第3章 蟷螂の斧①
目を開けると、見慣れない木の天井があった。
一瞬、ここがどこかわからなかった。体を起こすと、頭の奥が軋むように痛んだ。
——ああ、そうだ。レントの宿。
窓の外はまだ薄暗い。夜明け前の青い光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
テーブルの上に、空の葡萄酒の瓶が二本。未開封のスピリッツが一本。チーズの残りと、グラスが二つ。
記憶をたどる。飲んだ。そうだ、リンと飲んだ。途中から記憶が怪しい。
部屋を見回したが、リンはいない。部屋に戻ったのかどうか——全く覚えていない。
スピリッツは——ああ、そう、止められたのだ。リンに。
それから——何を話した? 何か話した気がする。記憶は飛び飛びで、とても断片的だった。
ただ、楽しかった——気がする。
アルティは自分の格好を見下ろした。昨日の短衣のままだ。少なくとも、脱ぎ散らかすような真似はしていない。
それに、ちゃんと寝台の上で寝ていたし、ベッドもそんなに乱れていない。部屋も汚れていない。記憶が曖昧なのが不安だが、まあ、大丈夫だろう。多分。
乱れた襟元を直しながら立ち上がると、頭がわずかに疼いた。
一つ、大きく息をついた。大丈夫、大丈夫だ。これくらい、どうということはない。
顔を洗って、髪を整えて、短衣の紐を締め直す。鎧を身につける。
留め具をひとつひとつ確かめながら、体を動かしてみる。よし、問題ない。
荷物をまとめ、弓を背負い、部屋を出た。
*
階段を降りると、一階の食堂にはすでにリンがいた。
窓際の席に座って、湯気の立つカップを両手で包んでいる。朝の光が金の髪を透かしていた。
昨夜自分と同じように酒を飲んで、同じように遅くまで起きていたはずなのに、眩しいほど澄んだ空気をまとっている——ように見える。なぜだ。自分は鏡を見る気にもなれなかったというのに。
リンがアルティに気づいて顔を上げた。
一瞬、その翡翠色の瞳がアルティの顔に留まった。
「おはようございます」
リンが微笑んだ。穏やかな、いつもの——いや、昨日からの付き合いだからいつもも何もないのだが、あの穏やかな声だった。
「……おはよ」
向かいに座る。テーブルの上に、パンとスープの皿がもう一人分用意されていた。
「そろそろ起こしに行こうかと思ってました。もうすぐ出発でしょう」
「……気が利くね……」
「顔色が悪いですよ」
「そう?」
「少し」
スープに手を伸ばす。塩漬けの肉と野菜のスープは、ちょっとだけ味が濃くて温かかった。胃に沁みる。なるほど、これは少し助かる。
リンは自分のカップに口をつけながら、こちらを眺めている。少し楽しそうに。
湯気越しの隠そうともしない視線に、アルティはカップを両手で包み込みながら、
「——何?」
と聞いた。
「いえ。お酒に強い人の朝は、こういう感じなのかなと」
アルティの手が止まった。
「……なに?」
「いえ、何も」
「今、なにか含みがあったよね?」
「含みなんてないですよ、やだなあ」
リンの声は穏やかで、努めて真顔であろうとしていたが、どうしようもなく目が笑っている。
「……お酒には強いの。昨日はちょっと疲れてただけ」
「ええ、そうでしょうとも」
「本当だってば」
「はいはい」
「その『はいはい』やめて」
リンは両手を上げた。降参のポーズだが、顔は笑っていた。
アルティはスープを啜り、パンをちぎり、黙々と口に運んだ。美味しいのが腹立たしい。
「——ねえ」
「はい」
「昨日、私、なにか変なこと言ってなかった?」
リンはカップを置いた。ほんの一拍の間。それから首を傾げ、
「変なこと、ですか」
「うん」
「いいえ。特には」
「変なことしたりもしてない?」
リンは、なぜか窓の方に目をやった。
「——特には」
「ちょっと待って、なんで目を逸らすの」
「ないですないです。ただまあ、あまり飲みすぎない方が」
「やめてよ、なんか含みがあって怖い」
アルティが自分の頬を両手で包むと、リンは声に出さずに笑った。
「なんかよく覚えてないの。リンはいつ自分の部屋に戻ったの」
「アルティさんが寝た後、すぐに」
「すぐ?」
「すぐです」
リンは頷いた。アルティは自分がいつ寝たのかも思い出せず、机に突っ伏した。
これ以上追及しても多分何も言ってくれないだろう。自分がやらかしてないことを信じるしかない。
「——迷惑かけなかった?」
「お気になさらず」
「その返事も気になるんだけど!」
リンは微笑むだけだった。
アルティはため息をつき、残りのスープを飲み干した。
食べ終わる頃には、頭の痛みも大体治っていた。本当に、昨日はちょっと疲れていただけなのだ。うん。
外から、馬車の車輪がきしむ音が聞こえてきた。
「——そろそろ行こっか」
「はい」
立ち上がって、荷物をまとめる。仕事に差し障るほどは飲んでない。大丈夫。ちょっと今ふらついた気するけど。
「気をつけてな」
主人の声に、アルティは手を振って答えた。
*
宿屋の前に止まっていた辻馬車は、思ったよりも小さかった。
幌をかけた荷台に向かい合わせの長椅子が二つ。
御者席は幌の外にあり、御者の隣にもう一人分の席がある。
「護衛さんかい。随分若いねえ」
御者は日に焼けた老人で、手綱を握ったまま二人を見下ろした。
「よろしくお願いします」
御者に挨拶をしてから幌の中を覗くと、既に客が乗り込んでいた。二組。
片側の長椅子に、三十がらみの女性と、その膝の上にしがみつくように座った小さな男の子。もう一つの長椅子に、白髪の老夫婦。大きな荷物に埋もれるようにして、互いに寄り添っている。
「おはようございます。護衛のアルティと、リンです。レンスティアまで、よろしくお願いします」
母親が小さく会釈を返し、老夫婦はほっとしたように笑顔で顔を見合わせた。護衛がいるというだけで、旅人の顔はこうも変わる。
アルティは御者席の隣に座った。リンも横に並ぶ。狭い。肩が触れる距離だ。
「……ちょっと近くない?」
「席がこれしかないので」
それはそうなのだが、いくらアルティが小柄でも、長身のリンと一緒に座るには狭すぎた。
「わかるけど……リンは中に乗ったら?」
「いえ、流石に護衛としてそれは」
二人が言い合っている間に、馬車が動き出した。車輪が石を噛み、がたがたと揺れた。
*
レントからレンスティアに続く間道は、街道と呼ぶには少し寂しい道だった。
轍の跡がかろうじて道であることを示している程度で、舗装などは当然されていない。左右はポツンポツンと低木があるくらいで、草地が続いている。見通しは悪くない。だからこそ盗賊も魔物も出にくいのだろう。それでも、アルティの目は怠りなく周囲を追っていた。左右に、後ろ、それから前。
「天気がいいですねえ」
リンの声はのんびりとしている。護衛の仕事中だという緊張感が、この男からは一切感じられない。まあ戦力外だから仕方ないと言えば仕方ないのだが……。
「ねえ、一応聞くけど、本当に魔法がなかったら戦えないのよね」
アルティがリンの耳に口を寄せ、御者に聞こえないよう小声で喋りかけると、リンもアルティの耳に口を近づけた。
「からっきしです」
「何かあったら逃げられる?」
「いやあ、それもあまり自信が」
何かこそこそ喋っているのをどう思ったかわからないが、御者の老人が、前を向いたまま口を開いた。
「この道は安全だよ。俺は何十年も走ってるが、襲われたことは片手で数えるほどだ」
「ってことは、片手で数えるほどはあるんですね」
「まあ、長く生きてりゃそんなこともあるさ」
老人はからからと笑った。
幌の中から、子供の高い声が聞こえてきた。母親がなだめている。
「おかあさん、まだ?」
退屈なのだろう。外もほとんど見えない幌の中に居ては、仕方のないことだ。
「まだよ。夕方は着くから」
「ゆうがたってどのくらい?」
「お昼寝したあとくらい」
「おひるねしたらつくの? ぼく、ねむくないよ」
アルティは口元を緩めた。
しばらく何事もなく馬車は進んだ。日が高くなり、車輪が石を噛んで、馬車が軋んで揺れる音だけが続く。
穏やかな日差しに、単調な景色。アルティが大きく伸びをした。
だから——最初にそれに気づいたのは、馬だった。




