第42話:ひとつずつ、この手で
◇
通りを抜けたあとの静けさは、思っていたよりもずっと寂しく感じた。
さっきまでの商店街の賑わいが嘘みたいに遠い。
目の前に広がっているのは、乾いた土と、脆くなった牛小屋、崩れた柵だ。
ここは〈旧・ブラックウッド牧場跡地〉。
その光景に、大きな変化はない。
でも、昨日までとはひとつだけ決定的に違うことがあった。
ここにはもう、始めるためのものがある。
縄。
釘。
木杭。
桶。
金具。
補修布。
さっきまで《花丸日曜大工店》の店先にあったそれらが、今は牧場跡地の端に、きちんと積まれている。
その事実を前に、僕は確かな感触を味わっていた。
目を閉じれば、まだ見ぬ牛さんの鳴き声が聞こえてくる。
それを想像するだけで、胸の内がじんわりと温かくなった。
ただ、逸る気持ちはほどほどにしておきたい。
何事も欲張りすぎて、焦ってはいけないと思うから。
少しだけ休憩を取ろうと、頼りない入口の柵に背中を預けて、僕は地べたに座った。
バッグから、コップと「ミルク」と書かれた小瓶を取り出す。
とぷりと注ぐ。
なみなみにならないように注いだつもりだったけれど、結果は溢れんばかりだった。
ミルクが好きなので、思わず目いっぱい入れてしまう癖は、なかなか抜けそうにない。
僕はその白い聖なる飲み物に口をつける。
味は文句なしに、やっぱり最高だ。
「……ふぅ」
気づけば、ため息のような声が漏れていた。
疲れからなのか。
ほっとしただけなのか。
なぜ息が漏れたのか、その理由は僕にもわからない。
小瓶を振り、ハクゲツのジャーキーを一欠片取り出す。
それをまずは唾液でふやかしてから、ゆっくりと噛む。
この食べ方にも、少しずつ慣れてきている自分がいる。
「……うん、美味しい! 頭が冴えてきた……やっぱりこのジャーキーは最高だね」
噛み進めるたびに、旨味が広がっていく。
荒れた牧場跡地の隅っこで、僕はお尻をつけて座ったまま、容赦ない日差しを浴びた。
静かに風が吹いていて、気持ちいい。
その上、ジャーキーもミルクも美味しい。
まるで解放されたような気分だ。
だからこそ、ふと、ひとつのもやもやが際立つように胸の中を巡った。
少し考えてみれば、原因はわかりやすいものだった。
ただ、わかりやすいからといって、扱いやすいかは別問題だ。
僕の魔導体質――還元消化。
そのことを、僕はまだ消化しきれていない。
そして、簡単に消化しきれるとも思っていない。
その体質を簡単に受け入れられるほど、僕は人間ができていないと思う。
僕は器が大きい人間ではなく、目の前の小さな幸せに縋りつく人間だとも思うからだ。
(器がみみっちい人間でもないとは思うんだけどなぁ……でも――)
いつになったら割り切れるのか。
それとも、ずっと割り切れないのか。
正直、わからない。
不安だから、考えたくない。
なのに、考えてしまう。
だってこれは、簡単な問題ではない。
父さんが僕のためにやっていることも、わかっているから。
だから僕は、そんな父さんのために、家族のために、未来のために、朝から牧場跡地を復興するための資材を買いに行ったわけで。
でも。
でも。
でも。
……本当に、それだけが理由?
目の前に積まれた資材を見る。
それを見ていると、事実から目を背けるなと言われているみたいな気分になる。
僕が、牧場跡地をさっさと手入れしたい理由はなんだろうか。
逸る気持ちを抑えようとしても、ウズウズするような、もやもやするようなこの感覚はなんなのだろうか。
現実逃避したいだけ?
ごまかしたいだけ?
ただ、自分の生き方を貫きたいから?
それとも最高のチーズを作って、家族の酪農を守りたいから?
……どれも否定できない。
どれもそうだとも言い切れない。
いっそのこと、英雄たちに責めてほしいと思った。
でも、そういう時に限って英雄たちは黙っている。
簡単には楽にしてくれない。
……甘えるな、と言いたいのだろうか。
それとも、責めない優しさで、ただ口を噤んでくれているのか。
その真意を確認することが、すごく億劫に感じる。
それはきっと、向き合うこと自体が怖いからなのだろう。
僕はそこで、もう一度ハクゲツのジャーキーを噛んだ。
充分にふやかしていなかったから、バキッといい音が鳴った代わりに、歯が少し痛んだ。
……そもそも、このジャーキーが美味しいのだって、ハクゲツが精いっぱい生きてきたからじゃないか。
それを僕が調理して、こうして美味しく頂いて、作業を支えるためのエネルギー源になってくれている。
それは、紛うことなき事実だ。
命は、ただ奪った時点で終わるわけじゃない。
巡り巡って、次に繋がっていく。
なら、魔導体質のことだって……。
わかることからやるしかないんだ。
わからないときに答えを求めても、どうしようもない。
足を止めたら、途端に循環しなくなることぐらい、僕にもわかる。
ならばせめて、わからないなりに進むことが大事なんじゃないか。
正直、今はまだ苦しいけど。
それでも、手を動かしたら何か変わるかもしれないから。
幸いなことに、正解っぽい何かが目の前にある。
なら、それを今日の道しるべにしてもいいかもしれないと思った。
「……よし」
僕はそこで、立ち上がった。
少しだけ、立ち上がるのに時間がかかった。
もう一度、積まれた資材を全部眺める。
どれも必要だ。
どれも使う。
けれど、一遍にできるわけじゃない。
だからこそ、着実にひとつずつ。
できることから。
「まずは、快適に作業できるようにしよう」
そう決めると、不思議と体が動いた。
僕はまず桶を手に取り、手前へ置く。
板材は反りを見ながら、重ね直す。
釘と金具は散らないよう、まとめて布の上に寄せる。
補修布は、露を避けたい資材にかけられる位置へ。
『おい、小僧。釘をそこに置くな』
脳内に低く響いたのは、案の定の声だった。
(え、なんで?)
『踏むじゃろうが。暗くなってから足の裏に刺さって、あとで後悔しても遅い』
「あはは。それはたしかにね」
小さく笑いながら、釘を置く位置をずらした。
なぜ笑っているのか、自分でもよくわからなかった。
『小僧。笑うことではないぞ』
「そんな言い方しなくてもいいじゃん、ガンテツ……ちょっとは優しくしてよ」
『……できん。怪我される方が、ワイは嫌じゃ』
老人の、少し子供っぽいような言い方で、僕は気づいた。
ガンテツは、優しさで注意してくれていたのだと。
なのに、僕は。
それにすら、ちゃんと気づけていなかった。
今、優しくないのはどっちだろう。
僕の方なのかな。
……考えたくもない。
『板も揃えろ。乾燥の通りが違う。あと反りの向きを見ろ。重ね方が雑じゃ』
雑と言われて、改めて見てみると、たしかにどこかまとまりがない。
ガンテツの役立つ小言を聞きながら、実際に手を動かす。
(うわ、ほんとだ。こっちのほうが収まりいいや)
少しずつ、少しずつ。
跡地の端に、資材置き場の形ができていく。
資材を整理し終えると、雨除け代わりに補修布をかけ、すぐ使うものだけを手前へ寄せる。
桶の中には細かい金具をまとめ、縄は撚りが崩れないよう高い位置へ掛けておく。
「うん。これなら、すぐ使える」
こうして実際に資材へ触っていると、万典さんの店で見たものが、ただの“いい品”じゃなく、自分の手の中にある道具へ変わっていく感じがした。
そうだ。
この資材たちだって、購入したからって、すぐに顔なじみになるわけじゃない。
この牧場跡地を、僕の手で実際に補修して、毎日使う中で、少しずつ少しずつ血肉のように馴染んでいくんだ。
食事は身体の一部になる。
でも、この資材たちは、巡り巡って僕の心を支えてくれる気がする。
だからこそ。
「……ひとつずつ、この手で」
通りに面した柵の中央には、牧場の入口だった場所がある。
門柱はすっかり古び、片方の木の扉はとうに外れ、残ったもう片方も傾いたまま、朽ちかけた蝶番に引っかかっているだけだった。
かつて何度も開け閉めされていたのだろうその扉は、今では風に触れられるたび、力なくギィギィと軋むばかりだ。
僕は、この音が嫌いじゃない。
次に手を掛けたいのは、その入口のすぐ脇にある柵たちだった。
全部を一気に直すのは無理だ。
だったらまずは、通りから見える手前の一角だけでも形にしたい。
そこが戻れば、帰ってきたときに最初に目に入る景色が変わる。
まずは、そこまでの導線を作る。
入口から柵のところまで、邪魔になりそうな木片や瓦礫をどかしていく。
腐り落ちた木は、大きさの割に妙に軽くて脆い。
持ち上げた瞬間に、ぼろりと崩れるものもあった。
できるだけ拾い、脇へ寄せ、足場を作る。
崩れた木材や燃えそうなゴミを集め、周囲に何もないところへ移動させる。
あとで燃やして処分するためだ。
地味な作業だ。
地味だけど、これがないと始まらない。
ある程度足元が見えるようになったところで、僕は入口のすぐ脇にある柵の前へしゃがみこんだ。
木杭と木板を、順に見ていく。
まだ支えに使えそうな木杭もある。
でも、手で揺らしただけでぐらりと傾くものもあった。
板も同じだ。
ところどころ風化していて、割れているものがいくつかある。
この牧場跡地の柵は、最初からずっとこの形だったわけじゃないのかもしれない。
ロイさんたちも、一から全部を立てたわけじゃなくて、その前に誰かが使っていたものを譲り受けたのか。
それとも、僕みたいに資材を買い足して、少しずつ継ぎ足してきたのか。
そんなことを思わせるくらいには、柵に年季があった。
この牧場跡地が、いつからここにあるのかはわからない。
でも、わかることもある。
きっとここは、ずっと誰かの手に引き継がれてきた場所なんだ。
誰かが使って。
傷んだところを直して。
また誰かが使って。
それでも駄目になったところは外して、新しいものを継ぎ足してきたんだろう。
この牧場跡地の価値も、崩れ方からわかる「たしかにここに温度があった歴史」も。
そういうものをまるごと引き受けて、僕はここを使うことになる。
そしてきっと、いつかまた誰かへ継ぐように手渡すのかもしれない。
……なんだ。
そういうことか。
僕は、父さんから酪農を継ぎたいことと、父さんが判断して還元消化を封印したことを、どこかで雑に一緒くたにしていたのかもしれない。
でも、あれはたぶん同じじゃない。
どちらも父さんから受け取った想いではある。
けれど、同じ形のものじゃない。
うまくできなくても、そうやって分けて考えれば、少しはわかりやすくなるかもしれない。
……父さんのことをちゃんと整理するためにも、今は目の前のやるべきことをやろう。
先に整理したほうがいいのは、きっと目の前のこの柵だ。
「……残念だけど、抜くか」
使えなさそうな木杭を両手で掴み、ぐっと引く。
根元まで傷んでいたのか、思ったよりもあっさり抜けた。
土がぱらぱらと落ちる。
「お疲れさま。君たち、がんばったね」
柵のための木板も、いったん全部剥がして外す。
半端に残しても、そこからまた崩れるだけだからだ。
釘が引っかかるたびに板が軋み、乾いた木屑がぽろぽろと落ちた。
抜いた杭と板を脇へ退け、足元を少しずつ空けていく。
すると、残した木杭と木杭のあいだが見えてきた。
あそこに板を繋ぐように渡していけば、この内側も少しは牧場っぽく見えるようになる。
僕はさっそく木板を手に取って、あててみる。
「あ。これ」
手が足りない。
片側を合わせる。
すると今度は、もう片側がずれる。
ずれた方を持ち上げれば、さっき合わせた側が浮く。
押さえる。
位置を見る。
固定できる形まで持っていく。
そのどれもを、一人分の手でやるには足りなかった。
板を一度下ろして、息をつく。
額の汗を腕で拭うと、土と木の匂いが混ざった。
額に、ジャリッとする感触が残る。
でも、ここまでやれた。
杭の位置は見えた。
板も選んだ。
金具も出した。
あとは――支えてくれる手がひとつあればいける。
「まあ、焦る必要はないよね」
そう呟いたところで、伸びた影が視界に入った。
振り返ると、そこには――。
「お〜〜い、ホノジ〜〜っ! 戻ったぜ〜〜!」
聞き慣れた、やたら明るい声があった。




