第48話:一本の牛乳
自宅から学園への道のりは三キロほど。
いつもなら、走れば数分で着く。
なのに到着するのに、四十分ほどかかった。
走る気になれず、ゆっくり歩いたからだ。
空気が変わる。
牧場の匂いが薄れて、石と消毒薬みたいな冷たい匂いが鼻につく。
耳に入るのは牛の吐息じゃなく、生徒たちの足音と、規則正しい鐘の音——。
ため息をつきながら、僕は校門をくぐった。
昨日までの四日間は、授業というより、息つく暇もない「手続き」の連続だった。
結局、まだ一度も授業には参加できていない。
本日もめでたく検査続行。「最悪の昼」の到来だ。
それもこれも、【闇属性】と今の治安のせいだ。
どうも闇社会の住人には、【闇属性】が多いらしい。
そのせいで、【闇属性】であるというだけで、いろんな検査を受けることになる。
全属性の中でも最も貴重だとか、滅多に確認されない属性だとか、そういう話も関係しているらしかった。
最近はスパイの潜入だの、不審者の増加だの。
学園側は、その対策も兼ねていると言っていた。
——それはわかる。
わかる、けど。
正直、落ち着かなかった。
朝から夕方まで、誰かに呼び止められる。
書類を書かされ、検査台に乗せられ、長々と説明を受ける。
それが終わったかと思えば、また次の呼び出しだ。
「はい次」「はい次」と押し流されて、息を整える暇すら与えてくれない。
特に、【闇属性】というだけで、ここまで精密な身体検査や身辺調査を受ける羽目になるとは思ってもいなかった。
昨日の魔導回路の検査なんて、七回もエラーが出た。
……一体どうなってるんだ。
あれは本当に僕が原因なのか。
検査する機械のほうが壊れてるんじゃないのかと、ちょっと本気で思った。
……そもそも【闇属性】って、そんなに変なものなんだろうか。
未知数で、希少で、都市伝説じみた噂がつきまとうのはわかる。
実際、法を犯すような外道に多いと言われているのも事実らしい。
そのうえ、持っている人がほとんどいない。前例も少ない。だから実態がわからない。
学園としては、調べたくもなるんだろう。
慎重になるのも、まあ理解はできる。
——でも、だ。
【闇属性】を持っている。
ただそれだけで、最初から何かを疑われているみたいな空気まで受け入れろと言われたら、それはさすがに違うと思う。
おとぎ話に出てくる狂王と同じ属性だとか、ろくでもない犯罪者に多いだとか。
そんな話をいくつ並べられても、僕は僕だ。
まだ何もしていない。
なのに、会ったこともない誰かの悪評や、昔話の気味悪さまで、まとめてこっちに貼りつけられるのはおかしいだろう。
怖がるのは勝手だ。
警戒するのも、まあ仕方ない。
でも、その恐れをそのまま現実の僕に向けてくるのは、違う。
それに、必要以上に蔑むなんてこと、あっていいのかな。
……これが都会の常識ってやつなら、ずいぶん息苦しい話だ。
どうやら僕は、都会の空気にまだまだなじめそうにないらしい。
だからこそ、せめてバイト上がりの朝くらいは、静かに過ごしたかった。
だが、そのささやかな願いすら叶いそうになかった。
授業を受けられるのは来週の頭から。今日はまだ検査が残っているらしい。
みんなが授業へ向かう中、僕だけが検査という名の別ルートに回されている。
とはいえ——救いはある。
明日と明後日は土曜日と日曜日。休日だ。
今日の検査さえ終えれば、少なくとも二日間は誰にも急かされずに動ける。
そのためにもまず今日を乗り越えないと。
いつも通りに学園の食堂へ行こう。
制服の袖を軽く整えて、僕は渡り廊下に足を踏み出した。
廊下には、授業に向かう生徒たちの姿がちらほら見える。
きっとみんな、朝の会話の続きだとか、今日の授業の予習だとか、ごく普通の話をしているんだろう。
——そう思いたかった。
「ね、ちょっと……あれ、噂のあの子じゃない?」
斜め後ろ、距離あるところから、控えめな女子の声が耳に入る。
聞かれないように気を遣ったつもりの、でもギリギリ届く音量。
いや、これは僕が受け継いだハクゲツの能力《振動探知》を持っているのも悪いか。
「あ。……あいつ、【闇属性】らしいよ?」
「え、マジ? えぐいね……ちょっと距離とっとこう」
「ね。あたしらになんかあってもめんどくさいもんね」
三人分の足音が、リズミカルに廊下の端へ、さりげなく、静かに逸れていく。
ぶつからないように、でも近づかないように——ちょうどの距離感で。
僕はそちらを見ないようにしながら、そのまま歩を進める。
顔を向けたい衝動を首の筋肉をグッと入れて、こらえる。
気にしない。気にしない。
……気にしない。
『ちょーっとぉ! 何あの子たち!?』
脳内で、ジュリアが声を張り上げた。
普段のくすぐったい笑い声とは違う、明らかに怒気のにじんだ声。
『亀甲縛りで、一日中学園の校門に吊るされたいっての? アタシ、余裕でやるよ! 反省するまで辱めてやるんだから!』
本気の声だった。
ジュリアの気持ちが伝わる。
素直にうれしい。
うれしいけど――
(……ありがとう、ジュリア。でも、僕は大丈夫だから)
ジュリアが少し悲しそうなのが、声を出す前の気配でわかった。
『……ダメだよ』
さっきまでの勢いがふっと引いて、低く、静かな声色に変わる。
『ホノちゃんが優しいのはわかってる……でも、危害加えられそうになったりしたら、簡単に許すのはダメだからね?』
いつものジュリアらしくないぐらい真剣な声だった。
(今のところは大丈夫。風当りが強いって言っても、近づいてこないだけだし……たまにああやって言われるだけだから)
そう答えながら、僕はほんの少しだけ、歩幅をゆるめた。
廊下の窓から差し込む朝日が、白く床を照らしている。
その光の中を歩いているはずなのに、背中のあたりだけがほんの少しだけ、ひんやりとしていた。
——気にしない。
四回目の「気にしない」を、口の中で噛み砕く。
食堂はもうすぐだ。
それよりも今は、検査前の――
「乳分補給しなくちゃ」
『アハハ! 乳分補給って! そんな言葉、ホノちゃん以外に絶対使わないよ!』
ジュリアのくすぐったい笑い声が転がる。
(そうかな? ……ミルク好きなら当然の日常ワードだよ?)
『アハハ! ホノちゃんごめんだけど、少なくとも、ここにいる六英雄は聞いたことないからね? ホノちゃんの異常さを当然のようにふるまうのやめな?』
(異常だなんて失礼な!)
『……うん、ごめんごめん。でもホノちゃんがまだ平気そうでよかった。異常なのはミルク好きなところだけで、別に闇属性は本当に普通のことだからね?』
(……ありがとうジュリア。そう言ってもらえるだけで僕は大丈夫だから)
ジュリアの気遣いをなんとか受け取って、前を向く。
今はとにかく、セントルファー・プレミアムミルクを飲むことが大事だ。
学園が誇るブランドミルクで、僕の毎朝の相棒。
その名前に負けることのない格別な香りと味。
芽依ちゃんが舌足らずに「ぷれりあむ」と言っていたあのプレミアムミルク。
もちろん今日も当然のように買う。
「おばちゃん、おはよう。セントルファー・プレミアムミルク、最高品質のやつを一本ください!」
「おはよう。朝から牛乳愛が相変わらずだね、ホノジくん。でも悪いんだけど、プレミアムミルクの品質は私にゃどうしようもないよ」
「いえ! セントルファー・プレミアムミルクが、最高品質じゃないことはありえません! どれを選んでも最高品質になるので、おばちゃんは堂々と売ってくれればいいんです! いつも売ってくださり、本当にありがとうございます!」
「ふふ、おかしな子だねえ。ほら、これがセントルファー・プレミアムミルク。待望の最高品質ってやつさ。ひとつ四銅貨になるよ」
窓から白く差し込む朝日を受けて煌めく瓶を受け取る。
(うひょー! これだよ! これこれ!)
僕は牛乳瓶を受け取って、おばちゃんに四銅貨を手渡した。
これこそが、ロイさんの牧場から出荷されたミルクの完成品。
生産現場で我慢したぶん、購買で買うこの一本は格別の味がする。
そう思いながら、何気なく一口、喉へ流し込んだ。
——その瞬間だった。
「——っ!?」
僕の思考が一瞬で真っ白になった。
……なんだ、これ。
舌に触れた瞬間、爆発するみたいなコク。
なのに喉越しは、絹みたいに滑らかで。
鼻に抜ける香りは、朝露に濡れた高原の空気そのものだった。
あまりにも味わい深い。
そして——喉の奥が、ほんの少し熱い。
白い天使みたいなその感触が、白と黒の毛並みをした愛しい牛さん——あの顔を、勝手に思い出させる。
「……美味しすぎる……今まで飲んだやつのなかで、いちばん美味しい……最高品質ってやつ、存在してたのか……都市伝説かと思った……」
『ありもしない都市伝説まで語って、相変わらずおめでたい頭してますわね、ご主人様』
ミネルヴァの棘が気にならないぐらいに胸いっぱいに広がる、暴力的なまでの多幸感。
……なのに、次の瞬間には現実が追いかけてきた。
「闇属性」という、現在の境遇。
そのどうしようもなさが、同じ量だけ胸に流れ込んでくる。
僕は平和に卒業したいだけなのに……どうしてこうなった……。
幸福と絶望の落差に耐えきれず、僕は教室の隅で、ぽろりと涙をこぼしていた。
「ダハハハッ! さっそく情緒不安定かよ!!」
背後から現れた橙馬が、僕の肩をバシッと叩く。
「ホノジ、朝から牛乳飲んで泣いてんのやべえって! 闇属性の不吉な奴が、ミルクで浄化されてんじゃねーよ!」
「と、橙馬……違うんだ。今日のこれは、ただの牛乳じゃない……!」
僕は涙目のまま瓶を掲げた。堂々と掲げた。
「天使の涙とも言える、至福の権化なんだよ!」
「……お、おう?」
「この味の構成……乳脂肪分が、普段より十五パーセントは高い。それなのに雑味がないどころか、すっきりまとまってる感じさえある。これは異常事態だ……!」
「何言ってるか分かんないけど、ホノジが幸せそうなら、オールオッケーだぜ……」
「いや、オールオッケーじゃないよ! 確かめないと!」
「は? おい、どこ行くんだよ!」
僕は橙馬を置き去りにして、猛ダッシュで購買へ舞い戻った。




