第8章 その性質がわかったら①
アルティが目が覚めたのは約束の時間ギリギリで、慌てて準備を整えた。
廊下に出ると、リンはすでにいた。
壁に背を預けて、腕を組んで、目を閉じている。眠っているのかと思ったが、アルティが扉を閉める音に反応して、すぐに目を開けた。
「おはようございます」
「おはよ。ごめん、待った?」
「いえ」
いつも通りの声だった。いつもと変わらぬ、端正な顔で佇んでいる。
準備をしながらぐるぐる考えていたのだが、リンの変わらぬ様子を見るともしかすると昨日のことは、夢だったのかもしれない。いや、夢だとしても、随分と——その、随分な、夢だったが。
「昨日はなんかすごくよく眠れたよ」
アルティの言葉と、リンのあくびが同時だった。
「リンは——眠れた?」
「眠れるはずないですよね……」
リンは目の端に滲んだ涙を指でぬぐい、小さく伸びをした。
ああ……これは、もしかすると、どうやら、夢では、なかったようだ。
一体なんと言えばいいのか。どんな顔をすればいいのか。
「まあ、行きましょう。早く着いたほうがいいでしょうから」
リンがアルティの背をとん、と軽く叩いた。これまでにもあった仕草だった。けれど、それが一晩で随分違うものになっていることに、アルティは気づいていた。
気づいていたから、何も言わないことにした。
街はまだ眠っていた。
石畳の通りに人影はなく、ぽつりぽつりと煙突から白い煙が立ち始めているだけだった。昨日賑わっていた市場の、畳まれた天幕の間を通り抜ける。石畳に控えめな足音が二つ。
リンは珍しくマントのフードを被っていた。透き通るような金色の髪が、隙間からわずかにのぞいている。
アルティは耳の冷たさに気づき、首の巻き布を耳元まで上げた。どうせなら、フード付きのマントにすればよかった。
少しだけ、違和感があった。
そうか、と気づく。いつもは横か、半歩後ろを歩いているリンの背中を、今は見ている。フードに隠れて、その表情は見えない。
残念だ、と思って、ほんの少しだけ驚いた。
だから、そのことには触れないことにした。
「クレアさん、今日調査を始めるのかな」
「まあ始めるでしょう。汚名を濯ぐためにも」
「リンは……クレアさんが怪しいと思ってる?」
「いえ、そこまでは。ただ、グラニス家は関わっているでしょう。多かれ少なかれ」
「全然別の悪人が名前を騙ってる可能性はないの?」
「可能性としてはありますが、どうですかね。それはそれで、名前を騙られても防げない領主というのもかなり問題があると思います」
「まあ、それはそうだけど……他に関わってそうな素振り、あった?」
「工房の魔道具。どう考えても、小さい街の工房で買えるようなものではありません。お金が流れているのか、そもそも核晶の加工をさせるために渡したのか。領主が関わってるかはわかりませんが、調べた方が良さそうです」
アルティは、昨日リンが指摘していた砥石の魔道具を思い出した。
「それから」
「まだあるの?」
「これ」
リンが上を指差した。
顔を上げると、空——ではなく、小さなたくさんの灯りが見えた。
街灯だった。
夜の名残のまま、まだ消えずに灯っている。朝靄の中で、ぼんやりと滲んで見えた。
「多過ぎます。おかしいとは言いません。ただ、あの工房で削り出した時の核晶の屑石を利用すれば、かなり費用は抑えられるはずです」
「屑石?」
「核晶の原石を加工した時に出る破片です。売ることもできますが、街灯に流用すれば無駄もない。これだけの街灯を設置することを、領主が一切関わらずにやるとは思えません。関わってなかったとしたら、それはそれで街への無関心が過ぎるでしょう」
アルティは小さくため息をついた。白く染まる息が、街灯の灯りに溶けていった。
「それで、クレアさんにきつく言ってたんだね」
「そこまできつく言ったつもりはないですが……まだ代替わりもしていない状態です。しかも後継者として指名もされていない年若い女性ができることは、限界があるでしょう。ただ——そこに生きている人たちがいる以上、放っておくこともできませんからね」
リンの声は、フードの中でくぐもっていた。
その横顔は、見えなかった。
街の外に出ると、道は石畳から土に変わった。
山が近い。街道の両脇に岩が迫り出し、木々の間から朝の光が斜めに差し込んできた。空気が湿っていて、葉の裏に夜露が残っている。踏み込むたびに、靴底から冷たさが伝わってきた。
しばらく歩くと、道が分かれていた。細い方が、禁足地へ続く道だ。
枝が道に張り出し、時折しゃがまなければ通れない場所もある。人が通っているのかはわからない。ただ、頻繁ではなさそうだ。髪に引っかかった枝を払いながらアルティはそう思った。
道が少し開けた場所に出た。
岩が後退して、細い光が頭上から真っ直ぐに落ちてくる。切り株が一つ、道の脇に残っていた。誰かが休憩に使ったのか、表面がうっすら平らに削れている。
「もう少し距離があるはずだから、ここで一旦休憩」
「そうしましょう」
切り株はあまり大きくなかったので、なんとか身を寄せ合って二人で座った。体温を感じる距離というのは、今は少し避けたかったのだけれど。
荷物から布に包んだ葡萄パンと干し肉を取り出した。
あまり味わって食べるものでもない。干し肉を齧って、パンを水で流し込む。
「リン、水」
「ありがとうございます」
水筒を渡すと、リンは口をつけて一口飲み、それから返してきた。
「……まだ眠い?」
「いや、さすがに目が覚めました。でも、帰ったら寝ます」
「なんか……私だけよく眠れてごめん」
「謝らなくていいんじゃないですかね。二人揃って寝不足になるよりは」
リンは大きなあくびをした。
少し考えてから、その言葉の裏の意味に思い至って、耳が熱くなった。
パンを口に押し込んだまま、無言で干し肉を齧る。横を見られない。
リンが、こちらを覗き込んできた。
「……なんだ、ほとんど覚えてないとか、そこまで酔ってたわけじゃないんですね」
「やめて」
「まあやめておきましょう。また今度」
「なっ……」
「アルティさんの言葉です」
アルティは無言でリンの背中を拳で叩いた。
リンはくすくすと笑い、それ以上は言わなかった。
干し肉の塩気が、いつもより強く感じられた。




