第2章 翡翠と黒曜石②
エルディンは首を横に振った。顔を寄せてくる。耳元に、低い声が落ちた。
「違う。——が、手伝ってほしいことがある」
審問官の仕事ではないのか。審問官の仕事をしたくないと言うわけでないのだが、「今」じゃなくてよかった。
アルティは姿勢を戻した。
「じゃあ、それって冒険者の仕事になる?」
「——なに?」
「金欠なの。冒険者の仕事が必要なの」
「……それなら、うちに戻ってくればいいだろう」
「そういう問題じゃないんだよ。わかってないなあ」
頬を膨らませたアルティに、エルディンはため息をついた。
「わかったわかった……金なら出すから」
その声には少しだけ、諦めと、優しさが含まれていた。いつもそうだ。どこか厭世的で、でも誰よりも優しい人間だ。
「やった! で、なんの仕事?」
「それは後で説明する。出発するぞ」
「え、いつ?」
「今からだ。馬車は外にある」
「今から?」
うっかり大きな声をあげてしまった。
「急すぎない? せめて——」
「荷物をまとめるだけだろう。一刻以内に出るぞ。時間がないんだ」
エルディンは小さく息をついた。なにか違和感を感じていたのだが、どうもこの男、いつもより疲れている。声に元気がないし、少し肌に張りも足りない気がする。
どうしたものか。
アルティは一瞬視線を落とし、それから、エルディンではなく、リンの方を見た。
リンは食事の手を止め、二人のやりとりを見ていた。口を挟まず、静かに。
リンは、ほんの少しだけ眉を寄せ、小さく首を傾げた。
その仕草がなにを意味しているのか、よくわからない。
なんだろう、心配? 不安? 表情を読むのは得意なつもりだが、リンに関してはあまりよくわからない。
これは自分に回された仕事だ。少なくともエルディンはそう思っている。
そうであれば、リンはここに置いて行くのが当然だ。
——置いていく?
そう思うと、訳もなく胸がざわついた。
なんだろう、これは。
わからなかった。わからなかったから、アルティは、エルディンに向かって言った。
「——リンも一緒じゃなきゃ、行かないよ」
エルディンの眉がわずかに動いた。リンの目が、ほんの少しだけ大きく開かれた。
「アルティ」
「リンと一緒じゃなきゃ行かない。今、組んでるのはリンなの。一緒じゃなきゃ嫌だからね」
二度目は、もう少し落ち着いて言えた。
聞き分けのない子どものように見えただろうか。
だけど、今組んでるのはリンなのだ。本人の言葉も聞かないうちに、勝手に置いていくのは違うと思う。ただ、それだけだ。
エルディンがリンを見た。リンは、薄く笑って、エルディンの方を見た。
エルディンとリンの視線が交差した。おそらく、あまり、好意的な意味ではなく。
エルディンは目を瞑り、天を仰ぎ——大きく、長い長い息を吐いた。
「……わかった。支度しろ。一刻後、店の前で」
立ち上がり、外套の裾を翻して食堂を出ていった。
朝の食堂に静けさが戻り、アルティの皿の上では蜂蜜を塗りかけたパンが取り残されていた。
アルティはそれを見下ろして、ため息をついた。
せっかくのパンは冷えて少し硬くなっていた。料理も半分は残ったままだ。エルディンのせいで。
「——ごめん、とにかく食べて準備しよう」
「ええ、そうしましょう。勿体無い」
フォークを取り直して、残りの朝食に向かう。口に入れたパンは、さっきまでの香ばしさがどこかに行ってしまっていた。蜂蜜の甘さだけが、妙にはっきりと舌に残った。
「ごめん、確認も取らずに仕事受けちゃった——リン、なんか機嫌よくない?」
「え、そうですか。いや、そこまでは」
よくわからないが、リンが笑顔だ。今の話のどこに笑顔になるタイミングがあったのかわからないが、いつもより心なしか声も弾んでいる。
「仕事をやるのはいいんですけど、上司って、あの、上司ですよね。僕一緒に行って大丈夫ですか?」
リンは「あの」と言葉を濁したが、要するに「審問官の上司だろう」と言いたいのだ。リンは先日、七賢者の書の断章を灰にしている。そのことがバレたら、とんでもなくまずい相手なのだ。
だが——アルティは、エルディンに嘘をついていた。断章が灰になった理由を、アルティは「知らない」ことになっている。
あの場にリンがいたことも話していない。
つまり、下手に口を滑らせなければ、大丈夫のはずだ。
「——ひとまず、私の仕事のことは知らない、ただの冒険者仲間ってことにしておいて。お願い」
「わかりました」
「で、あなたは——外国から来た魔法使いで、えーと、だから協会にも所属してないよってことにしてね」
「はい」
「いい、なにも悪いことはしてない、いい魔法使いだよ」
「え、そんな、まるで僕がなにか悪いことをしたかのような」
「リン」
「——ごめんなさい」
リンは少し背を丸めて、小声で言った。
リンには、悪いことをした自覚は、多分本当にないんだろう。
断章を灰にしたのは、悪意でもなんでもなく、ただ彼の選択に過ぎなかった。そのことは理解している。
理解しているが、アルティの仕事の邪魔をしたことと、人のものを勝手に灰にしたことは反省してくれてもいいと思う。おかげでエルディンに、つきたくもない嘘までついているのだから。
「——あとは馬車の中で話すよ。変なことさえ言わなければなんとかなると思う」
「変なことって?」
「なにかを灰にしましたとか、そういうの! 言わないでよ!」
「ああ、はい。もちろんです。わかりました」
先に食べ終わったリンは、水を飲んでから穏やかな笑顔でそう言った。大変模範的である。
「素直な返事なのになんで不安なんだろ……」
アルティは苦虫を噛み潰したような顔をした。




