第37話:ルミタ農家のエルフ
一拍遅れて、露台の下がざわついた。
かさ、かさかさっ――次の瞬間、暗がりからネズミがわっと飛び出してきた。
「うわっ!?」
「……なんだ、今の」
「ネズミだ!」
一匹じゃない。二匹、三匹、四匹――いや、それどころじゃない。灰色の小さな影が石畳の上をばらばらに駆け、人の足元をすり抜けていく。
露台の前にいた人たちが、思わず身を引く。買い物袋を抱えたおばさんが小さく悲鳴を漏らし、誰かが木箱にぶつかって、がたん、と鈍い音が鳴った。
「……気持ち悪いな」
「じゃがいも、買わなくてよかった……」
ざわめきは、すぐには収まらなかった。けれど、人はもうそこに留まりたがらなかった。
さっきまで露台のまわりにいた客たちは、ひとり、またひとりと距離を取っていく。様子をうかがっていた人たちまで、いつの間にかその場を離れていた。
気づけば、あれほどあった人だかりは、もうほとんど消えていた。
「……なんや。急に寂しなってもうたなぁ」
エルフのお兄さんが、少しだけ肩をすくめてそう言った。
僕は、目の前で何が起きたのか、よくわからなかった。
いや、わかりたくなかった――と言ったほうが正しいのかもしれない。
さっきの一瞬と、今の騒ぎが、頭の中でうまくつながらない。
ただ――もしかして、とは思った。
その可能性が、脳裏にこびりつく。
気づけば、僕の口はなぜか震えていた。
「あの、お兄さん……何かしました?」
気づけば、安心したくてそう聞いていた。
「心配せんでもええ」
太陽と月のピアスが、妖しく揺れる。
「……逃げられたわ」
「逃げられた、ですか?」
「……ネズミ、ようけおったの見たやろ。表に出とった一匹だけやなくて、露台の下にも何匹か潜ませとったみたいやね。せやから、ちょっと細工したときに一匹は仕留められたんやけど――」
小さく「ふっ」という声が聞こえた。
「……ハズレや。カモフラージュに、ただのネズミまで混ぜる作戦、うまいわぁ。ほんま、ああいうクズはきっちり始末せなあかんのに。しくじってもうた」
「し、しくじって……?」
「おいおいおいおいっ!! お前やべえって!? 下手したら人を殺してた可能性があったんだぜ!? 正気かよ!!」
隣の橙馬の声と目が真剣になる。
初めて見る、切迫した感じの瞳と声色だった。
「……冗談やで? ビビらすためにネズミ一匹は仕留めたけど、あれが偽物やってことくらい、さすがにわかっとるわ。ボクもこの年で、人殺しにはなりとうないからね」
橙馬が短く息を吐いたのが聞こえた。
その言葉を聞いて、少しだけ安堵する。
でも、安堵しきれないのはなぜだろう。
嘘だとも思えない。けれど、本当のことを全部言っているようにも思えない。
そんな気持ち悪さがあった。
「ならいいんだけどもよ……でも勘弁してくれよ。冗談は笑えるから冗談なんだぞ……。頼むから笑えねえ冗談はやめてくれよ……」
さすがの橙馬も、声のトーンが低かった。
「……せやね、橘橙馬くん」
「お前、なんで俺っちの名前を……!」
「そりゃクラスメイトの名前ぐらい覚えるやろ。しかも君はなんてたって、あの『橘』くんやからねえ」
「……あ? いちおう俺っちはクラスメイトの顔、全員覚えてるぜ。お前みたいな胡散臭いヤツなんていなかった」
「入学式はこっちの都合で間に合わへんかったんや。別日に入学試練は受けることになっとる。けどまあ、クラスメイトの顔と名前ぐらい、先に把握しときたいやんか。これから四年間、学園で顔合わせることになるかもしれへんのやし。せやから――」
お兄さんは僕の方を見た。
「鴨葱焔乃士くん。君のことも、よう知っとるよ。入学初日の属性判定、えらいことやったらしいねぇ。……お気の毒さん」
悪気があるのかないのか、そんな調子で言う。
「……闇属性のこと、気にならないの?」
「なんや、そんなこと」
「そんなことだけど……」
「あんなもん、ただの属性や。闇属性の知り合いが何人かおるけど、別に普通やで? 気にするほうがおかしいわ」
当然のようにそう言われて、すこしだけ救われたような気分になった。
「……そっか、それはありがとう」
「いちおう、軽く自己紹介しとくわ。ボクは椿朔也。今後もご贔屓に。よろしゅう」
「うん、よろしくね」
「おう。俺っちは橘とう――って、名前はもう知ってんだもんな。一応よろしく」
「――で。ルミタはいちおうボクんとこの名産品やねん。せやから、鴨葱くんが興味もってくれとるんは、素直にうれしいわ。せっかくやから挨拶がわりにこれ――」
そう言って、椿くんはルミタを一つ、僕の手のひらに乗せた。
「え」
「それ、パチモンやのうて、本物のルミタやから安心しい」
「く、くれるの!?」
「目ぇキラッキラやんか。眩しいわぁ。そんな鴨葱くんには、ご褒美にもう二つおまけでつけといたるわ。もともと三つ買おうとしとったんやろ? ……あれ、ルミタやなくて安い方のルマタやけどなぁ」
さらに二つ、僕の頼りない手のひらに追加で乗せてくる。思ったよりおおぶりのじゃがいもで、今にもこぼしそうになる。
僕はそれを両手でしっかり受け止めた。
「み、三つも!? 大盤振る舞いすぎない……? 椿くんのこと、もう橙馬より好きになりそう……」
「おいッ!」
橙馬に軽く突っ込まれたあと、手元にある三つのルミタを見る。
もらえるのはうれしい。けれど、ルミタひとつあたりの価格は二銀貨(200ソル)だと言っていた。
三つあるから六銀貨(600ソル)ぶん。僕のブラックウッド牧場での月給が十八銀貨(1,800ソル)。つまり手元にある三つのルミタだけで、月給の三分の一ってことになる。手のひらに乗っているだけでそれだけの値段だと思うと、もらうことにあまり抵抗のない僕でも、さすがに気が引ける。
「……でもこれ、全部で六銀貨の価値があるんでしょ。そう考えたら……もらえないよ……」
「ええてええて。ボクんとこ、ルミタ農家やねん。腐るほどあるし、遠慮せんともらっとき」
「本当!?」
腐るほどある。
ならばここは遠慮なく――
「じゃあもらう!」
「適応が素直すぎんだろ……! まずルミタ農家であることに驚けよっ!?」
橙馬は知らないのかもしれないけど、農家さんがくれるものは、素直にもらっておいたほうがいい。
酪農家として今後の付き合いに響くかもしれないし、なにより相手は、あの超高級じゃがいも『ルミタ』の農家さんだ。ここはひとつ、ご贔屓にしてもらうためにも、しっかりもらっておくのが大正解である。
それに農家さんの中には、農作物を分け合うこと自体が生きがいになっている人もいる。
あと、これはけっこう大事なことなんだけど、農家さんが「腐るほどある」と言うときは、だいたい本当に腐るほどあるのだ。
うちだって、牛乳を腐らせるくらいなら、タダで飲んでもらったほうがいい。作れるからといって、いつも毎回、全部をきっちり捌けるわけじゃないんだから。
と、言っても、実際に譲ってくれることは当然ってわけでもない。感謝を欠くのはよくない。
いつか僕も自分の牧場で美味しい牛乳が搾れたら、椿くんにはしっかり飲んでもらおうと決心して、深々と頭を下げた。
「椿くん、ほんとうにありがとうございます!」
「ええてええて。人生は助け合い、困ったときはお互い様、やろ?」
――素敵な言葉だ、と思って、僕は椿くんに笑顔で答える。
「そうだね。巡り巡って、お礼はしっかりさせてもらうからね!」
「期待せずに気長に待つことにするわ。じゃあそろそろボクはお暇するわ。ほな――」
椿くんはそう言って踵を返した。
これで学校での知り合いが、橙馬に椿くん。
学校に行くのが、少しだけ楽しみになる。
こちらからもお別れの挨拶をしよう――と思ったそのときだった。
「ああ、せやせや」
数歩だけ歩いたあと、ぴたっと椿くんが振り返った。
「食べ方なんやけど――おすすめは、蒸して食べること。茹でるんも、揚げるんも、焼くんもあかん。生なんてもってのほかや。食べるんは夜。ちゃんと蒸してからにしぃ。それ、最初のルミタやからね。さいごまで美味しく食べたいなら、そこはきっちり守って食べてえな。ほな、今度こそ――また」
そう言って、手のひらをひらひらさせながら、今度こそ朝の商店街の人波に向かって歩いていく。
「ありがとう――っ! おいしくいただきます――っ! また学校で――っ!」
大声で別れを告げた。意外にも橙馬は、小さく手を振るだけだった。
数秒して、隣からじゅるって音が聞こえた。
「晩飯が手に入ったなっ! ホノジっ!!」
隣を見れば、ルミタをガン見する橙馬の顔がそこにある。
「……ったく。しょうがないな。食べたいなら今日しっかり働いてね?」
「あたぼーよ! そんなことぐらいで超高級じゃがいもが食えるなんて……うひょ〜〜っ! 最高じゃねえかっ! 想像したらよだれが滝のように溢れてきたぜっ! ……じゃあ、どうする? 先、買いたいものを早速見ちまうか?」
「うん、そうする。あ、でもその前に――」
僕は腰のベルトに取りつけた革の小瓶ホルダーへ手を伸ばし、そのうちのひとつを指先で外した。
持ち歩きやすいように細工されたそれは、歩いても暴れないようしっかり腰に固定されていて、必要なときだけすぐ使えるようになっている。
手のひらの上のルミタへ、小瓶の口をそっと向ける。
「《食糧保存》」
瓶の口もとに淡い光がふわりと灯った。
すると、手のひらに乗っていたルミタたちが吸い寄せられるみたいに、するすると小さくなっていく。ごろりとした芋の輪郭は、みるみるうちにとても小さな飴玉みたいな大きさまで縮み、そのまま小瓶の中へぽとぽと収まっていった。
ついさっきまで両手からこぼれそうだった超高級じゃがいもが、今では親指よりも一回り程度大きいぐらいの小瓶ひとつに収まっている。
隣でそれを見ていた橙馬の目が、わかりやすいくらい丸くなった。
「うおっ!? ホノジ、小さい瓶に全部ルミタが吸い込まれたぞっ!? 消えたのか!?」
「なわけないでしょ。これは僕の《生粋魔法》の《調理》のひとつで、《食糧保存》って言うの。食べ物なら百分の一のサイズにして、保管できるんだよ」
「……べ、便利すぎねーかこれっ!? 今日の買い物、ほんとに俺っちの両手いるか!?」
「いるいる。残念ながら、そこまで万能じゃないんだよね。食べ物以外に適応はできないから」
「……食べ物以外なら適応できないか、なら普通か……。ん、食べ物以外なら普通? 百分の一のサイズに圧縮することが? 普通? それって激ヤバな空間魔法レベルじゃねえの!? ……でも制限があるから、普通、なのか…………? うーん、うーん……」
橙馬がずっと独り言で百面相してる。
「ま、いっか! 考えてもわかんねえし!」
最後はぽんと手のひらを叩いて何かスッキリしたようだ。
「そしてこれが買いたいものなんだけど――」
そう言って僕は、買い物リストのメモを橙馬に手渡した。
「どこに売ってるかわかる?」
「あ〜、やっぱりこういう感じのモノが必要になるよなっ! あさの通話で『牧場復興』ってワード拾えたから、なんとか予測の範疇におさまったぜ! これなら〈花丸日曜大工店〉で全部揃えられる。おやっさんには先に通話でいちおう伝えてるから、話はスムーズに済むはずだ!」
あまりにも躊躇なく、滑らかに言うものだから、一瞬、言っていることの意味がうまく呑み込めなかった。
「え? 通話で伝えてる? てか『牧場復興』の一言で、先回りしてそのお店に連絡してくれたっての?」
「先回りってほどのもんでもないって。ただ可能性があったから、おやっさんに『資材がいっぱい必要になるかも、たぶん!』って伝えただけだから」
今度はその意味を咀嚼できたせいか、胸の内側に橙馬の言葉が素直にすっと落ちた。
「…………そういうところがムカつくんだよなぁ」
「ん? ……ホノジ?」
「なんで、そこまでして田舎もんの僕なんかに……今日だって、いきなり通話で言われて、当然のように手伝うのだってどうかしてるよ……」
「おう? 文句言ってる割には、少し泣きそうな顔してるぞ……? 俺っち、なんか言っちまったか……?」
橙馬が見てるから、目の端に貯まった雫はグッとこらえて、こぼれないようにする。
「――とりあえず、行こ。案内して。なんでその資材たちが必要になるか、歩きながらもう少し詳しく説明するよ」
そう言って、橙馬の先導を手のひらの動きで促した。
……今は少しだけ顔を見られたくない、ということは橙馬にはもちろん伏せておく。
通りを抜けながら、僕は橙馬にここまでの経緯をかいつまんで話した。
橙馬との契約で手に入れた新聞を見て、条件に合いそうな物件を見つけたこと。
実際に足を運んでみたら、そこが牧場の跡地だったこと。
そしていろいろあった末に、なんとかその土地を買うところまでこぎつけたこと。
……実際は無料でもらったようなもんだけどね。
さすがに全部をそのまま話すわけにはいかない。
ハクゲツのことも、あそこで何があったのかも、今はまだ伏せておきたかった。
だからそのあたりはぼかして、「現地で少し問題があったけど、結果としては手に入った」とだけ伝えるにとどめる。
「へぇ〜〜、新聞からそんな掘り出しもん見つけちまうとか、やっぱ持ってるなぁホノジ!」
「まあ、僕はなんてたってラッキーボーイだからねっ!」
「おう? ホノジって、下手したら俺っちより前向きだよな?」
「……えー、さすがにそれはない」
「いやいやいや! 全然あるからなっ!?」
「そう?」
「そうそうそうそう! マジだって!」
橙馬は暑苦しい顔で何度も頷く。
こっちはこっちで、思い出すだけで胃のあたりが少し重くなるような出来事もあったのだけれど、そこをわざわざ今ここで訂正する気にはなれなかった。
あと、陽キャより明るいはさすがに盛り過ぎだとも思う。
「で、その牧場をもう一回使えるようにするには、まず手を入れないといけないんだ。柵とか、補修用の板材とか、道具とか……細かいものも含めて、いろいろ必要でさ」
「だから『牧場復興』ってわけか!」
「うん。たぶん、想像してる以上にやることは多いと思う」
土をならすだけじゃ終わらない。
牛さんを迎える前に、囲いも、設備も、水回りも、まともな形に戻さなきゃいけない。
壊れたままの牧場跡地は、土地というより、まだ“これから牧場になる場所”でしかなかった。
けれど――それでもいいと思えた。
ゼロじゃない。
何もないわけじゃない。
牧場にしていいと言える場所を、ちゃんと手に入れたのだから。
牛さんと同様に、牧場も手入れをしたら嘘をつかない。それを知ってるだけで僕にとっては充分だった。
「だからその、悪いんだけどさ――」
僕はポリポリと頬を掻いた。
「お金とかその、あんまり出せないんだけど、最後まで手伝ってくれるとうれしいっていうか――」
少しだけ不安になって、橙馬の顔は見られなかった。
でも返ってきたのは、やはり――
「お金とかいらないって! 三段アイスとルミタで、むしろ最高すぎるからなっ!?」
底抜けに明るい声だった。
そうだ、橙馬はこういうやつなのだ。
「うん、ありがとう」
そこで話に区切りがつくと思ったのだけれど。
「――あ。でもひとつだけ。いいか?」
今度は、少し落ち着いた声。橙馬がそこで止まった。
こちらをゆっくりと振り返る。
「そのさ、おやっさんいい人だから、たぶん嫌って言っても割引してくれるんだけど――」
橙馬が言い切る前に、「え? 割引? いいよ、そんなの!」と僕は思わず、遠慮した声で遮った。
「いや、これは条件として付けくわえる。手伝ってほしいなら、しっかりと聞いてほしいんだけどもよ」
橙馬のここまで真剣なトーンを、初めて聞いた。
僕は向き直る。
「……うん。聞く。何?」
「割引してくれたなら、それを気持ちよく引き受けて、喜んであげてやってほしい。そんで礼を言ってほしいんだ」
「……そんなことでいいの? 割引してくれたら、礼だなんて当然っていうか――そんなサービスされたら、うれしすぎて、むしろ伝えきれるか不安なぐらいだよ」
「……そう、だよなぁ。ホノジならそうしてくれるって頭ではわかってんだけどもよ……杞憂だったわ!」
「ううん、むしろ言ってくれてありがとう」
きっと、わざわざ言うってことは橙馬にとって大事なことなんだろうな、と思った。でもそれをわざわざ口にするのは、どこか気恥ずかしい気もした。
きっとそう感じるのは、僕だけじゃなく橙馬も。
「よっしゃ! 話は決まったな! 今日は買えるもん片っ端から揃えてこうぜ! 復興の第一歩ってやつだなっ!」
橙馬がそう言って胸を張る。
その声に明るさが戻って、少しだけ胸の奥が軽くなった。
……うん。
たぶん、こういう一歩目は、ひとりで踏み出すよりずっといい。
足取りがさっきよりも軽く感じた。




