第5章 猫②
市場は街の中央、鐘楼の南側に広がっていた。
広場に天幕を張った露店が並び、野菜、果物、干し肉、革細工、日用品が所狭しと積まれている。レンスティアの市場ほどの規模はないが、人の活気は負けていなかった。
乾物屋はすぐに見つかった。市場の端で、干し肉を並べている女性がいた。
「すみません、黒ぶちの猫を探してるんですけど——」
「シロかい!」
乾物屋の女主人の声が市場に響いた。声の大きさに、隣の八百屋の男が肩をすくめている。
「まーた帰ってないのかい。今日は見てないねえ。昨日は見たけど……」
「一昨日の夕方から帰ってないらしくて。どっちに行ったかわかりますか?」
「さあねえ……ほっといてもそのうち帰るだろうよ。いつものことさ」
そうは言っても、依頼は依頼だ。
「見かけたら、引き留めておくよ。まだしばらくここで店出してるから」
「ありがとうございます」
「そうだ、これを持っていきな。シロはこれが好きだから」
女主人は、足元の籠から小さな魚の干物を取り出した。
「買いますよ」
「いいよいいよ、これは売り物にならないやつだから」
女主人は干物を布に包むと、アルティに渡した。
「ありがとうございます。いただきます」
「しかしまあ、あんたたち見ない顔だねえ。冒険者かい?」
「ええ、昨日着いたばかりで」
「へえ、昨日!」
女主人は大きな声で言ったあと、すっと声をひそめた。ひそめたといっても、多分隣の店には丸聞こえだったが。
「なんか偉い人が来てるって話だけど、もしかしてあんたたちもその関係?」
非公式の訪問と言っていたが、どうやらエルディンの来訪はすでに噂になっているようだった。人の口に戸は立てられない。
「いえ、私たちはただの冒険者で。なにか仕事がないかなって寄ったんですけど」
「なんだ、そうかい。冒険者の仕事になるようなものはあるかねえ。ここらは魔物も出ないし……うちはお嬢様がしっかりしてるからさ」
「お嬢様?」
「領主のお嬢様だよ。クレアお嬢様。あの方がこの街を見てくれてるから、安心して暮らせてるんだ」
女主人は崩れ落ちそうな燻製肉を積み直しながら言った。お嬢様、という言い方に、親しみが滲んでいる気がした。
「えーと、でも、領主——お父上は?」
「ああ、あの方ねえ。お体も弱いし……最近はもうほとんどお姿を見ないよ。しばらく前からお嬢様がほとんど切り盛りしてるって話だよ。街道の整備だって、あそこの屋根の修繕だって、お嬢様が手配してくれたんだ」
指さす先を見ると、鐘楼脇の小さな店が見えた。確かに屋根が真新しい色をしている。
「お嬢様一人じゃ大変そうですね」
「まあねえ。でもほら、お屋敷には魔法使いさんもいるからさ。あの人がいろいろ助けてくれてるみたいだよ」
「魔法使い?」
「お屋敷で雇われてる人がいるんだよ。この街には魔法使いがずっといなかったしさ、ありがたいねえ」
女主人は崩れ落ちそうな燻製肉を積み直した。
「でも、お嬢様も年頃だってのに、一体どうなるのか……」
最後の一言は、少しだけ不安そうに聞こえた。偉い人が来ている、という噂と、結びついているのかもしれなかった。
アルティは礼を言って、市場を離れた。
「エルディン、来てるのバレてるね」
「仕方ないと思いますよ。下手すると領主が変わる可能性もあるわけで」
「弟がいるなら、そっちが後を継ぐんじゃない?」
「どうでしょうね」
それ以上はリンも言わなかった。アルティも追わなかった。
今はまず、猫だ。
市場の北側から、緩やかな坂道が続いていた。
坂の途中で、一軒の小さな店の前を通り過ぎた時、アルティの足が止まった。
「石鹸だ」
木の棚に、色とりどりの石鹸が並んでいる。大きさも形もまちまちだが、なにかの花の匂いが通りにまで漂っていた。
「……いい匂い」
「買います?」
「お金ないんだよ」
「猫を捕まえた後に」
「大切な銀貨八枚で石鹸を買う気?」
アルティは笑った。石鹸は贅沢品だ。とてもじゃないが、そんなものを買う余裕はない。せめて匂いだけでも楽しみながら、坂を上った。
少年たちが言っていた工房は、坂の上の少し開けた場所にあった。
木造の平屋で、片側の壁が大きく開け放たれている。屋根の下では二人の男が石を削っていた。一人が鑿と槌で石を割り、もう一人が足踏みの砥石に水を垂らしながら小さな石を押し当てている。ペダルの軋む音、湿った研磨音、槌の乾いた音が交互に響いていた。
床は濡れて白い泥水の跡がこびりつき、作業台の周りには大小様々な石が転がっている。棚には磨き上げられた宝石が布の上に並んでいた。
アルティは工房の前まで歩いていった。
「すみません、黒ぶちの猫、見ませんでしたか?」
砥石の前に座っていた男が足を止め、顔を上げた。四十がらみの、日に焼けた顔の男だった。指先が白い泥にまみれている。
「シロか? 朝方うちの裏にいたけど、追い出したらどっか行っちまったよ」
「追い出したんですか」
「裏の削りかすを舐めるんだ。猫の体に良くないだろ」
男は作業台の脇に置いた桶の水で手を洗った。
「何を作ってるんです?」
アルティは何気なく聞いた。
「うちは研磨屋だよ。鉱山から出る石を磨いて加工してる。宝石の細工から、大きな石を割るのまでなんでもやるよ」
「その石は何ですか?」
リンが指差した先は、男の目の前の台の上にある石だった。
「これか? これは領主家から頼まれたやつだな」
男は台の上に置かれた石を手に取った。薄い青灰色をした、透き通った結晶だった。六角に近い柱状の形をしているが、一部が欠けて不揃いになっている。石には詳しくないが、水晶に似て見える。
「領主家の?」
「ああ、加工を頼まれてるんだ。変わった石でね、硬くて削るのに随分骨が折れるんだが」
「——随分、綺麗な石ですね」
「だろう? 装飾用ではないから大きさを揃えるだけでいいと言われてるが、勿体無い。まあ硬いからな……」
男はそう言って、また砥石に向き直った。ペダルに足を乗せ、桶から柄杓で水を掬って砥石に垂らしてから、石を押し当てる。白い水飛沫が細かく散った。
二人はお礼を言ってその場を去った。
「あの砥石、魔道具が組み込んでありましたね」
工房を離れてから、リンが言った。
「え、どこに?」
「台座に金属の筒が嵌まっていたでしょう。回転を補助する魔道具ですね。足踏みだけだと石が硬い時に回転が足りなくなるから、それを補っている」
「へえ……そんなのがあるんだね。高そう」
「まあ、高いでしょうね。誰が手配したのか」
リンの歩調がわずかに落ちていた。考え事をしている時の歩き方だった。
「リン?」
「ん?」
「なにかあった?」
「んー……石が少し」
「石?」
「すみません。ちょっと考えがまとまったらお話しします。——さて、裏手に行きますか」
それだけ言って、リンは視線を前に戻した。穏やかな顔だった。
アルティはそれ以上聞かなかった。こう言う時のリンは、聞いてもはぐらかされることを、もう知っていた。




