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蹄煮込み、経験を喰らう――牛好きの少年は「死」を食べて強くなる  作者: メイ
幕間章:夜に手を伸ばす

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第42話:ひとつずつ、この手で



 通りを抜けたあとの静けさは、思っていたよりもずっと寂しく感じた。

 さっきまでの商店街の賑わいが嘘みたいに遠い。


 目の前に広がっているのは、乾いた土と、脆くなった牛小屋、崩れた柵だ。


 ここは〈旧・ブラックウッド牧場跡地〉。


 その光景に、大きな変化はない。


 でも、昨日までとはひとつだけ決定的に違うことがあった。

 ここにはもう、始めるためのものがある。


 縄。

 釘。

 木杭。

 桶。

 金具。

 補修布。


 さっきまで《花丸日曜大工店はなまるにちようだいくてん》の店先にあったそれらが、今は牧場跡地の端に、きちんと積まれている。


 その事実を前に、僕は確かな感触を味わっていた。


 目を閉じれば、まだ見ぬ牛さんの鳴き声が聞こえてくる。

 それを想像するだけで、胸の内がじんわりと温かくなった。


 ただ、はやる気持ちはほどほどにしておきたい。

 何事も欲張りすぎて、焦ってはいけないと思うから。


 少しだけ休憩を取ろうと、頼りない入口の柵に背中を預けて、僕は地べたに座った。


 バッグから、コップと「ミルク」と書かれた小瓶を取り出す。

 とぷりと注ぐ。


 なみなみにならないように注いだつもりだったけれど、結果はあふれんばかりだった。

 ミルクが好きなので、思わず目いっぱい入れてしまう癖は、なかなか抜けそうにない。


 僕はその白い聖なる飲み物に口をつける。

 味は文句なしに、やっぱり最高だ。


「……ふぅ」


 気づけば、ため息のような声が漏れていた。


 疲れからなのか。

 ほっとしただけなのか。


 なぜ息が漏れたのか、その理由は僕にもわからない。


 小瓶を振り、ハクゲツのジャーキーを一欠片ひとかけら取り出す。

 それをまずは唾液でふやかしてから、ゆっくりと噛む。


 この食べ方にも、少しずつ慣れてきている自分がいる。


「……うん、美味しい! 頭が冴えてきた……やっぱりこのジャーキーは最高だね」


 噛み進めるたびに、旨味が広がっていく。


 荒れた牧場跡地の隅っこで、僕はお尻をつけて座ったまま、容赦ない日差しを浴びた。


 静かに風が吹いていて、気持ちいい。

 その上、ジャーキーもミルクも美味しい。

 まるで解放されたような気分だ。


 だからこそ、ふと、ひとつのもやもやが際立つように胸の中を巡った。


 少し考えてみれば、原因はわかりやすいものだった。

 ただ、わかりやすいからといって、扱いやすいかは別問題だ。


 僕の魔導体質ブラッディ――還元消化ダイジェスト

 そのことを、僕はまだ消化しきれていない。

 そして、簡単に消化しきれるとも思っていない。


 その体質を簡単に受け入れられるほど、僕は人間ができていないと思う。

 僕は器が大きい人間ではなく、目の前の小さな幸せにすがりつく人間だとも思うからだ。


(器がみみっちい人間でもないとは思うんだけどなぁ……でも――)


 いつになったら割り切れるのか。

 それとも、ずっと割り切れないのか。


 正直、わからない。


 不安だから、考えたくない。

 なのに、考えてしまう。


 だってこれは、簡単な問題ではない。


 父さんが僕のためにやっていることも、わかっているから。

 だから僕は、そんな父さんのために、家族のために、未来のために、朝から牧場跡地を復興するための資材を買いに行ったわけで。


 でも。


 でも。


 でも。


 ……本当に、それだけが理由?


 目の前に積まれた資材を見る。

 それを見ていると、事実から目を背けるなと言われているみたいな気分になる。


 僕が、牧場跡地をさっさと手入れしたい理由はなんだろうか。

 逸る気持ちを抑えようとしても、ウズウズするような、もやもやするようなこの感覚はなんなのだろうか。


 現実逃避したいだけ?

 ごまかしたいだけ?

 ただ、自分の生き方を貫きたいから?


 それとも最高のチーズを作って、家族の酪農を守りたいから?


 ……どれも否定できない。

 どれもそうだとも言い切れない。


 いっそのこと、英雄たちに責めてほしいと思った。

 でも、そういう時に限って英雄たちは黙っている。


 簡単には楽にしてくれない。


 ……甘えるな、と言いたいのだろうか。

 それとも、責めない優しさで、ただ口をつぐんでくれているのか。


 その真意を確認することが、すごく億劫おっくうに感じる。

 それはきっと、向き合うこと自体が怖いからなのだろう。


 僕はそこで、もう一度ハクゲツのジャーキーを噛んだ。

 充分にふやかしていなかったから、バキッといい音が鳴った代わりに、歯が少し痛んだ。


 ……そもそも、このジャーキーが美味しいのだって、ハクゲツが精いっぱい生きてきたからじゃないか。


 それを僕が調理して、こうして美味しく頂いて、作業を支えるためのエネルギー源になってくれている。


 それは、まがうことなき事実だ。

 命は、ただ奪った時点で終わるわけじゃない。

 巡り巡って、次に繋がっていく。


 なら、魔導体質ブラッディのことだって……。


 わかることからやるしかないんだ。

 わからないときに答えを求めても、どうしようもない。


 足を止めたら、途端に循環しなくなることぐらい、僕にもわかる。


 ならばせめて、わからないなりに進むことが大事なんじゃないか。


 正直、今はまだ苦しいけど。

 それでも、手を動かしたら何か変わるかもしれないから。


 幸いなことに、正解っぽい何かが目の前にある。

 なら、それを今日の道しるべにしてもいいかもしれないと思った。


「……よし」


 僕はそこで、立ち上がった。


 少しだけ、立ち上がるのに時間がかかった。

 もう一度、積まれた資材を全部眺める。


 どれも必要だ。

 どれも使う。


 けれど、一遍いっぺんにできるわけじゃない。

 だからこそ、着実にひとつずつ。


 できることから。


「まずは、快適に作業できるようにしよう」


 そう決めると、不思議と体が動いた。


 僕はまず桶を手に取り、手前へ置く。

 板材は反りを見ながら、重ね直す。

 釘と金具は散らないよう、まとめて布の上に寄せる。

 補修布は、露を避けたい資材にかけられる位置へ。


『おい、小僧。釘をそこに置くな』


 脳内に低く響いたのは、案の定の声だった。


(え、なんで?)


『踏むじゃろうが。暗くなってから足の裏に刺さって、あとで後悔しても遅い』


「あはは。それはたしかにね」


 小さく笑いながら、釘を置く位置をずらした。

 なぜ笑っているのか、自分でもよくわからなかった。


『小僧。笑うことではないぞ』


「そんな言い方しなくてもいいじゃん、ガンテツ……ちょっとは優しくしてよ」


『……できん。怪我される方が、ワイは嫌じゃ』


 老人の、少し子供っぽいような言い方で、僕は気づいた。

 ガンテツは、優しさで注意してくれていたのだと。


 なのに、僕は。

 それにすら、ちゃんと気づけていなかった。


 今、優しくないのはどっちだろう。


 僕の方なのかな。


 ……考えたくもない。


『板も揃えろ。乾燥の通りが違う。あと反りの向きを見ろ。重ね方が雑じゃ』


 雑と言われて、改めて見てみると、たしかにどこかまとまりがない。


 ガンテツの役立つ小言を聞きながら、実際に手を動かす。


(うわ、ほんとだ。こっちのほうが収まりいいや)


 少しずつ、少しずつ。


 跡地の端に、資材置き場の形ができていく。


 資材を整理し終えると、雨除け代わりに補修布をかけ、すぐ使うものだけを手前へ寄せる。


 桶の中には細かい金具をまとめ、縄はりが崩れないよう高い位置へ掛けておく。


「うん。これなら、すぐ使える」


 こうして実際に資材へ触っていると、万典ばんてんさんの店で見たものが、ただの“いい品”じゃなく、自分の手の中にある道具へ変わっていく感じがした。


 そうだ。


 この資材たちだって、購入したからって、すぐに顔なじみになるわけじゃない。


 この牧場跡地を、僕の手で実際に補修して、毎日使う中で、少しずつ少しずつ血肉のように馴染んでいくんだ。


 食事は身体の一部になる。

 でも、この資材たちは、巡り巡って僕の心を支えてくれる気がする。


 だからこそ。


「……ひとつずつ、この手で」


 通りに面した柵の中央には、牧場の入口だった場所がある。


 門柱はすっかり古び、片方の木の扉はとうに外れ、残ったもう片方も傾いたまま、朽ちかけた蝶番ちょうつがいに引っかかっているだけだった。


 かつて何度も開け閉めされていたのだろうその扉は、今では風に触れられるたび、力なくギィギィと軋むばかりだ。


 僕は、この音が嫌いじゃない。


 次に手を掛けたいのは、その入口のすぐ脇にある柵たちだった。


 全部を一気に直すのは無理だ。


 だったらまずは、通りから見える手前の一角だけでも形にしたい。

 そこが戻れば、帰ってきたときに最初に目に入る景色が変わる。


 まずは、そこまでの導線を作る。


 入口から柵のところまで、邪魔になりそうな木片や瓦礫をどかしていく。


 腐り落ちた木は、大きさの割に妙に軽くて脆い。

 持ち上げた瞬間に、ぼろりと崩れるものもあった。


 できるだけ拾い、脇へ寄せ、足場を作る。

 崩れた木材や燃えそうなゴミを集め、周囲に何もないところへ移動させる。


 あとで燃やして処分するためだ。


 地味な作業だ。

 地味だけど、これがないと始まらない。


 ある程度足元が見えるようになったところで、僕は入口のすぐ脇にある柵の前へしゃがみこんだ。


 木杭と木板を、順に見ていく。

 まだ支えに使えそうな木杭もある。

 でも、手で揺らしただけでぐらりと傾くものもあった。


 板も同じだ。

 ところどころ風化していて、割れているものがいくつかある。


 この牧場跡地の柵は、最初からずっとこの形だったわけじゃないのかもしれない。


 ロイさんたちも、一から全部を立てたわけじゃなくて、その前に誰かが使っていたものを譲り受けたのか。

 それとも、僕みたいに資材を買い足して、少しずつ継ぎ足してきたのか。


 そんなことを思わせるくらいには、柵に年季があった。


 この牧場跡地が、いつからここにあるのかはわからない。


 でも、わかることもある。

 きっとここは、ずっと誰かの手に引き継がれてきた場所なんだ。


 誰かが使って。

 傷んだところを直して。

 また誰かが使って。


 それでも駄目になったところは外して、新しいものを継ぎ足してきたんだろう。


 この牧場跡地の価値も、崩れ方からわかる「たしかにここに温度があった歴史」も。


 そういうものをまるごと引き受けて、僕はここを使うことになる。


 そしてきっと、いつかまた誰かへ継ぐように手渡すのかもしれない。


 ……なんだ。

 そういうことか。


 僕は、父さんから酪農を継ぎたいことと、父さんが判断して還元消化ダイジェストを封印したことを、どこかで雑に一緒くたにしていたのかもしれない。


 でも、あれはたぶん同じじゃない。

 どちらも父さんから受け取った想いではある。


 けれど、同じ形のものじゃない。

 うまくできなくても、そうやって分けて考えれば、少しはわかりやすくなるかもしれない。


 ……父さんのことをちゃんと整理するためにも、今は目の前のやるべきことをやろう。


 先に整理したほうがいいのは、きっと目の前のこの柵だ。


「……残念だけど、抜くか」


 使えなさそうな木杭を両手で掴み、ぐっと引く。

 根元まで傷んでいたのか、思ったよりもあっさり抜けた。

 土がぱらぱらと落ちる。


「お疲れさま。君たち、がんばったね」


 柵のための木板も、いったん全部剥がして外す。

 半端に残しても、そこからまた崩れるだけだからだ。


 釘が引っかかるたびに板が軋み、乾いた木屑がぽろぽろと落ちた。


 抜いた杭と板を脇へ退け、足元を少しずつ空けていく。


 すると、残した木杭と木杭のあいだが見えてきた。


 あそこに板を繋ぐように渡していけば、この内側も少しは牧場っぽく見えるようになる。


 僕はさっそく木板を手に取って、あててみる。


「あ。これ」


 手が足りない。


 片側を合わせる。

 すると今度は、もう片側がずれる。


 ずれた方を持ち上げれば、さっき合わせた側が浮く。


 押さえる。

 位置を見る。

 固定できる形まで持っていく。


 そのどれもを、一人分の手でやるには足りなかった。


 板を一度下ろして、息をつく。


 額の汗を腕で拭うと、土と木の匂いが混ざった。

 額に、ジャリッとする感触が残る。


 でも、ここまでやれた。


 杭の位置は見えた。

 板も選んだ。

 金具も出した。


 あとは――支えてくれる手がひとつあればいける。


「まあ、焦る必要はないよね」


 そう呟いたところで、伸びた影が視界に入った。


 振り返ると、そこには――。


「お〜〜い、ホノジ〜〜っ! 戻ったぜ〜〜!」


 聞き慣れた、やたら明るい声があった。

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