第51話:約束より先に
その夜。
自室で、僕はリュックに荷物を詰め込みながら、何度も手を止めた。
(……本当に、行くのか?)
ロイさんとの約束が、頭をよぎる。
『絶対に近づくな』
あの真剣な顔。
心配してくれた優しさ。
それを裏切ることになる。
(でも……)
舌に残る、あの奇跡の味。
竜息茸を使えば、実家のチーズは世界一になれるかもしれない。
父さんや母さんを、喜ばせられるかもしれない。
(……見るだけなら、いいよね?)
自問自答のような言い訳。
止まっていた手が、スルスルと滑るように動き出す。
護身用のジャーキー。
空の瓶。
調味料。
簡易の道具。
ひとつ並べるたび、言い訳が薄くなる。
これは「見るだけ」の装備じゃない。
「採取して、その場で処理する」ための準備だ。
(……安全に、気をつければ大丈夫……)
そう自分に言い聞かせる。
都合のいい理屈が、勝手に形を作っていく。
それを自覚してなお、僕の欲望は収まる気配を見せない。
むしろ――行かない理由をそのまま喰らいつくして、言い訳の糧にしていく。
(それに、これはチーズ作りのためだ。酪農家として、最高の素材を追求するのは当然だ。父さんだって、きっと理解してくれる……はず)
行く理由を無理やり引っ張り出して、欲望に食べさせる。
(セシルさんだって、自由にやりたいようにしていいって、言ってくれたし……僕だって、もう少し好きにしたっていい……そうだよね?)
自問自答。
答えは求めない。
一度だけ深呼吸をして、リュックを背負う。
その重さが、やけに心地よかった。
罪悪感も、不安も、全部その重みの中に沈んでいく。
いや。
沈めるように、僕はその重さを噛みしめた。
ジュリアの『夜遊びだー! ホノちゃん楽しもうねー!』という歓声と、ミネルヴァの『夜間行動における注意事項』を、右から左へと受け流す。
僕は〈旧・ブラックウッド牧場跡地〉へ向かった。
そして、その敷地の奥。
禁足地と呼ばれる裏山――竜息山へ。
約束より先に、足が動いていた。




