表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/13

第3章 蟷螂の斧①

 目を開けると、見慣れない木の天井があった。

 一瞬、ここがどこかわからなかった。体を起こすと、頭の奥が軋むように痛んだ。


 ——ああ、そうだ。レントの宿。


 窓の外はまだ薄暗い。夜明け前の青い光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 テーブルの上に、空の葡萄酒の瓶が二本。未開封のスピリッツが一本。チーズの残りと、グラスが二つ。


 記憶をたどる。飲んだ。そうだ、リンと飲んだ。途中から記憶が怪しい。

 部屋を見回したが、リンはいない。部屋に戻ったのかどうか——全く覚えていない。

 スピリッツは——ああ、そう、止められたのだ。リンに。

 それから——何を話した? 何か話した気がする。記憶は飛び飛びで、とても断片的だった。

 ただ、楽しかった——気がする。


 アルティは自分の格好を見下ろした。昨日の短衣のままだ。少なくとも、脱ぎ散らかすような真似はしていない。

 それに、ちゃんと寝台の上で寝ていたし、ベッドもそんなに乱れていない。部屋も汚れていない。記憶が曖昧なのが不安だが、まあ、大丈夫だろう。多分。


 乱れた襟元を直しながら立ち上がると、頭がわずかに疼いた。

 一つ、大きく息をついた。大丈夫、大丈夫だ。これくらい、どうということはない。


 顔を洗って、髪を整えて、短衣の紐を締め直す。鎧を身につける。

 留め具をひとつひとつ確かめながら、体を動かしてみる。よし、問題ない。

 荷物をまとめ、弓を背負い、部屋を出た。



 階段を降りると、一階の食堂にはすでにリンがいた。

 窓際の席に座って、湯気の立つカップを両手で包んでいる。朝の光が金の髪を透かしていた。

 昨夜自分と同じように酒を飲んで、同じように遅くまで起きていたはずなのに、眩しいほど澄んだ空気をまとっている——ように見える。なぜだ。自分は鏡を見る気にもなれなかったというのに。


 リンがアルティに気づいて顔を上げた。

 一瞬、その翡翠色の瞳がアルティの顔に留まった。


「おはようございます」


 リンが微笑んだ。穏やかな、いつもの——いや、昨日からの付き合いだからいつもも何もないのだが、あの穏やかな声だった。


「……おはよ」


 向かいに座る。テーブルの上に、パンとスープの皿がもう一人分用意されていた。


「そろそろ起こしに行こうかと思ってました。もうすぐ出発でしょう」

「……気が利くね……」

「顔色が悪いですよ」

「そう?」

「少し」


 スープに手を伸ばす。塩漬けの肉と野菜のスープは、ちょっとだけ味が濃くて温かかった。胃に沁みる。なるほど、これは少し助かる。

 リンは自分のカップに口をつけながら、こちらを眺めている。少し楽しそうに。

 湯気越しの隠そうともしない視線に、アルティはカップを両手で包み込みながら、


「——何?」


と聞いた。


「いえ。お酒に強い人の朝は、こういう感じなのかなと」


 アルティの手が止まった。


「……なに?」

「いえ、何も」

「今、なにか含みがあったよね?」

「含みなんてないですよ、やだなあ」


 リンの声は穏やかで、努めて真顔であろうとしていたが、どうしようもなく目が笑っている。


「……お酒には強いの。昨日はちょっと疲れてただけ」

「ええ、そうでしょうとも」

「本当だってば」

「はいはい」

「その『はいはい』やめて」


 リンは両手を上げた。降参のポーズだが、顔は笑っていた。

 アルティはスープを啜り、パンをちぎり、黙々と口に運んだ。美味しいのが腹立たしい。


「——ねえ」

「はい」

「昨日、私、なにか変なこと言ってなかった?」


 リンはカップを置いた。ほんの一拍の間。それから首を傾げ、


「変なこと、ですか」

「うん」

「いいえ。特には」

「変なことしたりもしてない?」


 リンは、なぜか窓の方に目をやった。


「——特には」

「ちょっと待って、なんで目を逸らすの」

「ないですないです。ただまあ、あまり飲みすぎない方が」

「やめてよ、なんか含みがあって怖い」


 アルティが自分の頬を両手で包むと、リンは声に出さずに笑った。


「なんかよく覚えてないの。リンはいつ自分の部屋に戻ったの」

「アルティさんが寝た後、すぐに」

「すぐ?」

「すぐです」


 リンは頷いた。アルティは自分がいつ寝たのかも思い出せず、机に突っ伏した。

 これ以上追及しても多分何も言ってくれないだろう。自分がやらかしてないことを信じるしかない。


「——迷惑かけなかった?」

「お気になさらず」

「その返事も気になるんだけど!」


 リンは微笑むだけだった。

 アルティはため息をつき、残りのスープを飲み干した。

 食べ終わる頃には、頭の痛みも大体治っていた。本当に、昨日はちょっと疲れていただけなのだ。うん。 


 外から、馬車の車輪がきしむ音が聞こえてきた。


「——そろそろ行こっか」

「はい」


 立ち上がって、荷物をまとめる。仕事に差し障るほどは飲んでない。大丈夫。ちょっと今ふらついた気するけど。


「気をつけてな」


 主人の声に、アルティは手を振って答えた。



 宿屋の前に止まっていた辻馬車は、思ったよりも小さかった。

 幌をかけた荷台に向かい合わせの長椅子が二つ。

 御者席は幌の外にあり、御者の隣にもう一人分の席がある。


「護衛さんかい。随分若いねえ」


 御者は日に焼けた老人で、手綱を握ったまま二人を見下ろした。


「よろしくお願いします」


 御者に挨拶をしてから幌の中を覗くと、既に客が乗り込んでいた。二組。

 片側の長椅子に、三十がらみの女性と、その膝の上にしがみつくように座った小さな男の子。もう一つの長椅子に、白髪の老夫婦。大きな荷物に埋もれるようにして、互いに寄り添っている。


「おはようございます。護衛のアルティと、リンです。レンスティアまで、よろしくお願いします」


 母親が小さく会釈を返し、老夫婦はほっとしたように笑顔で顔を見合わせた。護衛がいるというだけで、旅人の顔はこうも変わる。

 アルティは御者席の隣に座った。リンも横に並ぶ。狭い。肩が触れる距離だ。


「……ちょっと近くない?」

「席がこれしかないので」


 それはそうなのだが、いくらアルティが小柄でも、長身のリンと一緒に座るには狭すぎた。


「わかるけど……リンは中に乗ったら?」

「いえ、流石に護衛としてそれは」


 二人が言い合っている間に、馬車が動き出した。車輪が石を噛み、がたがたと揺れた。



 レントからレンスティアに続く間道は、街道と呼ぶには少し寂しい道だった。

 轍の跡がかろうじて道であることを示している程度で、舗装などは当然されていない。左右はポツンポツンと低木があるくらいで、草地が続いている。見通しは悪くない。だからこそ盗賊も魔物も出にくいのだろう。それでも、アルティの目は怠りなく周囲を追っていた。左右に、後ろ、それから前。


「天気がいいですねえ」


 リンの声はのんびりとしている。護衛の仕事中だという緊張感が、この男からは一切感じられない。まあ戦力外だから仕方ないと言えば仕方ないのだが……。


「ねえ、一応聞くけど、本当に魔法がなかったら戦えないのよね」


 アルティがリンの耳に口を寄せ、御者に聞こえないよう小声で喋りかけると、リンもアルティの耳に口を近づけた。


「からっきしです」

「何かあったら逃げられる?」

「いやあ、それもあまり自信が」


 何かこそこそ喋っているのをどう思ったかわからないが、御者の老人が、前を向いたまま口を開いた。


「この道は安全だよ。俺は何十年も走ってるが、襲われたことは片手で数えるほどだ」

「ってことは、片手で数えるほどはあるんですね」

「まあ、長く生きてりゃそんなこともあるさ」


 老人はからからと笑った。

 幌の中から、子供の高い声が聞こえてきた。母親がなだめている。


「おかあさん、まだ?」


 退屈なのだろう。外もほとんど見えない幌の中に居ては、仕方のないことだ。


「まだよ。夕方は着くから」

「ゆうがたってどのくらい?」

「お昼寝したあとくらい」

「おひるねしたらつくの? ぼく、ねむくないよ」


 アルティは口元を緩めた。


 しばらく何事もなく馬車は進んだ。日が高くなり、車輪が石を噛んで、馬車が軋んで揺れる音だけが続く。

 穏やかな日差しに、単調な景色。アルティが大きく伸びをした。


 だから——最初にそれに気づいたのは、馬だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ