第3章 幸せにしたい人、幸せになって欲しい人②
一日目、町の門が閉まるぎりぎりに町の中に滑り込んだ。小さな町だったが、南北をつなぐ街道を通る旅人も多いようで、いくつか宿屋もあった。人数分の部屋を確保し、食事もそこそこに自分の部屋に入ると、弓とナイフを放りだして、ベッドに倒れ込んだ。
頭がぐらつく感覚は、いつもの馬車に比べれば幾分マシだった。それでも天井が揺れていた。歩くか、自分で馬に乗った方が楽だろうか——いや、でもそれでも馬車の方が体力は温存できる。
うっかりと馬車の中でぐっすりと眠ってしまったせいで、身体は重いのに妙に頭の芯だけ冴えている。このまま眠るのは難しそうだった。
窓の外は暗い。人の気配はなく、遠くでなにかの獣が一声吠えたきり静まり返っていた。
こんこん、とドアから音がした。
「誰?」
「エルディンだ。少しいいか」
「——いいよ」
返事を一瞬だけ躊躇ったことを、エルディンが気づかなければいいのだけど。アルティは寝台から降りると、ドアの鍵を開けた。
エルディンは外套を脱いでいた。その下の黒い襟なしの衣は、仕立てこそ良いが飾り気がない。顔でも洗ったのだろうか、髪が少し濡れていた。それだけで少し年が若く見えた。
「どうしたの?」
「眠くないから話に来た」
「早く寝た方がいいと思うよ。明日中にグラニスに入りたいんでしょ」
「……着かなければ楽なんだがなあ……」
エルディンは部屋の隅に置かれた木製の質素な椅子を引くと、背もたれに体を預けるようにして腰を下ろした。ぎぃ、と小さく軋んだ。長い脚を投げ出し、首を傾けて天井を仰ぐ。疲れているのだろう、とアルティは思った。
アルティは寝台に戻り、足を引き上げてあぐらをかいた。
「着きたくないの?」
「着けば、どちらにしろ話は進む。そして、どちらに進んでも、楽しい話ではないからな」
「縁談のこと?」
「そうだ。進めるにしろ、断るにしろ——楽しくはないだろう?」
アルティは、そうだねとも、そうでもないよともいうことができず、眉を寄せるしかなかった。
「じゃあなにか楽しい話をしようよ」
「楽しい話なあ……」
エルディンは、少し前屈みになって膝の上で手を組んだ。浮かない顔のまま。
「じゃあ、お前の話にしよう」
「私の?」
「アルティ、いつ帰ってくるんだ」
「またそれ? 帰らないよ。——そりゃ仕事があれば行くけどさ」
「うまくいっているならともかく、うまくいってないなら冒険者稼業を続けなくてもいいだろう。帰ってくれば、お前に頼みたいこともたくさんある」
「それはわかってるし、ありがたいと思うけど……自分の足で生きてみたいんだよ。誰かに頼るんじゃなくて、自分の力で」
「頼る相手がいることも、お前の力だ」
その言葉と目が、あまりに真っ直ぐで、アルティは少し苦しくなった。
「あんまり優しいこと言わないで。エルディンが結婚してから頼られても、困るでしょ」
「——そうしたら、そのときはお前を養女にするよ」
「…………」
エルディンの視線を受け止めることができず、アルティは小さな窓を見た。窓の向こうは暗い。月でも見えていたならよかったのに。
「……楽しい話をするんじゃなかったの?」
「わたしは楽しいよ。お前は楽しくないだろうけど」
その声は穏やかだった。揶揄っているわけでも、皮肉っているわけでもなく。
だから、アルティも、少しだけ笑った。
「……そんなことはないよ。そういう未来も、あるかもしれないよね」
エルディンは苦笑して、目を閉じたまま天井を向いた。
「お前に気を遣われる日が来るとはなあ……」
椅子の背もたれが、ぎぃ、と軋んだ。
それから、もう一度、アルティを見た。
「——お前の気持ちは変わらないのか」
今度は目を逸らすわけにはいかなくて、真っ直ぐに、エルディンの目を見た。切れ長の、濃い黒色の瞳。すぐ近くで、いやと言うほど見てきた瞳。その目を、曇らせたいわけじゃないのに。
「……私はもう、答えたよ、エルディン。同じことを言いたくない。言わせないで、エルディン」
「——そうか」
エルディンは、短く、静かに答えた。
その先がないことを、誰よりも知っていた。
「悪かったな。着く前に確認したかった。——確認できただけでも、お前を連れてきた甲斐があった。顔を見て、話しておきたかった」
「エルディンは本当に」
エルディンがこちらを「ん?」と見たので、頭の中で考えていたことが口から出てしまっていたことに気がついた。
「本当に——ばかだなって」
「そこはもうちょっとなにか言いようがあるだろう、お前。いい男だなとか」
「いい男だと思ってるよ。だから、縁談も——うまくいってもいかなくても、エルディンの幸せを願ってる。それは本当」
エルディンは、にや、と笑った。目を細めて、意地悪そうに。
「方々で散々恨みをかってるからなあ……そう簡単には幸せにはなれん気がするな。因果な職業だ」
「大丈夫だよ。重荷の半分くらいなら、背負ってあげるから」
言葉の最後が少しだけ震えた。エルディンは少し目を見開き、そして苦笑した。でも、目は、笑うことができずに。
「……やっぱりお前がいいんだけどなあ」
アルティは無言で、ゆっくりと首を横に振った。
だめだ。声が出なかった。声を出したら泣いてしまいそうだった。
「話せてよかった。——困らせてすまなかった」
エルディンが椅子を立った。コツ、コツと足音が響いた。二歩。たった二歩の距離。その距離を、踏み越えることはできなかった。
足音が止まり、そして、アルティの頭を、ぽんぽんと軽く撫でた。
大きな手だった。小さい頃からずっと、この手が大きくなるのを見てきた。覚えてない遠い記憶、自分を助けてくれたその手。
アルティは、無言で頷いた。口元だけ、笑顔にできた。
「おやすみ」
「……おやすみ」
静かに扉が閉められた。
廊下の足音が遠ざかり、どこかで別の扉が開いて、閉じた。
アルティはそのまま、寝台に転がった。
後悔は一つもしていない。
それでも、大好きで大切な人を笑顔にできなかったことが、ほんの少しだけ、辛かった。
目の端から涙が溢れた。枕に染みて、小さな跡を作った。
それでも、間違いなく、彼の幸せを祈っていた。




