第49話:一週間前の誓いは――
購買に人の気配はまだ少ないが、それでも列はでき始めていた。数人の生徒が並んでいる列の後ろに、僕も並ぶ。
前の生徒が、少しだけ僕との距離を空けた気がしたけれど、気にしない。後ろに並んだ生徒も、まあまあ距離を空けて列についたが、きっとそれも気のせい。たぶん、購買の列というものは、そういう間隔で並ぶものなのだ。
牛乳を求める者同士、互いの聖域を尊重しているのかもしれない。
きっと僕の考えすぎ。
――それよりも今はミルクだ。
数を確認するために棚を見る。
待望の『天使ちゃん』は、ぱっと見ただけでも数十本。棚の一角で、後光が差すように、静かにこちらを待っていた。
さすがに、この数分で完売することはなかったらしい。
――良かった。
僕が焦る気持ちも仕方ないと思う。
朝のうちにミルクが消えることは珍しくない。
昼の時間に残っていることの方が稀。
数があると高をくくって油断すれば、欲しい頃には完売していることも多い。
朝練帰りの生徒が、朝食代わりに甘い菓子パンと一緒に買っていくからだ。
おいしいミルクは、いつだって競争率が高い。当然っちゃ当然だ。
今日は、検証分として必要な本数がまだ残っていた。
——その事実だけで、勝った気分になる。
「おばちゃん! さっきの牛乳、あと二本ちょうだい!」
「あらあら、今日はずいぶんと喉が渇いてるのねぇ」
「それと、お願いがあるんだ! その二本のうち、一本はさっきと同じロット番号のやつ。もう一本は、違う番号のやつが欲しい!」
同条件と、別条件。
最低限、この二つは必要だ。
思い込みで奇跡を語るほど、僕はミルクに不誠実ではない。
おばちゃんが、瓶に印字されているロット番号を確認する。
「あれ――」
おばちゃんが首を傾げる。
まさか――欲しいロット番号のミルクが、もうなくなっているのか。
心臓が冷えるような感覚がした。
「えーと……あったあった」
杞憂だったようだ。
購買のカウンターに、二本の牛乳瓶が並ぶ。
「わざわざロット番号を指定するなんて面白いね。何か理由があるのかい?」
「へへっ。秘密~!」
怪訝そうな、それでいてどこか面白がっている顔のおばちゃんから、二本の瓶を受け取った。
瓶は、手のひらにひんやりと冷たい。
……よし。
まずは、第一関門突破だ。
僕は食堂のテーブルに戻るなり、即座に実験——いや、テイスティングを開始した。
まずは、さっきと同じロット番号。『No.2045』。
「……っ!」
ごくり、と喉を鳴らす。
「……やっぱりだ。こっちは、さっきと同じ……奇跡の味がする」
次に、違う番号。『No.2048』。
「……うん。こっちは、いつもの美味しい牛乳だ」
……間違いない。
No.2045だけが、違う。
僕は真実に辿り着いた。
そして、机に突っ伏した。
「うぅ……お腹、たぷたぷだぁ……ふへへ……でも、しあわせええ……」
小瓶三本——合計六百ミリリットルを短時間で一気飲みしたのだ。
胃袋の中で、ちゃぽん、ちゃぽんと液体が揺れる。
その心地いい圧迫感に、思わず身を委ねてしまう。
「ホノジ……何やってんの? 朝から牛乳三本一気飲みして『たぷたぷ』って、何その状況? 清々しいほどの牛乳馬鹿なの?」
呆れ果てた橙馬の声が、隣から聞こえた。
ミルクでキマッて上機嫌になった僕には、それは褒め言葉にしか聞こえない。
「へへへ……あんまりほめないでよ~」
「やっぱりホノジって、俺っち以上にポジティブだよな……」
このへんでいつもなら、ミネルヴァかジュリア、もしくはガンテツあたりのツッコミが飛んでくるころだが、今回は無反応だった。
脳内では、すでに緊急会議の結論が出始めていたからだ。
『……決まりだな。ミネルヴァ』
『ええ。間違いありませんわ、ガンテツ殿』
ミネルヴァの声色が、先ほどまでとは違う。
冗談の混じらない、鋭い分析官のそれだ。
『餌を変更したわけではありません。もし飼料そのものを変えたのなら、変更以降の全ロットで味が変わるはずです。ですが、変化が見られたのはNo.2045のみ……つまり、これは事故の可能性が高いですわね』
(事故……?)
『ええ。放牧中の一部の牛が、偶然にも「食べてはいけないもの」を口にしてしまった。それが消化され、乳成分に混じったのでしょう』
(……食べてはいけないもの?)
『ご主人様、バトルロイ・ブラックウッドの牧場は、裏山——竜息山の麓に位置していますわね。牛舎もありますが、餌とストレス管理のための放牧地も広大です。放牧地の一部は、おそらく禁足地との境界に近い。牛たちが柵を越えて、うっかり群生地に迷い込んだ可能性は十分にあります』
(あ……そっか。だからロイさん、あんなに詳しく忠告してくれたんだ)
『コレクト。彼の牧場は、あの危険地帯と隣り合わせなのです。だからこそ、密猟者の動きにも敏感なのかもしれません』
舌に残る、あのじんわりとした余韻。
万病に効く滋養強壮薬の材料となり、過剰摂取すればドラゴンの如き活力を得るとも聞く——禁断の食材。
乳成分にほんのわずか混じっただけで、これほどはっきりと感じる。
魔導回路が、じわりと拡張されていくようなこの感覚。
……実家にいた頃。
叔父が一度だけ持ってきた、あの高級食材に、よく似ている。
(……竜息茸!?)
『コレクト、ですわ』
静かに、推測が形を取る。
そして、約一週間前の記憶が鮮明に蘇った。
——ロイさんの、あの忠告だ。
『あそこは危険だぞ。竜息山と呼ばれて、禁足地になるだけの理由がある。あそこは、高熱の胞子を放つ竜息茸の群生地だ』
あの時は「危険だから行かない」と誓った。
でも、もし。
牛たちが放牧中、偶然にもその群生地に迷い込んだのだとしたら?
管理された牧草地から外れた、未開のエリアへ——。
……ということは。
(今行けば、生えている可能性は高い……)
たぷたぷと波打つ胃袋をさすりながら、僕は確信した。
これは運命だ。
啓示だ。
牛神さまの導きに違いない。
学園の牧場、その裏山に——。
本当に、あのロマンが眠っているなんて。
ロイさんの話は本当だったんだ。
採取して、もし栽培までできるような代物だったら……。
そのキノコを手に入れれば、実家のチーズは、世界一になれるかもしれない。
危ないとか、禁足地とか。
そんな理屈はいつの間にか、欲望と乳脂肪分の彼方へ、きれいさっぱり追いやられていた。
『小僧、行く気か?』
(……やっぱりだめかな?)
『駄目というわけではないのう。小僧が決めたなら、それを止める権限はワイらにはない。ただし、覚悟はしておけ』
(……うん)
ごめん、ロイさん。
これは実家のためなんだ。
美味しい原因がドラゴンマッシュなら、僕はそれを確認しないわけにはいかない……気がする。
しかも僕は、授業じゃなく検査だ。通常の終業よりも早く終わる。
それに加えて、今日は平日の最終日、金曜日。
ということは――。
「幸いにも、明日と明後日は土日……ちょっと、見てくるだけならセーフなはず」
誰にともなく小声で言い訳する。
一週間前の誓いは——白い奇跡の前に、あっけなく崩れ去ってしまった。
「採らないし、触らないし、匂いを嗅いで帰る。それだけ……本当に、それだけだから……」
言いかけながらも、わかった。
——嘘だ。
口にした瞬間から、もう自分でわかっていた。
その言葉だけが、頭の中で何度もリフレインする。
理性が止めようとする感覚はある。
でも、足は止められそうにもない。
欲望のほうが、ずっと素直だった。
「ホノジ? お前、さっきからお腹さすりながら一人で何ブツブツ言ってんだ……」
どうやら、独り言を見られていたらしい。
というか、隣でずっと独白を垂れ流していた僕がおかしいのは認める。
ただ、それでも。
呼ばれている気がする。
そこに、前に進むための「ヒント」があるように感じる。
その強力な引力に、抗うのが難しい。
隣にいた橙馬の怪訝そうな顔が、正直ちょっと鬱陶しく感じた。
今の僕の頭の中は、もう紫色のキノコと、最高のチーズのことでいっぱいだったから。
「別に、何をブツブツ言っててもいいでしょ」
むっとした感情が尖る。
橙馬を雑に扱おうとした、そのときだった。
「ホノジ、もしかしてお前、なんかヤバそうなことしようとしてるのか……?」
橙馬の不意に鋭い発言に、心の中でひやっとした。
なるべく顔に出ないよう、ポーカーフェイスを意識するが――。
「おいおい、その顔……」
どうやら完璧には抑えられなかったらしい。
橙馬が怪しんでいる。やばい。
「……あはは! なわけないでしょ。それに、もし僕がヤバそうなことをしようとしてたら、橙馬はどうするのさ?」
なるべくなめらかに誤魔化すことに努める。
冷や汗が首の後ろだけで済むことを願いながら、橙馬に話を返して、違和感を隠す。
「……どうするって、内容にもよるけどよ――」
僕の心に、緊張の亀裂が走る。
「楽しいことだったら、一枚噛むに決まってんだろ!」
橙馬はそう言って、いつも通りに白い歯を見せた。
その姿は明るくて、やっぱり眩しい。
この男は、いつだって明るい方向に引っ張ろうとする。
ただただ止めようとするのではなく、前向きにとらえようとするその態度に……少しだけ、ほっとした。
「……あはは。正直、検査の連続で疲れてるよ」
その気持ち自体は、嘘ってわけじゃない。
ただ、実際にそうするかは、また別の問題で……。
「だから休日は、ゆっくり休もうと思う」
胸が、すこし締め付けられた気がした。
でも。
これでいいんだ。
そう自分を丸め込む。
そもそも、だ。
リスクを一緒に背負わせようなんて、どうかしてる。
そりゃあ、橙馬が一緒に来てくれるなら、心強い。
でも。
橙馬を、僕の身勝手な都合で巻き込むわけにもいかない。
「だからね、橙馬。大丈夫だから。僕は……大丈夫だから」
口が引きつった感覚がある。
「……おう、そうだな」
橙馬の声が一瞬だけ寂しそうに聞こえたのは、気のせいだろうか。
「ホノジ、確かに少し疲れてる顔してるよ。華の金曜日だからって、あんまりはしゃがず、土日はマジでゆっくり休んだほうがいいぜ。もしなんかあるなら、引き続き俺っちに遠慮せず声かけろよな!」
その純粋さに。
その信頼に。
胸が少しだけ、ちくりと痛んだ。
「ありがとう、橙馬。また牧場跡地の復興で必要になったら、声かけると思う」
精一杯、明るい声を出す。
……今の僕は、うまく笑えているのだろうか。
「おう!」
そう言う橙馬の顔は、僕には純粋に笑っているように見えた。
これは、自分と橙馬のために必要な行為なんだ。
誠実さは、真実を話すこととイコールじゃない。
きっと大丈夫。
大丈夫なはずだ。
そう思い込んだ。




