第4章 差し出された手①
グラニスの城壁が見えたのは、二日目の午後も遅くなってからだった。
山脈が近い。街道の両脇に、いつの間にか岩肌が迫り出してきていた。冷たい風が谷間を吹き抜けて、馬車を時折揺らした。
城壁は、レンスティアとは随分と趣が違っていた。灰色の石を積み上げた無骨な壁は、全く飾り気がない。実用だけを考えて、できる限りの高さと厚みを持たせた壁だ。北の国境に近い土地だからかもしれないし、周辺の魔物が少ないからかもしれない。
「あれ」
馬車の窓から顔を出したアルティが言った。
「人がいる」
城門の前に、人が立っていた。その数、二つ。
近づくにつれて、片方が女性であることがわかる。裾の広がったシルエット。
女性が、こちらに気づいて大きく手を振った。手を振り返したものか迷っているうちに、女性の影はもう一つの影に何かを話し、そしてもう一つの影は城門の向こうへ消えていった。
「どうしますか」
御者台からの声に、
「門のところで馬車を止めろ」
反対側の窓から顔を引っ込めながら、エルディンが言った。
近づくに連れて、人影の様子が見えてきた。
黒い髪。編み込んだ艶やかな黒髪を後ろにクレスピンでまとめた、長身の女性だった。深い緑の上着に、革の手袋。一眼見て、貴族の娘だろうとわかる。
女性は馬車が止まるのを待って、一歩前に出た。
どうするかと思っている間に、エルディンが立ち上がって扉を開けた。外套の裾を軽く払い、女性の前に降り立つ。
「——お待たせして申し訳ない」
「いいえ。道中で何かあったのかと心配になって出てきてしまいました。ご無事で良かった」
少し低めの、落ち着いた声だった。透き通っているのに芯がある。
「北部街道の橋が通れなくなっていてな。南に迂回していたら遅くなった」
「ああ、あの橋……。魔物が棲みついて、退治した時に破損したと報告がありました」
アルティは馬車の中で、リンと目を合わせた。アルティの形相にリンはそっと目を逸らし、二人の様子を伺うように窓の外を見た。
「すみません、ご挨拶が遅れました。クレア、クレア=グラニスです」
女性は膝を軽く折って礼をした。
「エルディンだ——よかったら一緒に乗って行きませんか」
「よろしいのですか」
「少し手狭でよければ」
女性がこちらに目を向けた。黒い瞳が、自分とリンの間を渡り、それからすぐに穏やかな笑みに変わった。
アルティはリンの隣へ席を移した。目上の人を乗せるなら、進行方向側は譲った方がいいだろう。
「お連れの方でしょうか」
エルディンの手を借りてクレアが馬車へ乗り込むと、少しだけ膨らんだスカートが馬車の空間を彩った。自分は着ないけど、華やかだな、と思う。
「ああ。護衛を兼ねている冒険者だ。アルティと、リン」
「ようこそグラニスへ。長旅お疲れさまでした」
クレアは二人に向かっても、小さく膝を折ってから席についた。その動作があまりに自然で、仕込まれたものではなく、身についたものなんだろうなと思った。
「アルティです。よろしくお願いします」
「リンです」
リンが微笑むと、クレアは一瞬だけ目を瞬かせた。この男の顔を初めて見た人間の、典型的な反応だった。だが、すぐに視線をエルディンに戻した。
御者が手綱を取り、馬車が再び動き出した。城門を潜ると、石畳の道が続いていた。
馬車の中は、四人には少し狭かった。
アルティの目は、クレアに向いていた。じろじろ見るのは失礼と思いつつ、どうしても目が行ってしまう。
意志の強そうな、まっすぐな眉。黒く長いまつ毛に縁取られた瞳。華やかな顔立ちの中に、聡明さを感じた。
エルディンとクレアの間に、心配していたような妙な空気はなかった。ぎこちなさもなかった。
それが、少しだけ意外だった。あれだけ嫌がっていたのに。
「道中は問題ありませんでしたか。この季節、山は荒れやすいので」
「天候は問題なかった。この山の街道は、とても整備されていた。首都の近くより状態がいいくらいだ」
クレアは目を細めて、微笑んだ。
「ありがとうございます。鉱石を積んだ荷車が毎日通りますから荒れがちで……道が荒れると生活に響きますので、街道の整備だけは怠らないようにしています」
そこまで言って、馬車の床に目をやった。
「でも——なんでしょう、馬車の揺れが……」
「ああ、馬車か。ちょっと魔道具の実験をしていてな」
「まあ。うちでも館の魔法使いが少し研究をしています。坑道の方なので、人の乗り心地の問題ではないんですが」
エルディンの目が、わずかに光った。
「鉱山の?」
「ええ、馬の負担を少なくできないかと軌条を使っているんですが」
「軌条?」
「はい。うまく魔道具を使えば、馬を使わずに鉱石を運べるんじゃないかと……」
「しかしそれには相当な核晶がなければ——」
二人の会話にアルティは内心で天を仰いだ。この男は、知識欲を満たすような会話に弱い。魔法に限らず、なんでも、だ。
だが——エルディンの声が、存外に楽しそうで、少しほっとしていた。レンスティアから続いていた、あの疲れた声ではなかった。
クレアはエルディンの調子に少し戸惑っていたようだが、手振りを交えて説明をしていた。目上の相手への気遣いと敬意を見せつつ、それでもとても、熱心に。
アルティはそれを見て、小さく笑った。
クレアは、アルティと同じくらいの歳だと思う。首都の貴族のように気取ってもいないし、領地の様子を話す姿は、なんだか好ましい。
——まあ、自分が好ましく思っても仕方ないのだけど。
ただ、わずかに、胸の奥で燻るなにかが不愉快だった。嫉妬……嫉妬ではないように思う。うまくはいえないが。ただまあ、その不快感は自分に対してであって、目の前の二人に対してではない、と思う。
その時、手に何か触った。
リンが、アルティの手を、トントンと指で突いた。
横を見ると、少し首を傾げてアルティを見ていた。
何が言いたいのかわからないのでアルティも首を傾げると、ふっと微笑んで、なんでもないと言うように小さく首を横に振った。
アルティは、リンから目を外して、また前の二人の様子を見た。
胸の奥に燻っていたなにかが、ほんの少しだけ軽くなっていた。




