミ。
そう見下されるのも、当然っちゃ当然かもしれない。
けれど。
鋼を何万回と叩き上げて作られたこの刃の、包丁としての切れ味は抜群だ。
それに、いいんだ。
だってこれは、そもそも「武器」じゃないから。
魔獣を殺すためでも、戦争をするためでもなく――美味しくご飯を作るための道具だ。
だから今、僕が相手にするのは、倒すべき敵じゃない。
これから血肉としていただく、尊い「命」だ。
『あくまで、調理人のスタンスなのだな』
脳内で、ガンテツが静かに独りごちる。
そこにはもう、呆れも嘲笑もない。
あるのは職人に対する、静かな承認だけだった。
「……うん。そのとおり」
英雄たちの力じゃない。
実家で、何百回も生き物と向き合ってきた――生きるためのやり方。
僕は、腰のランプを外した。
揺れる光の中で、そっと地面に置く。
暗いままじゃ――見えない。
解体が示す“道筋”は、影の奥では沈んでしまう。
振動探知とのコンボがあれば、どうにかならないこともない。
けれど、あれは正直疲れるし、多大な集中力がいる。
そもそも狙ってやるのは難しくて、いつだってできるわけじゃない。
だから、ここは光に甘える。
(命を――いただきます)
生粋魔法・調理――解体。
――スッ。
世界からノイズが消え、視界が極限まで研ぎ澄まされる。
筋肉の走り。
骨格の支え。
どこに刃を入れれば、苦しませずに命を絶てるか。
ランプの光が獣の輪郭を撫でた瞬間――“それ”が浮いた。
白黒の世界の中で、光るように走る赤い切断線。
光に照らされた部分だけ、刃の通る道筋が地図みたいに現れる。
鋼鉄の皮膚?
関係ない。
いくら硬くても、構造は生命体だ。
関節があり、腱があり――必ず、刃の通る「隙間」がある。
解体は、その隙間を可視化してくれる。
どこに刃を入れれば通るのか。
そこにはっきりと、赤い切断線が走っていた。
幸いなことに、実家の近くには鋼鉄毛皮牛がよく出没する地域があった。
何度か狩った経験もある。
だから、手の動きは迷わない。
包丁を、構造の弱い隙間へ差し込む。
そして、一気に引く……!
(ここだ!)
薄い隙間の頸動脈に刃が通った瞬間、鋼鉄毛皮牛の体から、ふっと力が抜けた。
ドサァァァッ……!
重たい音を立てて、巨体が崩れ落ちる。
そこに残ったのは、血の匂いと、獣の余熱だけだった。
「はぁ……はぁ……」
息が上がる。
集中しすぎて、視界の端が白く滲んでいた。
だが、終わったわけじゃない。
次は、本格的に解体に進む。
そのまま解体を維持して、関節を外すように、肉を切り分けていく。
気づけば、目の前には綺麗に部位分けされた肉塊が横たわっていた。
重労働の証みたいに、額から汗が滴り落ちる。
……さっきまで、怖かったはずなのに。
「……美味しそうなのが、困るなあ」
思わず、そんな感想が漏れた。
ロース肉にたっぷり入ったサシが、月明かりを受けて、しっとりと輝いて見える。
だが、すぐに首を振る。
遊びじゃない。
「……先に、血を抜こう」
僕は切り分けた肉を担ぎ、近くを流れる細い川まで運んだ。
冷たい水に足を入れ、流れの緩やかな場所を選ぶ。
切った動脈の口を、川の流れに浸す。
赤黒い血が、水の中へゆっくりと溶けていく。
焦らない。
強く揉みもせず、無理に絞りもしない。
命の名残を、魔力の残滓とともに、自然に外へ流していく。
やがて水が澄み、肉から、生き物だった頃の熱が静かに抜けていった。
「……よし」
僕は川辺で軽く水気を切り、切り分けた肉を改めて並べ直した。
「生粋魔法・調理――食糧保存」
シュンッ。
次の瞬間、肉が淡く光る。
サイズも、腐敗の進行も、百分の一へと圧縮されていく。
音もなく、あらかじめ用意していた親指サイズの小瓶へと収まっていった。
一本。
また一本。
小さなガラス瓶が、川辺に並んでいく。
そこにはそれぞれ、『肩肉』『腿肉』『内臓《可食》』『脂身』『牛骨』と、簡潔なラベルが自動的に印字される。
――癖だ。
実家でも、こうして管理していた。
今すぐ食べる分だけを残し、残りをリュックへしまい込む。
ようやく一息ついて、僕は周囲を見渡した。
地面が、やっぱり温い。
足元の土をよく見ると、細い紫色の菌糸が、根を張るみたいに広がっている。
(これは……)
木々の奥。
直接は見えないが、紫色の光がかすかに瞬いていた。
……ほんのり赤いのも、気のせいじゃないだろう。
――近い。
そう確信した瞬間、胸の奥がぞわりと熱を帯びた。
同時に、背中の皮膚がひくりと粟立つ。
(……あれ?)
さっきまで、確かに一人だった。
足音も、気配も、なかった。
それなのに――。
“見られている”感覚だけが、はっきりとある。
音のような微細な振動も、今の僕には拾えてしまう。
違和感に気づくのが遅れたのは、振動探知に意識を割きすぎていたせいかもしれない。
空気が、わずかに歪んだ気がした。
……間違いない。
僕以外の“鼓動”を、トクトクと感じる。
息を殺す。
ゆっくりと振り返る。
一人の女の子と目が合った。
「たしか……鴨葱くんと言ったかしら?」
バリィィッ! と、雷に打たれたような感覚が奔った。
月光に照らされ、肩口まで届く黒髪が、夜風に乗って静かに揺れている。
色素の薄い肌が、夜闇のなかで白く浮かび上がって見えた。
膝上できちんと整えられたプリーツスカート。
正確に結ばれた濃紺のリボン。
ボタンはきっちり全部留まっていて、まくれた袖も、緩めた首元もない。
装飾の少ない制服を一分の隙もなく着こなし、細身の体躯は、夜の山中でも一切ぶれていない。
その立ち姿は、偶然居合わせた人間というより――最初から「そこにいた観察者」のようだった。
横に流された黒髪の合間から、耳の輪郭がわずかに覗く。
先が、少しだけ尖っていた。
「これ、あなたがやったの?」
感情の波が注意深く均されたような声。
言葉の終わりが、冷たく切り落とされるように途切れる。
――この子、社交辞令で濁す気が一ミリもない。
彼女の琥珀色の瞳が、光ったように見えた。
その視線は、僕ではなく――解体され、いまは瓶詰めにされた獲物の断面へ、正確に向けられていた。
内側から、ほんの一瞬だけ、琥珀が輝度を増したように見える。
名前は知らない。
でも、その顔には見覚えがある。
たしか入学試練の日、同じクラスで――【属性】が決まったあと、怪訝な眼差しを向けてきた人だ。
『ご主人様、焦ってはいけません。彼女の心拍数は110……驚愕の数値ですが、視線はすでにあなたの「手」ではなく「獲物の断面」に固定されていますわ。論理的に見て、彼女はあなたの実力に“期待”している可能性があります』
『アハハ! ホノちゃん、あの子めちゃくちゃ美人じゃん! ホノちゃんにも春来ちゃった? 夜這いと間違えられたら大変だねっ!』
(ジュリア、今そんな冗談いらないから!)
僕は震える声で、言い訳を探した。
密猟者と間違われたか?
変質者だと思われたか?
禁足地にいるせいで、学園に知らされるか?
なら、どう説明する。
ふらふら歩いていたら、気づいたらここにいました――とでも言うべきか?
バカ。
通るわけがない。
(クソっ! どう切り抜けるっ!?)
そんな僕の焦りを無視するように――。
――ぐぅ~~~。
静かな森に、可愛らしくも情けない音が響いた。
お腹が、鳴ったのだ。
「……え?」
……僕のお腹じゃない。
犯人は――。
「な、何よ」
目の前にいる、女の子だった。
「せ、生理現象だから。気にしないで」
すました顔でそう言うものの――。
ぐぅ~~~~っ。
もう一度。
さっきよりも長い。
さっきよりも大きい。
さっきよりも、情けない。
そして、不意に訪れる沈黙。
女の子の顔が、ツンと伸びた耳の先まで真っ赤に染まっていく。
さっきまで僕に向けられていた冷たい眼差しが、少しずつ横へ逸れていった。
「……その、えっと」
僕は震える声のまま、けれど反射的に口を開いていた。
「よかったら、お肉食べる?」




