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蹄煮込み、経験を喰らう――牛好きの少年は「死」を食べて強くなる  作者: メイ
第二章:言葉を探す少年

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第52話:空白の領域

 深夜。

 月明かりの下。


 自宅を出て、街の夜道を小走りで駆け抜けていく。


 まだ家々には灯りが残っている。


 夕飯の残り香が、夜気にほどけて漂ってきて――シチューや焼き魚の匂いが、思わずきびすを返せとささやいている気さえした。


(……でも、僕が求めてるのは最高のミルクだ! そして、その源泉となるキノコ!)


 信念にも似た執着を胸に刻み込んだおかげか、足取りは意外と軽い。


 リュックの中には、空の小瓶と、万が一のための調味料。

 そしてポケットには、『ハクゲツジャーキー』の小瓶が入っている。

 

 ――道は、やがて見慣れた牧草地の脇へと続いていく。


 手をかけてリメイクした柵。

 ボロボロの牛舎の影。


 〈旧・ブラックウッド牧場跡地〉。


 僕の牧場だ。

 僕が手に入れたこの牧場跡地は、竜息山りゅうそくざんのすぐ隣に位置している。


 偶然ではある。

 けれど、これを利用しない手はない。


 竜息山へ入るルートはいくつかあるらしいけど、学園側やロイさんの牧場側から入れば、誰かに見つかる可能性がある。


 心苦しいけれど、もっともリスクの低いこの牧場跡地を通らせてもらうしかなかった。


 ここを通ると、胸の奥が一瞬だけほっとして――同時に、罪悪感が重くなる。


(……ごめん、ロイさん。約束、破ってる)


 足を止めたら負けだ。

 僕は牧場の横をすり抜けるように歩いた。

 

 その時。

 ……見られた気がした。


 ボロボロの牛舎の方角。

 そこに、誰かの“目”があったような――。


 人の立つ高さだった。

 それだけで、背中がぞわりとする。


 黒い輪が、一瞬だけ鈍く光った気がした。

 けれど次の瞬間には、闇だけが残っている。


(……気のせい、だよね?)


 そうだ。

 こんな牧場跡地に、誰かがいるわけがない。


 夜もだいぶ更けている。

 夜の静けさは、いろんなものを大げさに感じさせる。


 自分がビクビクしているだけだ。

 そう思い込む。


 なのに、背中の皮膚は、ほんの少しだけ粟立っていた。


 僕は歩きながら、小瓶から『ハクゲツジャーキー』をひとかけら取り出し、口に放り込んだ。


 硬い繊維を唾液で少しふやかしてから、ゆっくり噛みちぎる。


 強烈なスパイスの刺激と、濃厚な旨味が脳天を突き抜けた。


 瞬間――意識の霧が晴れ、思考の回転数が跳ね上がる。


 視界が明るくなったわけじゃない。

 けれど、風の音、木の葉が擦れる音、足裏に伝わる地面の微細な凹凸おうとつ――そのすべてが、鮮明な情報として脳へ流れ込んでくる。


 これは単なる眠気覚ましじゃない。


 僕の意識を強制的に深い集中状態ゾーンへ叩き込む、思考のブースターだ。

 この極限まで研ぎ澄まされた集中力があれば、ハクゲツ戦で無意識に使っていた「振動を探知する感覚」も、慣れたとはいえ、さらに繊細にコントロールできる。

 闇夜の山道なんて、今の僕には昼間の散歩道と同じ――そう思えるほどに。


 ルミタがあれば、もっと楽だったのかもしれない。


 しかし、ルミタは橙馬とうまと一緒に、もう食べ尽くしてしまっている。


 ……ルミタ、美味しかったな。

 ミネルヴァも、喜んでくれて良かったな。


 なくなったら買えばいいじゃない、という考えが一瞬浮かんだけれど、すぐに泡のように消えた。


 一個二銀貨もするルミタを、そうやすやすと買えるほどのお金はない。

 改めて、椿君が三個もくれたことへの感謝が大きくなる。


 そもそも、ジャーキーの効果を使えているだけでも充分にラッキーだ。


 もう一欠片、噛みたい。

 そんな衝動が、喉の奥に湧いた。

 僕は首を振って、瓶の蓋を強く閉める。


 効きすぎるものは、使い方を間違える。

 食べすぎれば、集中力が切れたあと、反動みたいに疲れがどっと来るから。


 そして。

 ひたすら歩いて、十分も経たない頃。


 木々が濃くなり、道が細くなる。

 草の背が急に高くなり、湿った土の匂いが混ざってきた。


 目の前に、ぽっかりと口を開けたような闇がある。

 人の背丈ほどの木々が密集し、その奥は見えない。


 ――ここが、竜息山りゅうそくざんの入り口か。

 

 喉が鳴る。

 興奮じゃない。

 乾きに近い。


 僕は一度だけ、深呼吸をした。

 吸い込んだ空気が、ほんの少しだけぬるく感じる。


(……行くぞ)


 裏山の茂みをかき分け、景色の変わらない木々のあいだへ踏み込んでいく。

 枝葉が頬をかすめるたび、湿った土と草の匂いが鼻をついた。


 歩みを速めながら、僕は頭の奥へ意識を向ける。


「ねえ、ミネルヴァ。このまままっすぐ行けばいいんだよね?」


『ええ』


 脳内の景色で、ミネルヴァが静かに眼鏡の位置を直す。


 彼女の前には、新聞に載っていた地図が広げられていた。

 ミネルヴァは、現実で僕が触れたものを記憶し、脳内で再現できる。


『新聞に載っていた地図によると、竜息山の奥に、詳細が描かれていない領域エリアがありました。単に測量が不十分な可能性もあります。ですが、他の領域エリアはかなり細かく記載されていた。ならば、この空白はむしろ目立つ。……不自然ですわ』


 ミネルヴァが、地図の空白部分へ指先を置く。


『描かれていないことで、逆にそこだけが浮かび上がっている。まるで、能動的に向かわせたくない何かを隠蔽カモフラージュしているように。そして、その空白が指し示しているものこそが――竜息茸ドラゴン・マッシュの輪郭なのかもしれません』


「……ぶっちゃけ不思議なんだよね」


『どの部分がでしょうか』


「まず聞きたいのはこれ。竜息山りゅうそくざんへの禁足地扱いって、正しくは法的な意味じゃないんでしょ?」


『そのとおりですわ。私が調べた限り、その認識で間違いございません。竜息山は、法的に立ち入りを禁じられた場所ではありません。ただ、古くからの風習と、魔獣が生息する危険性によって、多くの方々から“禁足地”同然に扱われているだけです』


「そう、それだよ! 竜息山の土地の権利を持っている人が、なんで人が入ることを禁止してないの? ふつう、だめじゃん。勝手に土地に入られたら困るし、嫌でしょ……」


『これは、あくまで推測ですが……それ自体が偽装カモフラージュなのかもしれませんわ』


 ミネルヴァは地図を閉じず、淡々と続ける。


『たとえば、入山を厳しく禁じていれば、山へ入った者はそれだけで目立ちます。見つければとがめねばならず、咎めなければ不自然になる。ですが、最初から入山を許しているなら話は別です』


「……話は別?」


『ええ。誰かが山へ入っても、不審には映らない。罰する必要もない。万が一、外部の者と接触していたとしても、「勝手に入って来た者に応対しただけ」と言い逃れができます。つまり、隠すために閉ざすのではなく、疑われないために開いている。解放オープンであることそのものを、潔白の証にしているわけですわ』


「へぇ……ふーん、なるほどなるほど……潔白の証、と……」


 わかったような顔で頷く。

 けれど、正直なところ半分くらいしか飲み込めていない。


『小僧、ようわかっとらんじゃろ』

 

 脳内の隅で、ガンテツが図太い腕を組んだまま片眉を上げた。


(ぎくっ!)


『アハハ! テツじいも、ホノちゃんの得意分野以外のパッパラパー具合はわかってることでしょ? 勘弁してあげなよ』


 ジュリアが椅子の背もたれに肘をかけ、けらけら笑う。


『ならん。そろそろ理解力も成長してもらわんと困るのう。アホの弟子はワイ的に嫌じゃ』


『確かに、私の説明で理解できないほど、みみっちい理解力とは思っておりませんでしたわ』


『アハハハハ! 手厳しいね! アホの弟子は嫌だし、みみっちい理解力だってさ。ねえねえホノちゃん、どんな気持ち?』


「端的に言って、最悪ですけど!?」


『アハハ! まあまあ落ち着いてよ。大丈夫だって。アホでもバカでも、人生楽しく生きていけるよ!』


「それでフォローしてるつもりかもしれないけど、さらっとジュリアも僕のこと刺してるからね?」


『アハハ! ごめんごめん。じゃあ代わりに、わかりやすく噛み砕くから許して。それでいい?』


 ジュリアが、ぱん、と手を叩く。

 脳内の空気が少しだけ軽くなった。


「え~? いいよ!」


『素直でいいじゃん。一見むずかしそうに聞こえるけどさ、めっちゃ単純に考えればいいんだよ』


「単純に?」


『隠したい場所があるなら、普通は「入るな!」ってするでしょ。でもそれやると、逆に“そこ怪しくない?”ってなるし、誰かが入っただけで目立つじゃん』


「うんうん、それはわかる!」


『だから逆に、“別に誰でも入っていいよ〜”って顔しとくの。そうすれば誰が山に入ってもおかしくないし、中で誰かと会ってても「勝手に来た人に対応しただけですけど?」って言い訳できる。つまり、隠すために拒否するんじゃなくて、怪しまれないために歓迎するってこと!』


「おお、そういうことか! めっちゃわかりやすい! ……ん? でもそれって、めっちゃきな臭いことにならない?」


 ようやく意味が腹に落ちて、逆に嫌な汗が出た。

 知らなくていいことに近づいている気がする。


『なるだろうな。しかし、この竜息山の所持者には膨大な権力がある可能性が高い。集中する権力に腐敗はつきものよ』


 意外にも、返答したのはヴァンデルだった。


 脳内の奥で、彼は玉座のような椅子に腰かけたまま、退屈そうに頬杖をついている。相変わらず気障ったらしい。


「ふーん、そういうもんか。共感はあんまりできないなー。きな臭いのも、腐敗してるのもきらーい」


『……嫌いなのはいいが、わかり切った顔で断定するのは早計かもしれぬぞ』


「ええ? それ、傲慢なヴァンデルが言う?」


『フン。知性なき傲慢は、ただ愚鈍なだけよ。我と一緒にするな』


 ヴァンデルが鼻で笑う。

 その態度が、いちいち腹立つくらい板についていた。


「……知性なき傲慢? うーん、傲慢は傲慢なんじゃん」


『愚鈍な小市民にすぐわかるとは思っておらぬ。傲慢でいることが許されるとはどういうことか。つまり、それは格があるということ。しかしそれが分からぬなら、あの野蛮人の肉体馬鹿と同じレベルの知性ということになるな』


『……ア~~~っ!? だれがこのクソッカスのクソガキと同じ知性だって? その伸びきったデケエ態度、米粒ぐらいのサイズに縮めんぞッ!』


 案の定、オーガが噛みついた。

 脳内の端で、重い足音みたいな怒気が膨れ上がる。


 うわ。オーガまで出てきちゃった。


 六英雄から四方八方刺されたような気分になって、テンションが下がる。


『おいおい、どうした。我は野蛮人の肉体馬鹿と言っただけだ。自覚があるのか?』


『テンメッ! ハメやがったな……! チョンパぶっこんでやんよっ!? アアンッ!? どっからバラされてえんだッ!?』


 いつもの犬猿の仲が始まって、収集がつかなそうだ。


 頭の中が騒がしくなるほど、現実の森の静けさが際立っていく。


 ここは、走ることに集中しよう。


『あア……宿主ホストよォ。ボクの隣はいつでも空いてるよォ? 全身全霊オーバートリップで慰めてあげようカ?』


 ぬるりとした声が、背後から耳に絡みつくように響いた。


 見なくてもわかる。

 レクターだ。


「あ、すいません。結構です」


 さらっと受け流す。

 これが正解。

 

 それに、権力とか、きな臭いことは僕の領分じゃない。

 

 ここはやはり、走ることに集中する。

 茂みを抜け、根を踏み越え、呼吸を整えながら奥へ進む。

 

 そうして、小走りで三十分ほど経ったころ。

 

 その奥へ足を踏み入れた瞬間――空気が変わった。

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