第41話 正午の鐘
◇
閉じられていた扇子を、ゆっくりと広げる。
正午の鐘は、街の上からまっすぐ落ちてきた。
鐘の音というものは、たいてい誰にとっても同じ音であるはずなのに、孤高の令嬢――『橘ヴィオレッタ』にはそうは思えない。
朝と昼の境目を知らせる合図。
あるいは、盤面が一段切り替わる音。
そんなふうに聞こえてしまうのだから、たぶん少しだけ、どこかが壊れているのだろう。
世界を見通すフィルターそのものが。
それともこれは、壊れているのではなく、変形しているだけなのか。
ヴィオレッタはまだ、その答えを持たない。
「お~~、きたきた~~~!」
ドラ公のしっぽの前。
噴水の縁に腰掛けていた兄の橙馬が、片手を上げた。
怒っているふうでもなく、待ちくたびれたふうでもなく。
ただそこにいることが自然みたいな顔で。
ヴィオレッタは、小走りで駆け寄る。
「オーホッホッ! わたくしが来ましたのよ!」
口元に扇子を添え、高笑いを決める。
「やっほ~~い! アホかわいい妹っ!」
「大変ながらくお待たせしましたわ、お兄さま。骨折り損のくたびれ儲けですわね」
「おう? 別に待ってねえし、それ、自分に価値がないって言ってるのと同義だからな? あんまり響きがかっこいいからって、ことわざをノリで使うなよ、ヴィヴィ。面白すぎんだろ」
「あらま。その呼び方――」
「なんだよ。ヴィヴィって呼ばれんの嫌なのか? お年頃ってやつぅ? でも、ずっとお前のことはこうやって気持ちを込めて呼んで――」
橙馬が言い切る前に、ヴィオレッタは扇子をバシッと閉じた。
「お兄様」
「……あらら。そこまで嫌なの?」
「最高に心地のいい愛称ですわ。久々に聞けて、わたくしはうれしくてよ。いっそのこと清々しく高らかに、完膚なきまでに業を味わいつつ――」
胸に手を当て、誇らしげに自分を指す。
「もっとやれ、でございますわ」
にんまりとした口元も添えておく。
「おいおいおいおい……!」
橙馬は勢いよく立ち上がると、ヴィオレッタのそばに駆け寄って――。
「ヴィヴィ~~ッ!」
頭をわしゃわしゃに撫でた。
「きゃっ! お兄様ったら!」
「お前、やっぱり最高にかわいい妹だったんだな~~! 家宝にするぜ~~~!」
撫で方は、早々に容赦という概念を見失っていた。
せっかく整えてきたダブルの縦ロールが、みるみる崩れていく。
「ちょ、ちょっと! 撫でるなら、もっとやさしく撫でなさい! あ~~っ、そんなふうにわしゃわしゃしたら~~~っ! わたくしの高貴なヘアセットが~~!」
「おっと、すまんすまん。やり過ぎた。怒ってる?」
「うぅ~~っ! 一時間もセットしたのにぃ~~っ!」
「本当にすまんって。怒ってる?」
「う~~……大切なお兄様なので、ぎりぎりんちょで許しますわ」
「本当に許してくれんのか? なんかギリギリ、ダメージ受けそうな表現なんだけど」
「まさか! わたくしの最高のお兄様なのですよ! バチボコに許しますわ」
「ヴィヴィ~~~ッ……許されるたびに、なんだかボコボコにされそうな響きもあるけど、なんだか泣けてきたぜ。マジでそうやって言ってくれんの、お前だけなんだよなぁ。もう、なんてあたたかい交流なんだよこれっ!!」
ひとしきり騒いだあと、ふっと空気がゆるむ。
噴水の水音が、そのすき間にするりと入り込んだ。
「そりゃあ、わたくしたちがここで乱れたら、敵の思うツボなのですわ……」
ヴィオレッタは崩れた髪を指先で整えながら、少しだけ視線を落とした。
「……わたくしたちは、愚者だと思われているのですよ。未だに。わたくしたちは家族内ではニコイチでいないといけないのに……お兄様は、それでも家に帰ってこないと――」
「…………だよなぁ。ごめんなぁ、ヴィヴィ」
さっきまでの軽い声が、ほんの少しだけ沈む。
「お前には、俺に文句を言う都合も、権利もある。俺っちにできるのは、その気持ちを受け止めるぐらいか。何か言いたいなら、どんどん言え。ほれほれ」
橙馬は両腕を広げて、ヴィオレッタに向き合った。
その意味を、ヴィオレッタはよく知っている。
だからヴィオレッタは、遠慮なくその胸に飛び込んだ。
「お兄様……バカ! バカバカバカっ!」
橙馬の胸の中で、ヴィオレッタは服をぐしゃりと握り、何度も叫んだ。
「バカッ! バカバカっ! わたくしがどんな気持ちでいるかっ! お兄様のために何をしているかっ! 本当にわからないのですのっ!?」
その体温を感じながら、何度も叫んだ。
「……事情はわかってんだろ。俺だって、お前のそばにまだいてやりたい。ただ、あの家の都合じゃ、やりたいことはできない。決してお前を適当に扱おうなんて思ってねえよ。なんてたって、あのクソ親どもだからなぁ。長い目で見たら、このカタチが一番なのよ。ヴィヴィも、わかってくれるとうれしいんだけど」
「……お兄様」
言いたいことは、たぶん山ほどあった。
責めたい気持ちも、甘えたい気持ちも、きっとその両方があった。
けれど、そのどちらを口にしたところで今すぐ世界が変わるわけではないと、ヴィオレッタは残酷なまでに知っている。
「――ああっ! なんでこうなるかね! 俺っちの予定じゃ、てっきりヴィンセントがお前のそばにいてくれるとばかり思ってたのによ~~っ」
「――ヴィンセント……ねぇ?」
その名前だけ、ヴィオレッタの声色がわずかに鈍った。
「なんだよお前。自分の元婚約者になった途端、冷たくなったのか? 円満に別れたんだろう?」
「もちろん後腐れなく。彼には感謝こそされど、文句を投げつけられる謂れはありませんわ」
「――なんだ。お前、やっぱりヴィンセントのこと、まだ好きなんじゃん……」
「……ありえませんわ」
最初は、強い声色で否定した。
「ふーん。そういうことにしておいてほしいのか」
「だから、ありえませんわ」
二度目の声は、弱々しかった。
ヴィオレッタは目を伏せる。
「お兄様は知らないのです――彼がどういう人物で、わたくしにとってどんな人なのか……」
「そうかな。まあ、知らなくても仕方ないっていうか、聞いても答えてくんないじゃん。ヴィヴィ」
「それは――」
次の言葉が、詰まったように出てこない。
「……まぁいいぜ。無理に答えるもんでもないもんな」
問い詰めるでもなく、笑って流すでもなく。
橙馬は、そこでちゃんと止まった。
その雑さに見える優しさが、ヴィオレッタには少しだけずるく感じる。
なんとも言えない気持ちになりつつ、少し気まずさを覚えたヴィオレッタは、橙馬に渡したかったものを思い出した。
もちろん、ヴィオレッタは自分のズルさにも気づいている。
「それよりお兄様、これ――」
「え、なにこれ!?」
ヴィオレッタは、金色に輝くコインを親指で弾き上げた。
くるくると回転したそれが陽を弾き、頂点でひときわ鋭く光る。
落ちてきたところを、バシッと片手で受け止めた。
それから橙馬に見えるよう、得意げに掲げる。
「一金貨です」
「……いやぁ、見りゃわかんのよっ!? かっこよく決めてもらったところ悪いんだけどもね!? そういう意味じゃなくてさ!」
「お兄様、お金ないないの貧乏人でしょう。これだけあれば、食べるに困りはしないのですわ」
「あ~~、その~~っ、ありがたいん、だけどもよ?」
橙馬はバツが悪そうに頭を掻いた。
「こう見えても、俺っちには立派な新聞配達と新聞契約バイトがあんのよ。食うに困りはしないって」
「……調べましたわよ。新聞バイト、月給六銀貨と聞きましたわ。それじゃあ、コース料理だと一回で終わってしまいます。餓死確定ですのよ」
「……いやぁ、コース料理とか。なんか苦手なんだよなぁ~~。あ、勘違いすんなよ? 別に、美味しく食べてる人に文句言いたいわけじゃなくてだな……ただ普通にごはん食べるだけなら、一か月は普通になんとかなるぜ」
「いいから、黙って受け取ってくださいませ」
ヴィオレッタは、橙馬の胸に一金貨を拳ごと叩きつける。
それでも橙馬は、一金貨を受け取る気配をまるで見せない。
「いや、マジでいいって! 気持ちはうれしいけどな。その金は、もっと上手く活用できる何かに使ってくれよ?」
「……これがそうなのですけど」
「それに、そんな贅沢しなくたって、さっきアイス奢ってもらったしな! しかも三段もだぜ!?」
「……それは」
「なんだよ。ヴィヴィの高貴な舌には合わないってか?」
「……テン上げマックスよいちょまるですわっ! まったく羨ましいっ!」
「ヴィヴィ~~っ! 愛してるぅ~~っ!」
またもや橙馬は、ヴィオレッタに抱きついた。
今度はさっきよりずっと加減を覚えた手つきで、やさしく頭をわしゃわしゃする。
「こらっ! お兄さまっ! こらっ!」
口ではそう言いながらも、ヴィオレッタは楽しそうにはしゃいだ。
怒ったふりも、令嬢らしい見栄も、その瞬間だけはだいぶ雑になる。
――ほんとうに、こういうところなのだ。
厄介で、騒がしくて、油断すると全部持っていく。
だから困る。
だから、近くにいると調子が狂う。
それがヴィオレッタは、嫌になるほど……嬉しかった。
「まったく……厄介なキャラクターほど、本当に近い位置に置かれますのよね」
「……たまに言うけど、それマジでどういう意味だよ?」
ヴィオレッタは言葉を返せなかった。
返さないまま、視線だけで周囲を軽く払う。
その仕草の方がよほど盤面じみているのに、とヴィオレッタは思ったが、口にはしなかった。
意味のありそうな、無意味な距離。
意味のありそうな、無意味な会話。
意味のありそうな、無意味な重さ。
意味のありそうな、無意味な展開。
ただの記号的なやり取りだと。
最初はそう思い込んでいた。
ただ、今となっては……わからなくなりつつある。
ここにいる人たちは確かに生きていて、誤魔化せない温度がある。
特に、兄である橙馬はそれが顕著だ。
ヴィオレッタは、それがひどく嫌になる。
橙馬に会うたびにヴィオレッタは、自分が兄に依存している感覚を強く自覚させられていた。
最初はあれだけ興味もなく、どちらかというと嫌っていた、はずだったのに。
せめて、触れ合う機会を最低限にできれば、どれほど良かったのかと――。
けれど、運命がそう簡単に許してくれないことを、ヴィオレッタはよく知っていた。
「ヴィヴィ。そろそろ時間が来ちまったみたいだ」
「……そのようですわね」
ヴィオレッタは気配を感じて、目を細める。
通りの向こうから、ひとりの少年が歩いてきた。
表情が見える距離ではない。
それでも、何も知らなそうにのんびり歩いてくることだけはわかる。
「じゃ、行ってくるわな」
「お兄様……」
「なんだよ。今からは他人のフリするから、あんまり話しかけないでくれると助かるんだけど……」
「彼はどんな人?」
「まだ二日もない。しっかり絡んだ時間なんて、ほんの少しだ。でも、それだけでもわかった」
橙馬の声が、今までにないほど寂しそうな色をしていた。
「…………いいやつなんだよ。嫌になるほどにな」
「――そうですか。お気をつけて」
「おう」
そう言って、橙馬はあの少年の元へと向かった。
それでいいのだ、とヴィオレッタは思った。
ヴィオレッタの気持ちを、橙馬が知るはずもない。
ヴィオレッタの思惑を、橙馬は知ってはいけない。
ヴィオレッタは誰よりも、秘密を呪っていた。
そして、あの少年の運命を誰よりも儚く思った。
それでも、今回だけは――。
「殺されるわけには、いかないから」
◇
ヴィオレッタは一度だけ深く呼吸をして、抜けそうになった気を取り直した。
アーケードの影に入ると、空気が少しだけ変わった。
日差しの熱が和らぎ、石畳の冷たさが音に混じる。
そこに立っていたのは、ヴィンセントと、そしてひとりの少女だった。
琥珀色の瞳が揺らがない。
感情より先に、事実を数える類の人間。
その割に直感も大事にする。
こちらを見返してくる速度にまで、無駄がない。
その上で、紛うことなき美少女。
これが完成されたひとりの令嬢なのだと、ヴィオレッタは感心した。
「綺麗すぎますわね」
見惚れて、思わずそう言ってしまった。
しまった、と思ったころには、少女がすでに口を開いていた。
「雑ですらないのよ」
少女は短く返した。
どうやら少女は、その言葉を別の話題への発言として受け取ったらしい。
ヴィオレッタの胸に、安堵が落ちる。
ならば、と。
ヴィオレッタはその話題に対しての返答を用意した。
「転校にしては、痕跡が薄すぎる。消え方があまりにも整いすぎておりますわ」
「ヴィオレッタ――あなたと意見が合うのは少々気に食わないけど、綺麗すぎる。誰かが“そう見えるように整えた”感じがする、という点については完全同意するわね」
「わたくしも、アナタと意見が合うのは気分がよくないのですが――綺麗すぎる退場には、だいたい台本が付いているものですわ」
「誰かが裏にいると……あなたもそう考えている。そういうことでいいのよね?」
その確認に、ヴィオレッタはこくりと頷いた。
ヴィンセントが小さく息を吐く。
「冷夏様にヴィオレッタ。君たちは、どうしてそういう言い方ばかりするんだ」
久々に見るヴィンセントに、ヴィオレッタは堂々と顔を晒すのは気が引けた。
なので当然のように、扇子でそのまま口元を覆う。
「人生に演目がなかったら退屈でしょう?」
「用意された演目なら、退屈でいいかしら」
少女はきっぱりと言った。
「私は、誰かに決められるのが嫌なの。だから瑠衣だって、この目で見るまでは信じない。私はまだ、生きていることに賭ける」
「……もちろん、生きていない可能性だってありますのよ?」
扇子で口元を覆ったまま、ヴィオレッタが問う。
少女は一切瞳を揺らすことなく、ヴィオレッタを見て言った。
「生きてるわ」
有無をいわさない言い方だった。
「……まったくアナタって人は……世の中を思い通りにできると思っているような態度。どこまでいってもムカつきますわね」
「そんなこともないわよ。私の力なんて些細なものだわ。それでも――」
少女は、まっすぐに言った。
「私の人生は私のモノよ。だから瑠衣は生きてる。それは信じてるの……。というより、そう感じてるのだから、この答え方はズルいものかもしれないわね」
「……そういうところがムカつくんですわ。揺れるくせに、揺れることだけは肯定しているような、その態度が」
「……人生は揺れるものよ。実際にこうして生きてるんだもの。仕方がないでしょ。でもそうね。私も逃げずに答えるとするなら――」
少しだけ、少女の琥珀色の瞳が揺れた気がした。
「もし瑠衣がもうこの世にいないのだとしたら……私は、その原因を追究するわね」
「追究して、どうするんですの」
「そんなの、決まってるじゃない」
少女はヴィオレッタをまっすぐ見据える。
「ぶちのめす。それだけよ」
その真剣な眼差しがあまりに堂々としていて、ヴィオレッタは眩しく感じた。
少しだけ、自分の役割を忘れそうになった。
けれど、なんとかギリギリでそれを思い出すことに成功する。
「ひとつだけ、直感が働きましたわ……」
「ヴィオレッタ。このタイミングであなたの直感が輝き始めたのね。やはり橘家、というべきかしら」
「……冷夏。あなたが怪しいと見ている場所は、どこですの?」
「竜息山」
「なら、行く時間は深夜がおススメですわね。日付がちょうどまわるころ、日付で言えば来週の土曜」
「癪だけど、仕方ないわね。今回は瑠衣のこともある。それに、あなたがそう言う時はたいてい、有力な何かがあるとき。今回は一体、何が見えたの?」
「……牛好きの少年」
「牛好き……? どういう意味かしら」
「行けばわかりますわよ。協力してほしいと思ったなら、素直にそうするといいですわね」
「わかったわ。でも、この情報はあなたが勝手に提供した。残念かもしれないけど、貸しにはしないわよ」
少女の琥珀色の瞳は、相変わらず凛としていた。
「まったく……ムカつく女ですわね」
その瞳を見て、ヴィオレッタは思った。
物語があるから、主人公がいるのか。
主人公がいるから、物語があるのか。
ヴィオレッタには、それがわからなかった。
でも目の前の少女を見て、こうも思う。
――そんなの、どっちでもいいよ。
ヴィオレッタはそこで、扇子をパチンと閉じた。




