第3章 蟷螂の斧②
ふと、日が翳ったその時。
二頭の馬が同時にいなないた。
次の瞬間、馬が走り出した。御者が手綱を引くが、止まらない。
馬車が大きく揺れ、車輪が轍を外れた。
「止まれ——止まれっ」
御者が叫ぶ。馬は耳を伏せ、白目を剥いて、ただ走ろうとしている。
馬車が繋がっていなければ、とうに全力で駆け出している。
アルティは反射的に御者席の縁を掴み、もう片方の手でリンの腕を押さえた。幌の中から悲鳴があがった。
アルティが周囲を見る。
影が、あった。
巨大な影が、草地の上を滑るように移動していた。
それを追って空を仰ぐと、太陽を背に、一つの輪郭が旋回している。
長い尾。蝙蝠に似た翼。後脚の鉤爪。
「——飛竜」
アルティの喉から、掠れた声が漏れた。
「嘘でしょ」
出ない。この間道には出ない。御者が何十年走って片手で数えるほどだと言っていた、その中にすら、飛竜は含まれていないはずだ。
しかし現にそこにいた。
前に見た飛竜より、一回り小さく感じた——それでも翼を広げれば馬車をすっぽり覆って余るほどに見えたが——。若い個体なのかもしれない。群れからはぐれたか、縄張りを追われたか。いや、理由は今はどうでもいい。
「馬を止めて! 暴れさせたら余計に目をつけられる」
御者に叫び、アルティは揺れる御者席から飛び降りた。着地と同時に駆け出し、馬車の脇につく。
御者が歯を食いしばって手綱を引いている。馬はまだ前脚を掻いていたが、馬車の重みと御者の手綱に引かれて、ようやく足が止まった。
止まったというより、走れずにもがいている。
「リン、中の人に、幌を閉めて出てこないように言って」
「わかりました」
御者席にしがみついていたリンが、幌の中に身を滑り込ませた。子供の泣き声が聞こえた。母親の声が震えている。老夫婦は声も出せないでいるようだった。誰も怪我をしていませんように、とアルティは祈った。確認している暇はない。
今のうちだ。
背中の弓を引き抜く。矢筒から一本。弦にかけ、ひく。
飛竜はまだ旋回している。品定めをしているのだ。
距離がある。角度も悪い。太陽が目に入る。
飛竜が弧を描いて高度を下げた。こちらに向かってくる。
——来る。
射った。
矢は飛竜に向かってまっすぐに飛んだ。しかし飛竜が翼を一振りすると、風圧が矢の軌道を逸らした。矢は飛竜の横を掠め、草地に消えた。
舌打ち。二本目をつがえようとした時、飛竜が翼を畳んで降下に入った。速い。狙いは——馬だ。
この状態で馬をやられたら、馬車も無事ではいられまい。
アルティは走り出した。
「リーン! あいつの気をひいて!」
幌から顔を出したリンに向かって、叫んだ。何を期待したのか、自分でもわからなかった。石を投げるとか、大声を出すとか、なんでもよかった。飛竜の注意が一瞬でも逸れれば、その隙に射る。
それだけだ。
リンが幌から飛び出してきた。
リンは何か言ったが、遠くのアルティには聞こえない。多分、「わかりました」とでも言ったのだろう。
アルティの反対側に降りた影が、道の脇へ——視界の隅で沈み込むのが見えた。
構っている暇はなかった。
アルティは足を止め、矢をつがえて弓を引き絞ると、飛竜に狙いを定めた。
風が鳴っていた。飛竜の翼が空気を叩く音だ。
降りてくる。真っ直ぐに。馬に向かって。
その時。
音もなく、光が生まれた。
地上から光の柱が噴き上がり、降下する飛竜を包み込んだ。
純白の、巨木の幹ほどもあろうかという光の柱が、大気を貫いて遥か上空へ消えていく。
熱もない。音もない。
ただ光だけが、そこにあった。
あまりにも静かだった。
異質だった。
飛竜が光を浴びて悲鳴を上げた。
翼を広げて急制動をかけ、降下の軌道が大きくぶれる。
光そのものは、鱗にも翼膜にも傷一つつけていない。ただ、飛竜の視界を、一瞬、完全に奪っていた。
飛竜が体勢を崩した——その刹那を、アルティは射った。
矢は鋭く風を切り、真っ直線に——飛竜の右眼を、貫いた。
甲高い悲鳴が空気を震わせた。
飛竜は空中で大きくのけぞり、翼が一瞬たたまれた。巨体が傾ぎ、そのまま地面に叩きつけられた。
草地が抉れ、土煙が上がった。
アルティは三本目をつがえた——が、射てなかった。
飛竜は地面に叩きつけられた勢いのまま、後脚で地を蹴っていた。
跳ねるように体を持ち上げ、翼を広げ、大きく羽ばたくと空に逃げた。速かった。追われる獣の、なりふり構わぬ速さだった。
もうこちらを見ていなかった。
南の空へ、遠ざかっていく。
落ちた時のダメージか、片翼が不自然に下がり、飛ぶたびに体が傾ぐ。ふらつきながら、ただ、一直線に。
アルティは弓を構えたまま、それを見送った。
その輪郭が山の稜線に溶けて、消えた。
弓を下ろした。
弦を握る指が、微かに震えていた。
「——行ったか?」
御者が恐る恐る顔を上げた。
「行った。もう戻ってこない……と思うけど、早く離れよう」
断言はできなかったが、あの状態の飛竜がわざわざ戻ってくる理由もなかった。
幌の隙間から、母親がそっと顔を出した。目が赤い。その腕の中で、男の子がまだ小さく泣いている。老夫婦は互いの手を握ったまま、身を縮めていた。
「大丈夫です。もう行きましたから」
アルティは努めて柔らかい声を出した。母親が小さく頷き、子供の頭を撫でた。何度も。
「よかった」
という、絞り出すような小さな声が聞こえた。




