第2章 葡萄の雫③
「ちょっとリン、あなた、酒に弱いって言ってなかったっけ?」
「だから、弱いんじゃなくて苦手なんです。味が。葡萄酒より葡萄水の方が美味しいと思いますけどね」
「もったいない人生ね」
アルティは心底残念そうに言って、二杯目の葡萄酒をグラスに注いだ。リンの方はまだ一杯目を半分ほど残している。
「お酒が好きなんですね」
「好き。仕事の旅の楽しみなんて、これくらいしかないもの」
薄く切ったチーズを齧り、葡萄酒を流し込む。うん、と笑顔で頷く姿に、先ほどまでの剣呑さはまるでなかった。
「でも、一人で飲むのは嫌い、と」
「嫌いというか、一人で飲むなって言われてるのよね」
「誰に?」
「えーと、上司?」
「仕事の? なんでですか?」
「なんでか知らないけどね。でも人とも飲むなって釘刺されててね」
「それは、お酒を飲むなという意味では……」
「そうかな? まあでもそんな勝手なこと言われてもねえ」
「僕と飲んでいいんですか?」
「まあ上司に見られてるわけでもなし、いいんじゃないかなって。一人で飲むより一緒の方が楽しいし」
二杯目が空になる頃には、アルティの頬はほんのり赤く染まっていた。声の調子が少し高くなっている。リンはそれに気づいていたが、特に指摘はしなかった。楽しそうに飲む姿は、見ていて悪い気分ではなかったからだ。
「リンはこの国に来て長いって言ってたけど、どのくらいなの?」
「どのくらい……でしたかね。もう随分、ですね」
「随分ってどのくらい?」
「5年くらいでしょうか」
「そうなんだ! この国に来るのは初めて?」
「初めてじゃないですよ。もう少し前にも住んでた時期もあります」
「それはもっと前?」
「そうですね……うん、もっと前かな」
「子どもの頃?」
「子どもの頃……うーん、20年くらい前でしょうか」
「じゃあ子どもじゃない。私なんて生まれる前かもよ」
アルティはケタケタと笑った。
リンも笑った。その笑みはどこか寂しそうにも見えたが、その理由はわからなかった。
「あの……もしかして、あまりお酒には強くないですか?」
「弱くはないと思うんだけどな。強い方じゃない?」
そうですかねえ、とリンは首を傾げた。それにしては、もうそれなりに出来上がっているように見える。
三杯目。リンは自分のグラスをまだ空けていなかった。アルティは気にした様子もなく、瓶を傾ける。
「そろそろやめておいた方がいいんじゃないですかね」
「何言ってんの、まだ1本目も途中だよ。チーズも食べ終わってないし」
しかしこのまま彼女を放っておくと、残りを全部一人で飲み干してしまいそうだ。今の様子を見る限り、おそらく彼女は、あまり酒に強くない。
リンは諦めて、自分のグラスを煽った。
*
夜もふけてきた。
他愛もない話をしていると、リンはふと気がついた。
距離が、近い。
どこでどうなったのかよく覚えていないあたり、自分もちょっと酔っているのかもしれないのだが、いつの間にか自分もアルティもベッドに腰掛けていたのだが、どうにも距離が近い。膝がぶつかったり、時にしなだれかかってきたりと、酔っ払いにしても距離が近すぎる。
「ああ……」
リンはため息をついた。
「なあに?」
「いや、うん、確かにアルティさんは人とは飲まない方が良さそうです」
「えー、リンまで言う? もう、エルディンが増えたみたい……」
「エルディン?」
「んん、上司の名前」
エルディン、どこかで聞いたことがあるようなと思っているうちに、二本目の瓶が空になった。アルティの手が、テーブルの上のスピリッツの瓶に伸びる。
「さて、次はこっちかな」
リンは、今度こそ真顔で止めた。
「それは、やめた方がいいと思います」
「なんでよ」
「明日、仕事でしょう。朝も早い」
「だいじょうぶだって。ちょっとだけ」
「葡萄酒を二本空けておいて、ちょっとだけ、ですか」
「リンは心配性だなあ」
アルティは笑いながら瓶を手に取った。リンが手を伸ばしてそれを押さえる。アルティの手とリンの手が、瓶の上で重なった。
アルティの細い指をリンの白い手が包み込んだ。アルティは気にせず、瓶を引こうとした。
「……離してよ」
「明日の仕事に差し支えます」
「差し支えないってば。私、お酒には強いの」
その赤い頬と据わった目で言われても、説得力は皆無だった。
「一杯だけ」
「駄目です」
「じゃあ半分だけ」
「駄目です」
「一口だけ?」
「駄目です」
「けちけちけちけち」
「何回言っても駄目です」
アルティはしばらく唇を尖らせていたが、やがて諦めたのか、スピリッツの瓶から手を離すと、ベッドの上でごろんと横になった。天井を見上げて、ふう、と息を吐く。
「……ねえ、リン」
「はい」
「今日さ、ちょっと、面白かったね」
「なにが?」
「あの盗賊のとことか……酒場とか……」
天井を見つめたまま、アルティはくすくす笑った。
「変なの、会ったばっかなのに、もうずっと前から知ってる人みたいな。——あーんなめちゃくちゃなの、楽しかった」
「……僕も、楽しかったですよ。久しぶりに」
「久しぶり?」
「ええ。ずいぶん、久しぶりに」
どのくらい久しぶりかを、リンは言わなかった。言えるはずもなかった。
アルティはそれ以上聞かなかった。その代わり、くすくすと笑った。酔っていたからなのか、聞く必要がないと思ったからなのか。
「あーあ。明日、仕事かあ……」
アルティは腕で目を覆った。声が段々小さくなっていく。
「リン」
「はい」
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
「またあしたね……」
「また明日」
返事はなかった。穏やかな寝息が聞こえてきた。
ベッドの上で丸くなったアルティは、起きている時とは別人のように無防備だった。眉間の力が抜けて、年相応の少女のように見えた。
曲げた足の先がベッドから出ていた。このまま寝るには体勢が悪い。しばらくしたら確実に落ちるだろう。
リンは立ち上がり、アルティの肩と膝の裏にそっと手を入れた。
驚くほど軽い。鎧を脱いだ彼女の身体は、細く、小さかった。
ベッドの奥へ、そっと移し、起こさないように腕を引き抜こうと体を寄せたその時、アルティの両腕が、リンの首に回った。
ぐ、と引き寄せられる。
「——っ」
リンはバランスを崩した。腕でかろうじて身体を支えたが、アルティの首筋に鼻先が触れていた。
当のアルティは——眠っている。完全に。
耳元で、穏やかな寝息が聞こえた。
吐息に、かすかに葡萄酒の甘さが混じっていた。
腕の力は思いの外強く、どうしたものかと思案しているうちに、アルティの腕から、ふっと力が抜けた。
リンはようやく腕を引き抜くと、ゆっくりと身体を起こした。
「ん……」
アルティは小さく呻くと、暑いのか、短衣の襟元を引っ張った。紐が緩んで胸元が露になる。
リンは咄嗟に目を逸らしたが、目の端に光るものが映って、そちらに目をやった。
翠色をした石だった。
ペンダントだ。親指の先ほどの涙型の石のついた質素なペンダントが、アルティの胸元にあった。
「……?」
リンは、口元を覆い、眉をしかめ、何かを思い出そうとした。
「これは……」
長い指を伸ばし、その石に触れかけた瞬間、
「んん……」
アルティの声に我に返り、手を引っ込めようとした。
その手を、アルティが握った。
リンは驚いてアルティの顔を見たが、目は閉じられており、静かな寝息が聞こえてくる。
「……参ったな」
小さく呟いた。
指は、解こうと思えば解けただろう。
だが、今は少し考える時間が必要だった。
リンは握られた手をそのままに、テーブルの上の葡萄酒に口をつけた。
やはり、葡萄水の方が美味しいと思う。
それでも、今日は、なぜか少しだけ葡萄酒が美味しいと思った。




