第10章 灰色②
「待って——そんなの聞いてない」
「まあ、言ってませんからね。大丈夫です、一時的なものなので」
「体に負担がかかるって、そういう意味なの?」
「それだけではないんですが、まあ今回くらいなら」
アルティは口を開きかけては、閉じた。「なんで」「やっぱりやめよう」——いくつかの言葉が出かけては、口先で消える。
ここを放置して帰れば、封印が直るまでに何かが這い出してくるかもしれない。——でも、出て来ないかもしれない。けれど、もし何か起こったとしたら、自分の判断を悔やみ続けるに違いなかった。
「——私が、あれを消せるか、試せない?」
「試しません」
「消せる可能性が、あるかもしれないんでしょ?」
「あなたの安全が確保できないので、試しません——と言ってます」
「それを言うならリンだって、安全確保できないのにやろうとしてるじゃん」
「安全です。良くも悪くも、この『負担』はよく知ってます。心配しないでください」
選択肢が、なかった。
リンの魔法に頼るしかない自分が、悔しかった。
リンの目が、アルティを見ていた。翡翠の瞳が、静かに、まっすぐに。
この目が見えなくなる。
だめだ。
しかし、アルティが声を発するより先に、リンが口を開いた。
「僕が、あれを放っておけないんですよ」
リンが指差した先には、あの虚空の、不気味な歪みがあった。
「あれ、そんなにまずいの」
「まずいですね」
「リンの目をかけるほどの価値があるの?」
アルティの言葉に、リンは一瞬目を見開き、それから苦笑いした。
「数日分くらいの視力なら、安いものです」
リンは——リンは、一体、何を見て来たのだろうか。
何を見て、何を考えて、そして決断して、生きて来たのだろうか。
わからない。わからないし、多分、聞いても答えてくれないだろう。
知りたい、と思った。
知ることができたら、自分にもなにかできることがあるかもしれないのに。
アルティは、小さく、息を吐いた。
「——わかった」
アルティは頷いた。
「目になる。任せて」
リンは小さく頷いた。
「気をつけますが、万が一こっちに跳ねてきた時は、消してください。それから、崩壊しそうな時は無理矢理飛びますので、僕から離れないで」
それから、すり鉢の底に向き直った。杖を持つ手を前に伸ばし、露出した岩肌の中心に、狙いを定めた。
詠唱が始まった。
だが、これまでに聞いたどの詠唱とも違っていた。アルティには意味はわからない。でも、音が低く、長く——一語一語が、空気を押すように重く感じた。
でも、この響きは、好きな響きだ、と、思った。リンの、詠唱だ。
杖の先に光が集まる。
先ほどの火矢の炎とも、乱反射した光とも違う。白く、硬く、密度のある光だった。それが杖の先端に凝縮されていく。細く、鋭く。
橋を吹き飛ばした、あの拡散とは正反対だった。全てを一点に絞り込んでいる。研ぎ澄ましている。
アルティは息を止めていた。
光が——放たれた。
音はなかった。
細い白い線が、すり鉢の底に向かって一直線に——露出した岩肌の中心を、針で突くように貫いた。
轟音。
岩盤に光が走った。中心から放射状に、蜘蛛の巣のように光の模様が広がっていく。
絵のようだった。文字のようにも見えた。
綺麗だ、と思ったその時、何かが弾けるような音と共に、空洞が揺れた。
岩が軋む音が、腹の底から突き上げるように響いた。
考えるより先に、リンのマントを掴むと、そのまま後ろへ——崖と反対側へ体重をかけて、二人で倒れ込んだ。リンの体を腕の中に引き込むように。
背中が岩肌に打ちつけられた。息が詰まる。それでもリンの襟を掴んだ手は離さなかった。
揺れが収まらない。がらがらと何かが崩れ落ちていく音が続いている。リンを片腕で押さえたまま、身を捩って、崖の縁の方を覗き込んだ。
地面が、なくなっていた。
いや、そこの中央がごっそりと抜け、岩が、溶けた核晶が、巨大岩蟲の残骸が、小さな岩蟲の群れが——まとめて、下へ落ちていく。
暗い穴が口を開けていた。
ぞくりと首筋に寒気が走った。
崩れた縁が、後を追うように、がらがらと雪崩れ落ちていった。轟音が重なり合い、空洞の壁を何度も叩いて反響する。
穴の縁が崩れ、広がり、さらに崩れる。だが——二人の立つ縁までは、届かなかった。すり鉢の中腹あたりで崩落は止まり、がらがらという音が徐々に遠ざかっていった。
底が、見えなかった。
核晶の光も届かぬその先は、真っ暗だった。
ただ、遠い、遠い音が、下の方から聞こえていた。落ちていったものたちの音が。
そのうち、それも静かになった。
そうだ、魔力溜まりは——
慌てて顔を上げて目を凝らす。
あの淀みは、同じ場所に浮かんでいた。底が抜けても、空中の同じ位置に、ぼんやりと滞留している。空気を歪ませる闇は、何も変わっていなかった。何一つ変わりがなく、それがなにより不気味だった。
そこから、何かが落ちた。
小さな岩蟲だ。
だが、受け止める底はもうなかった。岩蟲はそのまま、暗い穴の中に消えていった。
長い、長い間ののち——
ずっと下の方から
ぽちゃん
と小さな水音がした。
アルティは大きく息を吐いた。
それから、リンを振り返った。
リンは、杖を持ったまま、座り込んでいた。
目は開いていた。だが、焦点が合っていなかった。
翡翠の瞳が——灰色に変わっていた。
光を映さない、曇った灰色だった。
昨夜、あれだけ近くで見た瞳。深い緑の、翡翠の色をした瞳。あの色が、ない。
「リン」
声をかけると、リンは顔をこちらに向けた。方向は正確だった。声は聞こえているのだ。
「——見えない?」
「ええ。ほぼ真っ暗ですね」
リンの声は、穏やかだった。ただ、唇の色が少し薄くなっているように見えた。
聞いていたはずだ。目が見えなくなると。わかっていたはずなのに、実際に目の前にすると、胸がきしんだ。
「かなり派手に崩れたよ」
「こちらまでは崩れなかったんですね」
「見えたの?」
「いえ、途中からは——そこまで危なければ、アルティさんがこんなに落ち着いてないでしょうから。——魔力溜まりはどうなりました?」
「そのまま残ってる。同じ場所に浮いてる。でも、崩れ落ちたから……出て来たやつはそのまま下に——水の音がしたけど、かなり深いと思う」
「なら、しばらくは大丈夫でしょう。出てくるなり空を飛ぶようなやつが生まれてこないことを祈って」
リンは小さく頷いた。
いつもの口調、いつもの声。けれど、あの灰色の目がこちらを向いては通り過ぎる。目の前の自分を映さずに。
「あとは、帰ってエルディンに報告すれば、いいんだよね? 封印を急いでって」
「そうですね。……まあ急いでも、ちょっと今日中に戻れないかもしれませんが」
洞窟の中にいると、時間の感覚がなくなってしまう。それでも行きの道を考えれば、暗くなるより早く帰れるはずだが——そう思ったところで、リンの灰色の瞳が目に入った。
この目では、帰るのにも時間がかかる。平坦な道ではない。
「ひとまず、戻ろう。手、貸すよ。動ける?」
「すみません」
アルティはリンの左手を取った。冷たかった。指が長くて、骨ばっていて、自分の手よりずっと大きい。
昨晩の、首の後ろの手の感触が一瞬だけ頭をよぎった。——振り払う。今はそれどころじゃない。
その手を握って、二人は元来た通路に向かって歩き出した。
アルティが前を歩き、リンがすぐ後ろについてくる。いつもなら、リンは半歩後ろにいる。多分、隣よりも少し歩きやすくて、少し近い距離に。なのに今は——
そのことが、ひどく胸をざわつかせた。
核晶の光が、まだ通路の壁を青白く照らしていた。足元は見える。リンの足が岩を踏む音が、アルティの足音のすぐ後ろに続いていた。
「段差あるよ、上に」
「はい」
「右に少し曲がるよ。左、壁」
「はい」
リンは素直に従った。アルティの手を握り返す力は弱くはなく、その手はさっきより少しだけ熱い気がして、それがとても、不安だった。




