第2章 翡翠と黒曜石①
翌朝、一階の酒場で朝食をとっていた。
朝の光が窓から斜めに差し込んで、テーブルの上を横切っている。
焼きたてのパンが籠に盛られ、バターと蜂蜜の小壺が添えてある。それに目玉焼きと、厚切りの燻製肉、葡萄まで並んでいる。
酒場はまだ静かだった。宿に泊まったらしい客がまばらにテーブルについていた。カウンターの向こうで主人が忙しそうに皿を出している音が響いていた。
昨日の大蝙蝠退治は報酬なしに終わったが、腹が減っては仕事はできぬ。財布はすでに痩せ細っているが、ここは削るわけにはいかない。
アルティが蜂蜜をパンにたっぷり塗っているのを、リンが向かいの席で眺めていた。
「甘いもの好きですよね」
「朝は甘いのがいいの」
リンは葡萄をつまんで、穏やかに笑った。細く長い指で唇に葡萄を放り込む様は、絵画のようであった。もっとも、背景が酒場でなかったなら、だけれども。
冒険者の店の依頼は、昨日の夜にチェックしてきた。だが、めぼしいものはなかった。あまり簡単なものを選びすぎるのも、他の人の仕事を取るようで気が引ける。分に合った依頼受けるのが、冒険者の暗黙の了解だ。
かと言って、魔法使いの条件がついているものは、危険を伴うものばかりだった。危険を伴うということは、勢い余って誰かが余計なものを壊しかねないということで——アルティの胃が、きゅっと痛くなった。
しかし、今日中に何か見つけないと、明後日には宿代も怪しくなる。背に腹は代えられない。もしかしたらうまくやれるかもしれないし、危険を伴いそうな依頼を受けるしかないか——
そんなことを考えながら、二口目のパンを頬張った時だった。
ふと、酒場の空気が変わった。
扉が開いて、外の冷えた空気が流れ込んで来た——いや、それだけではない。周囲の会話がふっと途切れた。視線が流れる。アルティも、蜂蜜の瓶を持ったまま、つられるように入口を見た。
一人の男が立っていた。
「——え」
アルティの手に持った瓶から、蜂蜜が垂れ、パンをかすめて皿に落ちた。
場違いなものを見た。
黒に近い濃紫の外套。一見して飾り気はないが、こう見ると生地の質も仕立ての線も違う。ほんの少し覗く襟元の布も、この酒場の誰が着ているものとも格が違って見える。背が高く、黒に近い濃い茶の髪を、無造作に後ろに流している。顔立ちは整っているが、それ以前に鋭さの方が目についた。
切れ長の目が食堂の中をゆっくりと見渡している。
——探している。
アルティは動きを止め、無意識に、息をひそめた。
男の視線が、すっとこちらに向いた。
見間違いかと思ったが、見間違い様がない。
切れ長の目が、自分を見て、少し緩んだ。ああ、いつもの、知っている表情だ。
男はまっすぐにこちらへ歩いてきた。まばらな客の間を、迷いなく。人の視線を気にする素振りもない。
それにしても場違いだった。冒険者の安宿の朝食の席に、この男は似合わない。
アルティは慌ててテーブルを見回す。よかった、なにも酒は頼んでなかった。
「アルティ」
頭上から聞こえてきたのは、落ち着いた低い声だった。もう何年も聞いてきた声だ。聞き間違えるはずもない。
「エルディン——なんで、ここに……?」
アルティは少々頑張って作った笑顔で、顔を上げた。
エルディンは、アルティの隣の空いた椅子を引くと、断りもなく腰を下ろした。
——少しは遠慮と言うものを覚えたらいいのに。
エルディンは、向かいに座るリンに目を向けた。
値踏みしているのかなんなのか。たっぷり数秒は見ていた。
それからアルティを見た。目を、少しだけ細めて。
「なんでだろうな。レンスティアを通る予定はなかったんだが——その前に」
エルディンの漆黒の瞳が、もう一度リンに向いた。静かな視線だった。
「——こちらは?」
「あ、ええとね、こっちはリンって言って……今、一緒に冒険者の仕事をしてる魔法使い」
「リンです。はじめまして」
リンが軽く頭を下げた。穏やかな笑顔だった。いつも通りの。隙がなさすぎて怪しいとすら思ったが、初対面のエルディンにはわからない、だろう。きっと。
「エルディンだ。この子の——ん? なんだ?」
「ええと……上司、上司でいいんじゃない?」
アルティはそう言いながら、リンへ目配せをした。お願い、気づいて。これ上司、リンがやったことがわかったらものすごくまずい上司。お願い、察して!
リンはそれに気づいたのか気づいてないのか、アルティの方をちらっと見たきり無反応で、エルディンが、「よろしく」と差し出した手を淡い笑顔で握り返した。
握手が離れるまでの数秒が、やけに長く感じた。なぜだろう、友好的な感じが全くしない。
「話がある」
エルディンが、握手を解くと同時に言った。アルティに向かって。
「えっと、朝食は?」
「済ませた」
「私まだだから食べるよ。なにしに来たの?」
「北に行く。ついてこい」
アルティの蜂蜜の壺を持ち上げかけた手が止まった。
リンは音も立てずにパンを口に入れていた。目はこちらを静かに見ている。
アルティはエルディンの顔を見た。どうやら冗談を言っている顔ではない。
聞きたいことはいくつもあった。だが——リンがいる。
アルティは蜂蜜の壺をそっと置いた。パンを皿に戻し、エルディンの方に少し体を傾けた。手で口元を隠して、小声で。
「……あっちの仕事?」
本当は、リンに聞こえて困る話ではない。しかし、「審問官のことをリンが知っている」ということがエルディンにバレるのはまずい。




