第7章 What are little girls made of?③
「珍しい」
「アルティさんはそろそろやめときます?」
リンが陶器の瓶を持ち上げて、少し首を傾げてアルティを見た。
「ううん、まだあるなら、もうちょっと」
アルティがカップを差し出すと、リンが葡萄酒を注いだ。瓶は軽くなっていた。もう半分以上は空いている。
「エルディンには言わないでね」
「言いませんよ。人間、なかなかうまくいかないものですね」
「本当だよね。エルディンのことが好きになれたらよかったのに、本当にうまくいかない」
アルティがカップに口をつけると、もうすでに葡萄酒は冷たくなっていた。温かかった時の甘さが少し変わって、果実の酸味が舌に残る。
「冷えちゃった」
「温めます?」
「ううん、いいや、これで」
唇についた葡萄酒をぺろりと舐めた。
「ねえ、リン。もしかしてずっと私が失恋したと思って心配してくれてたの?」
「心配……といっていいのかわかりませんが、まあ、なにかしら決着をつけたんだろうなと……寂しいのかなとか、だからマントに入ってきたんだろうなとか」
「マント?」
アルティはカップを両手で持ったまま、顔を傾けた。
「いや、だからまあ、エルディンさんの代わりでも仕方ないなと思って」
「ああ! だから態度がおかしかったんだ!」
アルティが笑顔になった。
「なんかおかしいと思ったんだよね。違うよ、寂しかったとかじゃなくて、寒かったからくっついただけだよ」
リンの反応がなにかおかしいことがずっと胸にひっかかっていたのだが、やっと理由がわかった。エルディンの代わりにされたと思っていたのか。エルディンにはそんなこと、しないのに。
だが、リンは逆に浮かない顔になった。
「そう言われると、それもちょっと」
リンはカップを手に椅子からそっと立ち上がると、カップを静かに机に置き、おもむろにベッドの——アルティの横に腰掛けた。寝台がわずかに軋んだ。椅子からベッドまで、たった、二歩。
「ん?」
「ちょっと失礼しますね」
リンはアルティの手からカップを取ると、こちらも机に置いた。
「どうしたの?」
葡萄酒を取られてしまったので、仕方なくアルティはリンに向き直る。
思ったより、ベッドは狭かった。
でも向き直ったのは自分だけだった。リンは机の方を向いたままで、その横顔しか見えなかった。
「アルティさんは寒くないですか?」
「今? 毛布もあるし、葡萄酒も飲んでるし、寒くないよ」
「寒くなくても、ひっつきたいとは思いませんか?」
「んん?」
アルティは眉を寄せた。
「リンが、ひっつきたいの?」
「僕は比較的、いつでも」
間も開けず、特に声色も変えずに、リンはそう言った。こちらも向かずに。
そんな横顔では、「またそんなことを」と笑い飛ばすことができない。
「……それならくっついてあげるよ」
アルティは膝にかけた毛布ごと、リンのすぐそばまで寄ると、リンの左肩にもたれかかった。長衣の布越しに、体温が伝わってくる。葡萄酒とは違う温もりだった。
「うーん……」
リンは膝の上に組んだ指を見つめていた。
「アルティさん、僕が言いたいのは、そうではなくて」
アルティも、リンの組み直された指先を見た。顔を上げられなかったから。
「——わかってると思うんだけどな」
自分の声が、わずかに震えた。この距離じゃなければ、多分言えない言葉だった。
「また、そう言って」
と、言いかけたリンの声が掠れて消えた。
「——本当に?」
「多分」
そうして、ようやくリンがアルティに顔を向けた。
アルティもリンを見上げた。
肩越しにこちらを見る翡翠の瞳が、いつもよりも深い色に見えた。長い睫毛の影のせいだろうか。少し薄暗い部屋のせいだろうか。それとも。
だめだ、とアルティは思った。
今の沈黙はまずい。
何か言わなきゃいけないのに、リンの瞳に目を奪われて、完全にタイミングを失ってしまった。
リンの顔が近づいてくることに、アルティは気づいていた。
何を考えているのか、いつも全くわからない男なのに、自分に対する好意だけは隠さないことに気づいていた。
これまで、それは勘違いかもと思って蓋をしてきたのも事実だ。
でも、見て見ぬふりをするのは、もう限界だった。
だけど、それを認めたとしても、受け入れるのか、それとも拒絶するのか——
頭の中ではそんなことを目まぐるしく考えていたのに、答えを出せないまま、自分にできたことは、ほんの少しだけ、首を傾けることだけだった。
唇が触れた。
そっと、柔らかく。
目を瞑るのを忘れていたので、リンは耳の形もきれいだなと、妙なことに頭が回った。
多分ほんの数秒のことだった。
唇を離したリンと、睫毛が触れそうなほどの至近距離で目が合って、アルティは思わず、ふふっと笑った。
「……目を開けてました?」
「閉じ忘れてて」
「ええと、今、こういう流れで間違ってなかったですよね?」
間近で見る少し困惑したようなリンの顔がおかしくて、もう一度アルティは小さく笑った。
「あのね」
「はい」
「ちょっとだけ待ってね」
「……待つ?」
「ふふ、今になって心臓がね……」
考えが全然まとまらないのに、心臓だけがうるさい。どうしていいかわからなくて胸に手を置いたが、おさまる様子はひとつもない。平気な顔でいたかったのに。
困ってしまって、アルティは曖昧に笑った。
「全然止まらないや」
「——止まらなくていいような」
「止まると死んじゃうって?」
「そうじゃなくて——手を借りますよ」
リンがアルティの手をとって、自分の胸に触れさせた。長衣の布を通して、リンの心臓の鼓動が、掌に伝わってきた。速い。自分と同じくらい。
「ね」
と、リンが言った。
二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。
「リンにも心臓あったんだね」
「いやまあ、生きてますからね」
「いつも平気そうな顔してるから」
「平気そうな顔をしているだけですよ」
「私より速いかも」
「そうですか?」
アルティは微笑んで、首を少し傾けると、リンの手を取って、その首筋にそっと当てた。
手のひらの熱が広がる。
「ね」
と、アルティが言うと、うなじにかかったリンの指先が、わずかに、動いた。
頭はまだまとまらず、心臓もうるさかった。
でも、それが不快じゃなかった。
だから、リンを見て、それから少しだけ、顎を上げた。その仕草だけで、言葉は要らなかった。




