第3章 幸せにしたい人、幸せになって欲しい人①
グラニスまでは馬車でも二日は必要だった。
幸いなことに馬車の乗り心地はこれまでにないほどに良かった。石畳の上の時ほどではないが、車輪が石を噛む衝撃が、不思議なほど体に伝わってこない。エルディンの試作品のおかげに他ならないのだが、途中の休憩で道端に止まった際、少し魔道具の調整をしたいと言い出し、リンと二人で車体の横に座り込んでああでもないこうでもないとやり始めた時には、もうこいつらを置いて先に行こうかと思ったくらいだった。
一番心配していたリンとエルディンの関係だったが、思いの外良好だった。共通の趣味——趣味ではないかもしれないが、魔道具の話をきっかけに魔法談義に花を咲かせ、向かい合わせの座席で二人が交わす議論は、アルティにはほとんど外国語のように聞こえた。あまりのつまらなさ具合に、アルティは大きなあくびをした。
ふっと意識が浮かんだ時、最初に感じたのは揺れだった。
馬車の揺れだ。だが、なにか——柔らかい。そして、なんとなく温かい。
温かい——
温かかった、のだろうか。
さっきまで何かを見ていた気がする。夢だったのか。熱くて、暗くて、怖い——何かの夢だった。内容はもう、よく覚えていない。
ただ、赤い色と、光の中に誰かが立っていたことだけが、瞼の裏に残っていた。
人の影。逆光で顔は見えない。ただ自分を見下ろしている。
——誰だったんだろう。
アルティは寝ぼけた頭のまま、薄く目を開けた。
視界に入ったのは、黒に近い濃紫の布地だった。
布?
膝だ。エルディンの、膝の上だった。
エルディンの膝を枕にして寝ていたことに気づくのに、たっぷり二呼吸分は必要だった。
血が頭に昇るのと、飛び起きるのと、どちらが先だったかわからない。
「っ——!」
体を起こした拍子に、頭がエルディンの顎にぶつかりかけた。エルディンは慣れた動きでそれを避け、声を立てずに笑っていた。
「おはよう。よく寝てたな」
「な、なんで起こしてくれないの——!」
「あまりにも気持ちよさそうに寝てたからな。起こす方が忍びないだろう」
アルティは自分の髪を手で押さえた。寝ていたせいで乱れている。頬に跡がついていないか気になったが、確かめる術はない。耳が熱い。
向かいの席で、リンが膝の上で手を組んだまま、こちらを見ていた。
笑ってはいなかった。なんと表現すればいいのだろう——少しだけ目を細めて、こちらを見ている。呆れているのかもしれない。わからなかった。
「……リンも、寝顔を見てるくらいなら起こしてよ!」
「あまりに気持ちよさそうに寝てましたからねえ……」
リンの言葉に、エルディンが吹き出した。
いつ眠ったのかも覚えていなかった。二人が魔道具の話をしている声を聞いていたはずだ。あまりに退屈で、窓の外の景色を見ていたような気もする。——気がついたら、こうだ。
完全に油断していた。ここまで気を抜いていた自分に驚くほどだ。
窓の外を見た。光の角度が変わっている。随分と長く眠っていたらしい。
「……ごめん、もしかして結構寝てた?」
「一刻くらいか」
「一刻!? そんなに? もう、本当になんで起こしてくれなかったの……」
アルティは顔を覆った。指の隙間から、エルディンの口元が笑っているのが見えた。からかっているのか本当なのか、この男の場合は判断がつかない。
「あの」
リンが言った。ただ静かに。
「すみません。お二人は、どういうご関係なんですか」
唐突だった。だが——今の光景を見た後であれば、むしろ聞かない方が不自然かもしれなかった。明らかに、上司と部下、雇い主と冒険者の距離感ではなかったと自分でも思う。
「聞いていい質問であれば、ですが」
リンは穏やかに、でも笑わずにこちらを見ていた。
アルティはちらりとエルディンを見た。エルディンは腕を組んだまま、リンの方を見ていた。それから片手でこめかみを押さえて、手の隙間からアルティを見た。
アルティはなんと言っていいか、わからなかった。聞く人にとって、多分あまり気持ちのいい話ではない。
エルディンは、徐に口を開いた。
「昔、この子を保護した。まだ小さい頃にな」
それだけだった。それ以上のことは言わなかった。その先、何を言うかは自分に任せるということなのだろう。
リンがアルティの方を見た。アルティは少し肩をすくめて、笑ってみせた。
「私、親がいないの。エルディンに拾ってもらったんだよね。そこからずっと保護してもらってて」
「それは、いつ頃の——?」
「いつだっけ。えーと……」
「わたしが十三歳の時だから……十三年前になるか」
「えっ、もうそんなに経ったの」
「本当だな」
「で、その後ずっとお世話になって、仕事まで融通してもらってる感じ、かな……いい加減本当に離れないと……」
最後の呟きは、口の中で消えた。
リンは、長い指で自分の顎の輪郭を描いた。
「つまり、保護者みたいなもの、ということでしょうか」
「あー……そういえば建前上は保護者になってた気がするな」
「そうなの?」
「なにかそういう書類を、昔書いたような……」
「初耳なんだけど」
「特に言う必要もないだろう?」
リンは二人のやりとりを、静かに見ていた。少しだけ遠い目をして、
「なるほど」
と、言った。
それから、リンは窓の外に目を向けた。流れていく木々の影を、翡翠の瞳が追っていた。
それ以上は何も聞かなかった。
アルティはリンが踏み込み過ぎずに待ってくれるところは、とても彼の美点だと思った。
あまり聞かれたくない過去もある。言いたくない過去も。
いつか言う日も、来るかもしれないけれど。
馬車は揺れながら北へ進んでいた。窓から差し込む光は、もう西に傾き始めていた。




