第1話 婚約破棄と剰余価値
「カーラ・トリーア。貴様との婚約を破棄する!」
卒業夜会の楽団が、最後の音を飲み込みました。王立学院の大広間で、第一王子レオポルド殿下がわたくしを指さしています。その腕には、ブランシャール男爵令嬢ミレイユ様。
「貴様はミレイユに陰湿ないじめを繰り返した。王国の未来の母となる資格はない!」
「殿下。告発なさるなら、いつ、どこで、わたくしが何をしたのか――日付と場所でお示しくださいませ。根拠のないお話に、わたくしは頷きませんの」
わたくしはすぐに問い返しました。婚約を破棄されるのは構いません。けれど、罪まで押しつけられて黙るつもりはございません。
「ミレイユがそう言っている。それで十分だ。余の判断は王家の判断である」
その言葉と同時に、衛兵が出口を塞ぎました。近衛が一歩進み、侍女のヘレーネは銀盆を抱えたまま動けなくなります。殿下の命令で、わたくしだけでなく家の者まで罰せられる。そう理解した瞬間、頭蓋の奥が割れるように痛みました。
煤けたロンドン。積み上がった原稿。支払いの催促を前に、困った顔でこちらを見た友人。記憶が、今のわたくしの中へなだれ込みます。
(前世が、カール・マルクス……?)
『資本論』を書き上げた男。理屈ならいくらでも並べられるのに、財布の中身はいつも足りなかった男です。
「カーラ、聞いているのか!」
殿下の声に、わたくしは顔を上げました。天井では、大魔石のシャンデリアが白く輝いています。
「殿下。あのシャンデリアの購入費は、王室歳費の公開摘要で金貨一万枚と拝見しました」
「それが今、何の関係がある!」
「大ありですわ。あの光を保つために、毎晩、誰かが磨いている。誰かが運び、誰かが傷を負っても皿を下げている」
わたくしは、銀盆を抱えた給仕の少年の前まで歩きました。手の甲が赤く腫れ、少年はそれを袖の陰に隠そうとします。
「お名前は?」
「……トビアスです」
「トビアス。あのシャンデリアを磨くのは、どなた?」
少年は答えません。腫れた手を背に隠しました。その沈黙を、殿下は見ようともなさらない。
「その手に、いくら払っておりますの?」わたくしは殿下へ問いました。返事はありません。
「数字は嘘をつきませんわ。嘘をつくのは、数字を隠す人ですの」
わたくしは扇を閉じ、殿下を見ました。シャンデリアの値段を知っているわたくしは、この広間の仕組みをもう理解したつもりでおりました。誰が灯りを作り、誰がその利益を取るのか。答えはひとつだと、疑いもしなかったのです。
「婚約破棄? 結構ですわ。前世がカール・マルクスなので、この国の搾取構造ごと破棄いたします」
広間から、息を呑む音が聞こえました。わたくしの言葉に心を動かされたからではございません。公爵令嬢が王太子に向かって、国の仕組みを壊すと宣言したのですから。
「衛兵、この女を連れて行け!」
近衛が動き、ヘレーネがわたくしの袖をつかみました。わたくしはその手に自分の指を重ね、背筋を伸ばします。婚約は破棄されました。父の契約も、ここで働く人々の職も、これから危うくなるでしょう。それでも、言葉を引っ込める気はありませんでした。
「トリーア嬢」
群衆の後ろから、エルメン商会の跡取りフリードリヒ様が進み出ました。彼は王太子へ礼をしたあと、衛兵の列を見てからわたくしに問いかけます。
「あなたの宣言は、商会としても聞き捨てなりません。ですが、その改革に必要な資金はお持ちですか?」
前世のわたくしが、最も苦手とした問いでした。
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ヘレーネの家計簿メモ その1
【今日の言葉】剰余価値
【平たく言うと】十個のパンを焼いても、焼いた人の手元に十個残るとは限りません。
【図】働く手 → パン×10 → 誰が何個持っていく?
【お嬢様の今日の浪費】大広間の照明を、値札ひとつで「浪費」と決めつけたこと。
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