第3章 蟷螂の斧③
皆の安全を確認したところで、どっと疲れが来た。草の上に腰を下ろすと、
「こっちは少し馬と車輪の様子を見るから、あんたらは休んどきな」
御者の声に、アルティは力無く頷いた。
息を整えていると、馬車の向こう側からリンが歩いて戻ってきた。
「リン」
「いやあ、まさか飛竜を弓で追い返すとは……」
飛竜の消えた南の空を振り返り、呆れたように言った。
右手をぶらぶらと振っている。
「大丈夫?」
「ええ。ちょっとしびれまして」
リンはそう言って、右手を開いたり閉じたりした。
手には、何も持っていなかった。
「……さっきの、何だったの」
「さっきの?」
「あの、光。あれ」
「さて」
リンは肩をすくめた。
「魔法使いの護衛がいるわけなので、あのくらいは」
「あのくらいは」
アルティは繰り返した。
「杖は?」
「さて」
リンは肩をすくめた。
アルティは眉をひそめ、視線をリンの手に落とす。
「手、どうしたの」
リンはすっと自分の後ろに手を隠した。
「だから、ちょっとしびれが」
「見せて」
「……」
「見せて」
アルティが繰り返して言うと、リンは少し目を泳がせたが、おとなしくアルティに手を差し出した。
白く美しい手のひらに、あまりにも痛々しくも生々しい、赤黒い火傷のような傷ができていた。
「……何をしたの」
「——木の枝を、ちょっと」
「木の枝?」
「……杖代わりにしたんです」
「そんなことできるの?!」
「まあ、できなかったからこんな感じに」
「なんでそんな無茶を……」
と言ったところで、アルティは自分の口を押さえた。
無茶振りしたのは、自分だ。リンならなんとかできるんじゃないかと、飛竜の気を引くように叫んだ。細かい指示も出さずに。
昨日、私が守るだなんて大見得をきっておいて、この様だ。
「ごめん……」
「協力して仕事を全うした仲間に、謝るようなもんじゃないと思いますよ、アルティさん」
リンは微笑んだ。優しい笑みだった。
自分に罪悪感を抱かせないようにしてくれているのだ、この美しい男は。
「どうです。あなたの相棒は、あなたの期待に応えられましたか?」
「——期待以上にね」
「それなら、無理した甲斐がありました」
二人は顔を見合わせて、そして同時に苦笑した。
「いやあ、逃げてくれて助かりましたね。さすがに魔法もなしで、二人で戦う相手じゃないですよ」
「本当にね。——あ、ちょっと見せて。手当てしよう。そうだ、確か軟膏が……」
アルティは布の荷物入れから小さな陶製の壺を取り出した。蓋を開けると、むっと薬草の青臭い匂いがした。
「前の街で買ったやつだけど、火傷にも効くはず」
「お気になさらず。放っておいても——」
「いいから」
有無を言わさぬ調子で、アルティはリンの手を取った。
傷は見るからに痛々しかった。掌の中央から指の付け根にかけて、皮膚が赤黒く爛れている。木の枝と言われたら、なるほどと思った。握りしめた枝の形が見て取れるようだった。
アルティは左手でリンの手を支えると、軟膏を右手の指先に取り、傷口に薄く塗り広げる。
リンが小さく息を吸った。
「沁みる?」
「いえ——」
リンが言いかけて、止まった。
「……どうしたの」
「今、何か——」
リンは自分の手のひらを見つめていた。眉が寄っている。困惑、というより、もっと深い何かを探ろうとする表情だった。
「温かかった——気が、したんですけど」
「そりゃ、軟膏塗ったからじゃないの」
「いえ、そうではなくて。なにかこう、もっと——」
リンの言葉が途切れた。
二人とも、リンの手のひらを見ていた。
赤黒く爛れていた皮膚が、縮んでいた。
爛れが端の方から消えていく。ゆっくりと、しかし確実に。
まるで数日分の治りが、目の前で早送りされていくかのようだった。
呆気に取られているうちに、掌に残ったのは薄い赤みだけになっていた。痛みを伴う火傷には、もう見えなかった。
沈黙が落ちた。
「——一体、なんの薬なんですか、これは」
リンが、呆然と壺を見た。
「いや……この前買ったやつで、そんな高いもんじゃ……」
アルティは壺を裏返した。何も書かれていない。そもそも、何の変哲もない、旅人向けの汎用軟膏だ。値段も覚えている。安くはなかったが、それでも銀貨1枚でお釣りが来た。
「何か特別な薬草が入っている、とか……」
「いやあ……魔導具とかでもなかったし、普通の店で買った普通の傷薬だよ? せいぜい痛みを軽くするとか、治りを助けるみたいな、そういう……」
「それで、この火傷が?」
リンは自分の手のひらを開いたり閉じたりした。赤みは残っているが、痛む様子はない。
「ちょっともう一回見せて」
アルティがリンの手を掴み、指で傷があったところをそっとなぞる。リンがわずかに肩を震わせた。
「……痛い?」
「いえ、くすぐったいです」
「あ、ごめん」
アルティはリンの手を離した。
「……おかしいですね」
「おかしいよね」
二人は顔を見合わせた。
リンが周囲を見渡した。草地と低木と、空。何もない。特別な気配もない——少なくとも、リンにはそう感じられた。
「もしかして、さっきの魔法の影響とか?」
「うーん……それも考えましたけど、多分違うんじゃないですかねぇ……」
「じゃあ、やっぱり薬?」
「何か特別な薬を間違えて安く売っちゃったんじゃないですかね」
「ああ、それかも……」
アルティは壺の蓋を閉めた。ここで考えても、はっきりした答えは出そうにない。
「レンスティアに着いたら、誰かに鑑定してもらおうか、この薬」
「そうですね。それがいいかもしれません」
リンはもう一度自分の手のひらを見つめ、それから——何か思いついたように口を開きかけて、やめた。首を小さく振る。
「どうしたの」
「いえ。——不思議なこともあるものだな、と」
「ね。飛竜まで来るしね」
「本当ですね」
二人で顔を見合わせて苦笑していると、そこに御者の声が飛んできた。
「おーい、護衛さん! 車輪は大丈夫だ、出発できるぞ!」
アルティは立ち上がり、服の土を払った。
「行こっか」
「はい」
リンも立ち上がった。右手を軽く握って開く。痛みは、もうなかった。
リンは、しばらく右手を見つめていたが、首を一、二度振ると、残りの仕事を終えるべく御者席へ向かった。




