第2話 出資者は笑い上戸
波乱に満ちた卒業夜会から明けた、翌朝のことです。
わたくし――カーラ・トリーアは、トリーア公爵邸の自室にて、薄い絹の朝衣を羽織り、優雅に紅茶を嗜んでおりました。
昨夜、王立学院の大広間にて第一王子レオポルド殿下から突きつけられた婚約破棄。
そしてわたくしが言い放った「この国の搾取構造ごと破棄しますわ」という宣言。
社交界は大揺れに揺れ、公爵邸の門前には朝から貴族たちの使いが押し寄せていると聞き及びます。
ですが、当のわたくしの心は、朝の光のように晴れやかでございました。
「お嬢様……よくもまあ、そんな澄まし顔でお茶なんて飲んでいられますわね……」
深い溜息とともにティーポットを置いたのは、わたくし付きの侍女、ヘレーネです。
平民の出でありながら聡明な彼女は、幼少期からわたくしの無茶に付き合わされてきた、いわばわたくしの最初の「同志」であり、最も頼りになるツッコミ役でもあります。
「何を心配することがありますの、ヘレーネ。わたくしはただ、真実を数字で語っただけに過ぎませんわ」
「その『数字』のせいで王家を激怒させ、公爵家を危機に陥れたのですけれど! 公爵閣下は昨夜から『我が娘が狂った!』とお叫びになっておられますのよ!」
「お父様もお騒がしいことですわね。構造の変革には痛みが伴うものなのですから、もう少し大観していただきたいものです」
「大観って……お嬢様、ご自身の立場をお忘れですか? 明日には修道院か牢獄へ送られてもおかしくありませんわ!」
「修道院も悪くありませんわね。静かな環境で、労働価値説の第二巻を執筆する時間が取れますもの」
「反省の色が微塵もございませんわね!」
ヘレーネが叫んだその時、扉がノックされ、執事が困惑した様子で入ってまいりました。
「カーラお嬢様。応接間にお客様がお見えでございます。……エルメン商会の跡取り、フリードリヒ・エルメン様とおっしゃるお方が。『昨夜の約束を果たしに来た』とおっしゃり、面会を強く求めておられます」
フリードリヒ・エルメン。
昨夜の夜会の終盤、わたくしに向かって「その『破棄』、資金はお持ちですか?」と問いかけてきた、あの金髪の青年です。
「……応接室へ向かいますわ」
わたくしは身支度を整え、ヘレーネを伴って応接間へと向かいました。
応接間に足を踏み入れると、一人の青年がソファーに腰掛け、革張りの手帳に細い万年筆で何かを書き留めておりました。
陽光を浴びて輝く金髪に、琥珀色の鋭い瞳。
わたくしたちの気配に気づくと、彼は手帳を閉じ、洗練された動作で立ち上がって一礼いたしました。
「おはようございます、トリーア公爵令嬢。早朝のご無礼をお許しください」
「構いませんわ、エルメン様。して、王都最大の紡績商会の跡取り様が、何の用件ですの?」
わたくしがソファーに腰を下ろすと、フリードリヒ様は口元に愉快そうな笑みを浮かべました。
「簡単なことです。昨夜の続きをしに来ました。……君の『搾取構造の破棄』という壮大な計画に、出資をさせていただきたく思いましてね」
隣に控えていたヘレーネが、目を見開いて固まりました。
「出資……? 平民の商会が、王家に睨まれた公爵令嬢に出資とおっしゃるのですか?」
「ええ。幸いなことに、僕個人の動かせる資金は相当な額になりましてね」
フリードリヒ様はポケットから一通の書類を取り出し、テーブルの上へと滑らせました。
そこには、金貨千枚の出資と使途を定めた仮契約が記されておりました。資金は組合の設立と初期の運転費用に限ること、帳簿は月ごとに共有すること、監査人は双方の合意で選ぶこと、契約は一年で満了し、更新には両者の同意が要ること。人や土地を担保に取らない条項もありました。わたくしは署名欄だけでなく、条件を一つずつ読み返しました。
――その時です。
書類の末尾に走る彼の署名を見た瞬間、わたくしの胸の奥がドクンと大きく跳ねました。
(……この、筆跡……?)
署名の脇には、資材費の見積もりも書き添えられていました。数字の七の横棒は最後にわずかに跳ね、八は上の輪を閉じきらない。大英博物館の閲覧室で、わたくしの原稿と帳面を照らし合わせたあの人も、同じ癖で数字を書いていたのです。
大英博物館の閲覧室で原稿を書き殴っていた頃、解読不能と言われたわたくしの悪筆を正しく読み解き、ロンドンへ常に温かい手紙と仕送りを送ってくれた、あの男。
フリードリヒ・エンゲルス。
(まさか……彼も……?)
わたくしが息を呑んで見つめると、彼は気付かないフリをするように、楽しげに琥珀色の瞳を細めました。
「何か不審な点でも?」
「……いいえ。ただ、なぜわたくしなのです? 損失の恐れが大きすぎますわ」
「ハハハッ!」
フリードリヒ様は、腹から突き上げるように楽しそうに笑い出しました。
まさに『笑い上戸』という言葉がぴったりの笑い声です。
「商会の仕入れは、ギルドの取り決めに頼り切っています。安定した供給網を築くことは、僕にも利益がある。ただし、組合がうまくいく保証はありません」
「では、契約にある監査や期限は、あなた様ご自身を守るためですのね」
「ええ。僕の商会には従業員がいます。彼らの賃金まで賭けるわけにはいかない。金貨千枚を出す理由は、商売の先を見たいから。そして、あなたが本当にやろうとしていることを、面白いと思ったからです」
「見物料ではなく、取引としてお考えなのですね」
「そうです。だからこそ、僕はあなたの決定権を奪わない。けれど、帳簿を見て、疑問があれば反対します」
「……お嬢様」
ヘレーネが耳元でひそひそと囁きます。
「この方、頭のネジが飛んでいらっしゃいませんか? 面白そうだからという理由で大金を差し出すなんて正気ではありませんわ」
「何を言っているのです、ヘレーネ。資本とは、適切な情熱と着想を持つ者の元へ集まるものなのですわ」
「お嬢様の前世の金遣いの荒さと予算管理の壊滅さを知っている身としては、このお方に同情しかありませんけれど!」
ヘレーネの容赦のないツッコミに、わたくしは軽く咳払いをいたしました。
確かに前世のわたくしは、理論は完璧でも実務の金勘定は壊滅的で、エンゲルスに泣きついてばかりの人生でした。
ですが今世のわたくしには、公爵令嬢としての知識と、前世の理論の双方があります。
「分かりましたわ、フリードリヒ様。あなたの出資、ありがたくお受けいたします」
わたくしは契約書の端に日付を記し、署名欄に名を書き入れました。フリードリヒ様も署名し、二部のうち一部ずつを手元に保管します。期限も監査も担保の禁止も、口約束ではなく紙に残りました。
「交渉成立、ですね」
フリードリヒ様は満足そうに頷き、差し出されたわたくしの手に、そっと紳士的な口づけを落としました。
前世の親友の面影を残す男と、今世で結んだ新たな同盟。
事業に使える資金と、その使い方を確かめる約束を手にし、わたくしの胸に未来への野望が漲りました。
契約書の封蝋が固まるより先に、廊下の向こうで重い足音が止まりました。
「カーラーーーッ! 一体全体、昨夜の非礼はどのようなつもりだ!」
ドォン! と応接間の重厚な扉が吹き飛ぶ勢いで開かれました。
仁王立ちになっていたのは、髪を振り乱し、怒りで顔を真っ赤に染めたわたくしの父――トリーア公爵その人でした。
「『前世がマルクス』とは何事だ! 王太子殿下を公衆の面前で侮辱しおって! もはや王都に貴様の居場所はない! 今すぐ荷物をまとめよ!」
公爵の雷のような怒声が、応接間に激しく響き渡ったのです。




