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七賢者の涙  作者: 相川晴(HAL)
第二部 知恵の実は幸福をもたらすか
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第5章 猫③

 裏手に回ると、干されたらしい研磨泥が乾いて白い塊になっていて、その向こうに痩せた草地が続いていた。確かに、日当たりがよく、少し暖かい。

 しかし、猫はいなかった。


「朝方追い出されたなら、どこか別の暖かいところに行ったかな……」

「鍛冶屋の方が暖かかったですよね」

「そうだね。鍛冶屋のとこにも戻ってみようか——」


 そこまで言いかけて、足元に何かが動いた。

 草むらの中を、ごそごそと。


「……リン」

「ええ」


 二人は息を殺した。

 草の間から、丸い顔がぬっと出てきた。

 真っ黒の体。まんまるの黄色い目。首に、色の褪せた青い紐。

 太っていた。噂に違わず、堂々とした体躯だ。


「シロ……」

「アルティさん、干物は?」

「あ」


 アルティが荷物を探ろうとした瞬間、シロは驚くほどの速さで身をひるがえした。


「あっ、待って!」


 太った猫は草むらを駆け抜け、石の山を飛び越え、隣の建物の隙間に消えた。太っている割に、信じられないほど素早かった。


「先に行くね!」


 アルティは叫びながら走り出した。建物の隙間に体を滑り込ませ、狭い路地を駆け降りる。


『アルティさん、左です』


 突如リンの声が耳元でして、思わず振り返る。しかしそこには誰もいない。


「リン?」

『左に曲がってください。まだ追いつきます』


 魔法だ。多分。どこにいるかわからないが、どこかで見ていて声を送ってきたのだろう。

 左に曲がった。シロの黒い尻尾が、塀の向こうに消えるのが見えた。塀を掴んで飛び越える——その先は、誰かの家の裏庭だった。洗濯物が干してある。その下をシロがくぐり抜けていく。


「ごめんなさい、通ります!」


 一応声をかけたが、返事を聞く間もなく駆け抜けた。

 裏庭を抜けた先は、見覚えのある通りだった。坂の途中だ。


「リン、どっち?!」

『市場の方です』

「下?」

『そうです、下りて』

「リンどこにいるの?」

『秘密です』


 アルティは坂を駆け下りた。市場の手前でシロの姿を見つけた。

 だが、人が多い。大きな体が、人の足の間に消えた。


 鐘楼の下で息を切らして立ち止まった時、市場の向こう側から、聞き覚えのある声がした。


「——なにをしているんだ」

「エルディン??」


 エルディンだった。

 その隣に、クレアがいた。二人とも、こちらを見ていた。エルディンは呆れた顔で、クレアは少し驚いた顔で。いやまあ、驚いたのはこちらも同じだ。

 そしてエルディンの足元には——黒い太った猫が、何食わぬ顔で座っていた。


「…………あの、その猫」

「この猫か?」

「……そうです。それを、追いかけてて」


 アルティは肩で息をしながら、答えた。汗が額から顎に伝っていた。まさか猫相手に全力で走ることになるとは。


「捕まえた方がいいのか?」


 エルディンがシロを見下ろした。シロは堂々とした態度で真っ黒な毛の毛づくろいを始めた。逃走劇の当事者とは思えない泰然自若ぶりだった。

 そこでやっと気づいた。前足と後ろ足、全部が白い靴下を履いたような、そんな黒ぶちであることに。

 ああ、それで『シロ』だったのか……


「あの、アルティさんですよね。その——なんで猫を追いかけてたんですか?」


 クレアが、困惑と好奇心が半々の顔で聞いた。


「ええと、冒険者の依頼で……猫探しを……」

「猫探し?」


 クレアが目を瞬かせた。それからエルディンを見て、アルティを見て、もう一度エルディンを見た。


「随分と、暇そうだな」


 エルディンがゆっくりと言った。穏やかな声なのに、妙に圧がある。


「……路銀がね、なくてですね」

「路銀? ——ああ、そう言えば前金を渡してなかったな」

「ソウデスネ」


 アルティが棒読みで言った。


「……まあ、それは悪かった」

「今いただけたら嬉しいです」

「わかったわかった」


 エルディンが、懐から革の小袋を取り出して、そのままアルティに差し出した。重みと、中で硬貨がぶつかる音がした。


「——これ、金貨じゃないでしょうね」


 念の為確認を取る。金貨を使える店は限られるのだ。


「銀貨だ。これで猫を追いかけるのはやめろ」

「折角捕まえたんですから、連れて行きますよ。報酬がもったいない」

「好きにしろ」


 クレアが、クスクスと声を出して小さく笑った。口元を手で押さえている。


「冒険者も大変ですね」

「この街は平和すぎて、冒険者の出番がないみたいです」

「そうですか。それなら本当によかった——冒険者の方にはつまらない街ですね」

「まあ、つまらない方がいいんだと思います」


 アルティの言葉に、クレアが一瞬息を飲み、それから微笑んだ。


「捕まりました?」


 リンが坂の上から悠々と現れた。髪の一筋すら乱れていない。なんとも憎たらしい風情で。


「まだ」


 リンがエルディの足元のシロを抱き上げた。シロはおとなしくリンの腕に収まった。さっきまであれだけ逃げていた猫が、抵抗もせず、リンの腕の中で目を細めている。猫にも相手を選ぶ知恵があるらしい。


「リン、どこにいたの」

「秘密です」


 リンは先ほど耳元で囁いた言葉をもう一度繰り返した。


「しかしこれは重いですね」

「籠かなにかないと、連れていく間に逃げちゃうかな」

「魔法を使っていいなら、逃がさないことはできますけども……」


 リンはちらりとクレアの方を見た。他人の目の前で魔法を使うのは憚られるのだろう。クレアは一瞬きょとんとした顔をしたが、視線の意図を理解したようで、頷いた。


「大丈夫ですよ。人に危害を加えるような魔法でなければ、グラニスでは特に罰則はありません」

「それは随分と寛大な」

「元々、魔法使いがあまり居着かないですよ。魔法を使える人がほとんどいないので」

「それでは」


 リンはシロをアルティに手渡すと、懐から杖を取り出した。口を開きかけ、一瞬の間があった。それから杖先をシロに向けて、短く詠唱した。

 ふっと風が起こった。


「ん? これはなんの魔法?」

「風で周囲を包んだだけです。えーと、見えない籠の中に入ったような状態にしたと思ってもらえたら」


 見た目はよくわからないが、抱き上げている感触が少し違う。なにか透明な柔らかい膜ごしに抱いているような感じだった。なにより、軽い。


「逃げられないの?」

「僕の目が届く範囲では」

「じゃあ、早く連れて帰ろっか」

「——終わったら、ちゃんと仕事をしろよ」


 エルディンが、腕組みをしてアルティを軽く睨んでいた。


「同時進行でやってます」

「猫探しの他にお仕事があるんですか?」


 クレアの質問に、アルティはちらりとエルディンに視線を送った。禁足地の調査は隠す必要がある案件か、判断がつかない。


「——聞かれて困る話でもない。グラニス西部の禁足地の定期調査をしている」


 エルディンはさらりと言った。王家の管轄である禁足地の存在自体は秘密ではないのだろう。


「そうでしたか」

「丁度いい、同時進行でやってると言うなら、中間報告を聞くか」

「あ……えーと、まだ禁足地には行ってなくてですね……」

「ほう。それで、猫探しを」


 エルディンの目が冷たい。


「いや、先に街の中の変化がないか見てます……」

「なにかあったか?」

「今のところはなにも」


 とアルティが言ったところで、リンが手を上げた。


「すみません、僕からいいですか」

「勿論。どうした」

「少し……気になることが」


 リンは、クレアに視線を向け、それからエルディンに戻した。


「ただ、ここではちょっと」

「——場所を移すか」

「待ってよ、猫がいるんだってば」


 アルティが二人の間に割って入るように、腕の中の猫を少し高く掲げてみせた。シロは迷惑そうに耳を伏せた。


「それに、エルディン様とクレア様は、ここで何を?」

「少し街の案内をしておりました」

「あの……余計なことかもしれませんが、街でエルディン様が来たことが噂になっているようです。何の用かまでははっきりとはわかってないようですが」

「あら……」


 クレアが小さく眉を寄せた。


「そうか。——それならば、一旦戻るか」

「猫を依頼主に返した後に、領主の館で話をするというのはどうでしょうか」


 リンの提案に、エルディンが頷いた。


「部屋をお貸しいたしますよ。準備がありますので、一、二刻ほどいただけたら」

「助かります」

「はい。それでは、失礼しますね」

「——無理はするなよ」

「承知いたしました」


 短いやりとりだった。

 エルディンとクレアが並んで歩いていく。周囲の視線が二人に集まるのがわかった。長身の男女が並ぶ姿は、それだけで目を引いた。本人たちが気づいているかはわからないが。


「これはまた、噂になるんだろうなあ……」

「さて、行きましょうか。猫を届けないと」


 アルティの腕の中のシロが、のんきにあくびをした。


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