第5章 猫④
二人は坂を下り、冒険者の店へ向かった。
腕の中のシロは、おとなしく魚の干物を食べていた。
冒険者の店に戻ると、店主は猫の顔を見て大きくため息をついた。
「こいつは……まったく、世話の焼ける」
シロはリンの腕から店主のカウンターに移されると、当然のような顔で丸くなった。ここが自分の場所だと言わんばかりだった。
「婆さんに連絡しとくよ。ありがとな、嬢ちゃんたち」
店主が棚の下から小さな革袋を取り出し、銀貨を数えた。五枚と、三枚。
エルディンから前金を受け取った今となっては、必要のない仕事だったかもしれない。でもまあ、文字通り汗水垂らして稼いだ貴重な銀貨だ。
「もう逃げるんじゃないよ」
アルティがシロの首を撫でると、シロは、になぁ、と気の抜けた声を出した。
外に出た途端、風が吹き抜けて、アルティは身を縮めた。
走り回って温まっていた体が、止まった途端に冷えていく。腕の肌が粟立ち、太ももの筋肉がきゅっと強張った。
猫、猫が思ったより温かったのだ。どうせならずっと抱いておきたかった。
「さっむ……」
マントの前を握りしめたが、隙間から冷気が入り込んでくる。そもそもマントの下が薄着すぎるのだ。腕も太ももも剥き出しで、風が直接肌を削っていく。
「このあとどうします?」
「さむい」
「ええ、知ってます。今すぐ館に向かうのは、ちょっと早すぎますね」
「さむい」
「……ひとまず宿屋に戻ります?」
リンが呆れたように言った。
「ううん、時間があるなら、先に買い物に行く」
「そうですね。市場の方で、防具とか服とか売ってましたよ。行きましょうか」
アルティはリンの隣を歩きながら、ちらりとリンのマントを見た。青鈍色の、厚手のマント。足元まで包み込む長さ。暖かそうだ。とても暖かそうだ。
「……リン」
「はい」
「寒い」
「知ってます」
「……すごく寒い」
「走ったせいで、汗をかいた分寒くなったんじゃ——」
言い終わる前に、アルティはリンのマントの裾を掴んでいた。
「ちょっ——」
「ちょっとだけ。ちょっとだけ入れて」
「入れてって、いや——」
抗議を聞く前に、リンの胸元のマントを掴み、くるっと背を向けた。そのまま引き寄せた左右のマントの端を自分の前で合わせると、リンのマントから顔だけ出した状態になった。
背中に、リンの体温があった。風が遮られて、マントの内側にこもった温もりが、冷え切った体を包んだ。
「……あったかい」
思わず声が漏れた。
「あの、歩けないんですが」
「ちょっとだけ我慢してよ」
「マント、貸しましょうか?」
「そしたらリンが寒いじゃん」
「そりゃまあ……」
リンの声は困惑していたが、振り払おうとはしなかった。マントの中で、アルティの背がリンにわずかに触れている。
リンの手が、アルティの両肩を軽く掴んだ。しかし、それ以上押し出そうとはしなかった。
「リンってあったかいんだねえ」
「そりゃあ、生きてますからね」
「確かに」
その言葉がなんだか可笑しくて、アルティは小さく笑った。この男はいつも涼しい顔をして、飄々としているから忘れそうになるが、ちゃんと温かい。ちゃんと、血の通った温度がある。
「……アルティさん」
「ん?」
「せめて人目がないところに行きませんか」
リンに言われて顔を上げると、通りを歩く女性と目が合った。女性は一瞬足を止めて、それから目を逸らして歩いていった。
「見られてます。と言うか、見ないふりをされてます……」
「恋人同士とか、もっとひっついて歩いてるじゃん」
「恋人同士を装うなら、腕組むくらいにしてくださいよ。そっちの方がまだ目立ちません」
「……こう?」
マントの中で体をずらし、リンの左腕に自分の腕を絡めた。
腕を組むのは初めてだった。厚い袖越しでも、体温が伝わってくる。思ったより、しっかりした腕だった。杖より重いものを持ったことがなさそうな風貌をしているのに。
「ああ、ええと、うん、そうですね……」
「違う?」
「いえ、そう素直に組まれるとちょっと心の準備が」
「自分で言ったくせに」
「思ったより落ち着かなくてですね」
アルティは顔を上げた。リンは前を向いたまま、耳の先がほんの少しだけ赤くなっていた。
「意外」
「やめてください」
「手慣れてそうなのに」
「自分でもちょっと驚いてるので、お願いですからその辺で」
この男にも、こういう顔があるのだ。
もう少しなにか言ってやろうかと思ったが、やめた。言ったら自分も恥ずかしくなる気がした。
「じゃあ、行こうか」
「ええ……このまま行くんですか?」
「うん」
「面白がってません?」
「うん」
リンは天を仰いで、大きく息をついた。
「仕方ない。ひとまず移動しましょう。市場の方に、防具とか服とか売ってる店を見かけましたから」
歩き出すと、腕を組んだまま歩くのは思ったよりも難しかった。何歩か試して、ようやくちょうどいい速さを見つけた。
リンは困った顔をしつつも、アルティの肩がマントから出ないように、右手でマントの端を押さえてくれていた。
腕を組んで歩いている。それだけのことなのに、さっきまでの寒さが嘘のように遠い。
顔や脚には風が吹きつけていて、寒いはずなのだが、よくわからないけれどもぽかぽかと温かかった。
市場が見えてきた頃、アルティは自分からそっと腕を解いた。
「ありがと。あったかかった」
「それはよかったです」
リンの声はいつもの穏やかさに戻っていた。耳の赤みも、もう消えていて、ちょっとだけ残念だなと思った。
市場の外れにある防具の店から出てきた時には、アルティの装備は朝とはだいぶ様子が変わっていた。
肘の上まで覆う柔らかい黒いなめし革のアームウォーマー。裏地に柔らかい毛皮が張ってあるが、指先は出ているから弓は問題なく引ける。太ももまで覆う長い脚絆は、バックルで固定する仕組みで、走っても膝の動きを邪魔しなかった。首元には目の詰まった黒い巻布を巻いて、マントの中に押し込んである。肩と太ももはまだ少し素肌が見えていたが、先ほどまでの比ではない。
全部で銀貨十二枚。パーティ財布と、アルティの財布から半分ずつ出した。
「どうかな?」
アルティはくるりと一回転してみせた。黒で統一された装備によく馴染んでいる。
「いいですね。……というか、普段もそのくらい覆ってるくらいでちょうどいいと思うんですよね」
「手足出してる方が好きなんだよ。動きやすいし」
「防具としてももう少し覆った方がよくありません?」
「当たらなければ怪我しないから」
リンはため息をついた。
「でもしばらくはしまっといてください。——寒くなくなりましたか?」
風が吹いた。さっきと同じ冷たい風だった。
でも今度は、身を縮める必要がなかった。
「うん。でも、リンにくっついてる方があったかかったな」
「——あまり年長者をからかうのは、よくないですよ。いつかやり返されても文句は言わないでくださいね」
「それは困るなあ」
アルティは笑って、首の巻布を口元まで引き上げた。




