第47話:金曜の朝
ルミタのマッシュポテトを食べたあの夜が明けてから、僕の生活は一変した。
いや、正確には——「最高の朝」と「最悪の昼」。
その二重生活が、始まったのだ。
今はまだ、幸いにも金曜の朝。
「最高の朝」の時間である。
……そう。ここは〈ブラックウッド牧場〉。
僕が手に入れた〈旧・ブラックウッド牧場跡地〉ではなく、ロイ夫妻が現在経営している〈ブラックウッド牧場〉で、ありがたいことに牧場の管理と、毎朝の牛の世話のバイトをさせてもらっている。
今日で、ちょうどバイトを始めて五日目。
これだけ経てば、だいたいの作業にも慣れてくる頃だ。
〈旧・ブラックウッド牧場跡地〉だって十二キロと充分に近い。
けれど、〈ブラックウッド牧場〉はもっと近かった。借家から、たった八キロ。
走れば十分ほどで着いてしまう。
通いやすい、なんて言葉じゃ足りない。
以前、地元から通っていた〈ヒュンゼル酪農〉は、なかなかに遠かった。
毎日、片道ほぼ一時間。往復で二時間。距離も往復で約百二十キロ。
それだけで乳製品づくりの時間が削られるのが嫌だった。何より、誠実に仕事をしないことが前提みたいに監視のきつい職場で、息がしづらかった感覚が、いまだに胃のあたりに残っている気がする。
それに比べて、ここには魔導監視カメラもない。
牛の世話に関しては、作業のほとんどを信用して任せてもらっている。
つまり、存分に牛さんたちを愛でられる。
一言でいえば、最高としか言いようがなかった。
月給も、十八銀貨(1,800ソル)で破格の待遇。
まさしくこの世にある天国みたいな場所だ。
「よし、これでブラッシングは終わりだね」
ブラシを置き、僕は目の前のホルスタイン——マチルダ(勝手に命名)の首筋に抱きついた。
腕の中の体温が、ふわっと胸に沁みる。
そのまま温かいわき腹に頬をすりすりと押しつけた。
「ンモォォ~……」
マチルダが気持ちよさそうに、低く喉を鳴らす。
わずかに体重を預け返してくるたび、足元の藁がかさりと鳴った。
鼻先に漂う牧草とミルクの匂い。
ごつごつとした骨格と、しっとりした毛並みの感触。
——僕の脳内麻薬が、ドバドバと溢れ出す瞬間だ。
「やっぱおまえらはいいよな~……裏切らないし、温かいし、美味しいし……うへへ~」
「ンモッ?」
「あ、ごめんごめん。食べる話はナシだね。へへ。大好きだよ~」
牛の体温を感じて、藁の匂いに包まれているだけで落ち着く。
これはもう、精神安定剤そのものだった。
……ただ、一つだけ。我慢していることがある。
搾りたてのミルクだ。
目の前のタンクには、新鮮な生乳がたっぷり溜まっている。
本来なら、生産者の特権として一杯くらい頂きたい。
白く満ちたその中身を見ているだけで、喉が勝手に鳴る。
ひんやりした口当たりまで想像してしまって、視線がどうしても吸い寄せられた。
——でも、僕はぐっと唾を飲み込んで我慢した。
ロイさんの牧場の牛乳は、『セントルファー・プレミアムミルク』の原料として学園へ出荷される。
茜さんのお店にも出荷されるし、ほかにもお得意様のところへ大事に配送される。供給は常にギリギリだ。
だから、現場で勝手に飲むわけにはいかない。
ロイさんも「悪いな。今は出荷分を崩せなくてな」と、申し訳なさそうに言っていた。
そのたびに、エレナさんが——ちらり、とこっちを見てくる。
その瞳はどこか寂しそうな……いや、気のせいかな。
とはいえ、完成品なら学園の購買に並ぶ。
ただし人気が高すぎて、昼前にはだいたい売り切れる。
早朝に飲めるかどうかは、運とタイミング次第。だから僕は、【闇属性】の検査の前に朝イチで買うのが習慣になっていた。
売り物は売り物。
それが酪農に携わる者のケジメだ。
飲みたければ、正規のルートでお金を払って飲む。——それがスジってもんだ。
「……ふぅ。今日もいい汗かいた」
本日の作業は、これにて終了。
最後にマチルダに一度、頬ですりすりする。
いや、もう二度ほどすりすりしてから、名残惜しくもマチルダから離れた。
僕は作業着の袖で額の汗をぬぐう。
今日も仕事を丁寧に終えられてよかった。
外に出ると、二人の姿が見えた。
僕が牛の世話をしているあいだ、エレナさんとロイさんは二人三脚で、柵の修繕や小屋の掃除を進めている。
ハクゲツに荒らされた家の立て直しも、完全にとはいかないけれど、見違えるほど順調だった。
もちろん、失ったものが一気に戻るわけじゃない。
それでも、立ち止まって途方に暮れているだけじゃないのだと、目の前の景色がちゃんと教えてくれる。
僕だって〈旧・ブラックウッド牧場跡地〉の復興を、少しずつ、でも着実に進めることができている。
今日はいつもより、少し早めに終えることができて、時間に余裕がある。
だから僕は、二人の元へと駆け寄った。
「あのう、時間が余ったので、お手伝いさせてください」
そう声をかけた。
けれどエレナさんは首を振り、「牛の世話は毎日続くわ。仕事が早めに切り上がった日は、身体も気力も、十分に休ませること。信頼してるから、そっちに集中なさい」と、きっぱり言った。
それ以上、修繕の手伝いを受け入れる素振りは見せなかった。
代わりにエレナさんは、「あなたの席に、いつも通り朝食を用意してるわ。ゆっくり食べなさい」と、緩やかな笑みで言ってくれる。
「ああ、しっかり朝ごはんを食べるんだ、鴨葱くん。若いからって調子に乗ると、のちのち後悔することになって、俺みたいになるぞ」
ロイさんも、冗談っぽくそう言った。
僕は「ありがとうございます」と小さく頭を下げてから、家の中に入った。
朝仕事が終わったあとも、毎日の至福の時間は続く。
そこにあるのは、湯気を立てて迎え入れてくれるような、朝のごはんたちだ。
ロイさんがこだわって淹れてくれているモーニングコーヒー。
カリッと、ふわっと香ばしいエレナさんの焼くパンと、丁寧に下拵えされた野菜たっぷりのコンソメスープ。
ちょうどいい焼き目がついた、ぶっとい自家製の肉々《にくにく》しいソーセージが二本に、つやつやの黄身が光る目玉焼きまである。
バランスの取れた、最高の朝ごはんだ。
まずはパンをひとちぎって、口に放り込む。
表面はかりっと香ばしいのに、中はふわっとやわらかい。噛むたびに小麦の甘みがじわっと広がった。
うまい。
すぐにスープをひと口。
熱が舌から喉へすべり落ち、野菜の旨みがじんわりと染みていく。
これだけでも十分うまい。
それなのに、まだ終わらないのがこの朝ごはんのすごいところだった。
続けざまに一本目のソーセージにかぶりつけば、ぱきっと気持ちのいい音のあと、肉汁が遠慮なくあふれ出す。
噛むほどに肉の旨みが押し寄せてきて、それだけで頬がゆるんだ。
そして、そんな顔のまま迷わず二本目に手を伸ばす。
ふと脳内から、傲慢な声が飛んでくる。
『待て、小市民。二本目は味変がよかろう。黄身に浸して食すがよい』
(うん……やっぱりヴァンデルってさ)
『何だ』
(食に関してはガチ勢で最高だね!)
『フン。当然だ。食を甘く見る輩は、魔力に還ればいい』
ヴァンデルに言われた通りに、目玉焼きの黄身をたっぷり絡めてひと口。
ソーセージを持ち上げると、とろぉっと黄身があでやかに滴る。
それをそのまま手早く口へ、がぶり。
「――んまぁッ!」
肉の力強い旨みに、とろりとした黄身のまろやかさが重なって、思わず唸りたくなるほどだった。
うん、この味変は正解だ。
そこへ苦みと香りのきいたコーヒーを流し込めば、口の中がきれいに整って、また最初から食べたくなる。
もう、ほかに何もいらない——と思えるほどに。
お腹を満たして、なんとなく窓の外の景色を眺める。
そこには、相変わらず二人の姿があった。
あの襲撃に僕を巻き込んだことを、まだ気にしているのかもしれない……。
そんなの、気にせず頼ってくれていいのに。
そう思う一方で——子どもだからと、気にかけてくれている部分もあるんだろう。
少しだけもどかしくて、でも、その気遣い自体は素直にうれしかった。
あの二人は、本当に優しすぎる。
そんな素敵な二人のところで働けて、僕はなんて人と牛に恵まれているんだろう——
バイトに行くたび、そう思う。
——だが。
そんな至福の時間も、帰宅して、汗と藁の匂いが染みついたツナギを脱ぎ、代わりに学園の制服へ腕を通し始めるころには、もう薄れ始めていた。




