第11章 三つの条件②
リンがわずかに片眉を動かした。
「それは、どういう……」
リンが何か言おうとするのを、手で止める。
「リンが、いろいろ考えてるんだろうなってことはわかるの。実際、人が一人、死にかけたわけだし、なんなら私も危なかったかも」
アルティはあのセドリックの家での戦いを思い出した。もし無防備に飛び出していたら、もしかすると自分にも魔法が作用したかもしれなかった。
見えないところに多いが、アルティには無数の古い傷がある。あの魔法が、そのまま自分にかかっていたら、アルティの傷は治り、その代わりテディのように死んでいたかもしれない——
無意識に、アルティは胸元に手をやっていた。
リンが先に忠告してくれたから、判断を誤らずにすんだのだ。
「だから、今回やったことは、もう見てなかったことにする」
向かいの椅子から、息を呑む気配がした。
「助けられたのは本当だし、灰にするのを止められなかったのは私の実力が足りなかっただけだと思ってる」
一瞬、アルティは自分の指先を見た。わずかに触れたあの灰は、もうどこにも残っていなかった。
「本当は——あなたを捕まえないといけないと思うんだけど……まあ、良くも悪くも、審問官には裁量権があるからね」
にやり、とアルティは笑った。
「全部任されてるから、こういう少々よくない人間が審問官になるべきじゃないなって、私も思うよ」
リンは一度口を開き、閉じた。
そしてまた開き、
「いや……まさかそうくるとは思わなくて」
「だから」
アルティはリンの言葉を待たずに、息を吸った。
「さっさと逃げて。次に会った時、見逃せるかわからないから」
本気だった。
この男が何を考えているかわからない。断章を焼いた理由も、本当のところはわからない。
しかも、杖もなしに魔法を使った。そんな人間を、アルティは見たことがなかった。
それまで、杖なしでは魔法が使えないと散々言って、木の枝なんかを使って火傷まで負ったというのに。
そもそも——もし杖なしで魔法が使えるとしたら、あの盗賊に捕まっていたことの「意味」が変わってくる。
本当に、リンは盗賊に捕まっていたのか?
もしかして、最初から、リンは別の目的があってあそこにいたのではないか?
エルディンが言っていた「賊」は、もしかしてリンのことではないのか?
そう、目の前にいるこの美しい男は、あまりにも規格外だった。
わからない人間のそばにいるのは危険だ。
それに、この男をこのまま連れていれば、エルディンにも嘘をつき続けることになる。
切るなら今だ。
しかし、リンは椅子の背にもたれたまま、動かなかった。
「……聞こえた?」
沈黙に耐えかねて、アルティが低く、聞いた
「聞こえてますよ」
「じゃあ、逃げて」
「嫌です」
その返事があまりに早くて、アルティは面食らった。
「嫌って——」
「まだ借りを返してません」
「借りなんてないでしょ……」
「よくないですよ。あなたの仕事を一つ台無しにしてるんですから」
「だからそれは見逃すって——」
「僕が見逃せないんです」
リンの声は穏やかだった。
しかし、全く動く気配も、譲る気配もなかった。
「……なんで」
「罪滅ぼしですよ。一つ台無しにしたなら、一つ分は働かないと」
「そういう問題じゃないの」
「そういう問題です。借りは返す。それだけです」
飄々とした声だった。天気の話でもしているように軽い。
アルティはリンを見た。
翡翠の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。
冗談を言っている目ではなかった。
軽い口調の下に、別のものがあった。
アルティは三度目の「逃げて」を口の中で作った。
出てこなかった。
喉の奥で、言葉が詰まっていた。
なぜ出てこないのか、考えたくなかった。考えると、きっとまずいことになる。
ほんの数日前なら言えたはずだ。置き手紙一枚で姿を消せた自分が、今、目の前のこの男に三度目を言えない。
「組む相手がいないんでしょう」
沈黙を読んだように、リンが言った。
「魔法使いがいた方がいいんじゃないですか。今回で、それはわかったはずです」
リンの声は穏やかだった。
ただ、視線が、翡翠の瞳が、アルティをまっすぐに射ていた。
なぜここまで食い下がるのか——
アルティは考えかけたが、そこで考えるのを放棄した。
「だからって、断章を灰にした人間と組めるわけ——」
「組めますよ。あなたが監視していればいい。僕が何かおかしなことをしたら、その時こそ捕まえてください。——あなたがペンダントを外せば、僕は何もできないんでしょう?」
アルティは言葉に詰まった。
ペンダントを外せば、リンの魔法は消える。どれほど強い魔法使いでも、自分の前では無力化できる、はずだ。
頭の中で、別の声が囁いた。
魔法使いと組めるなら、仕事は楽になる。一人で動くことの限界は、今回嫌というほど思い知った。理論がわからない、魔法がわからない、暴走を止められない。全部、一人ではどうにもならなかった。
それに——と、アルティは考えた。
この規格外の男を、自分の目の届かないところに置いておく方が危険な気がする。
もしこの男がエルディンの言う「賊」であったとするならば……
「放っておくと、なにをしでかすか、わからない……」
アルティは、声に出さずに、口の中でつぶやいた。
仕方ない。
こうなったら、腹を括るしかなかった。
「——仕事を手伝ってくれる、ってことね」
「はい」
「あなたの嫌いな、審問官の仕事もあるんだよ?」
「……前に言ったように、審問官の制度が嫌いなだけですよ。むしろ、あなた一人に任せずに済むなら、僕も嬉しいですよね」
なにが嬉しいのかはよくわからなかったが、まあ、筋は通っているように感じた。
リンが姿勢を正した。軽口の空気が消えた。
「——もう少し、一緒にいさせてください」
穏やかな、低い声だった。
もう、聞き慣れた声だ。
アルティは答えなかった。すぐには。
窓の外を見ていた。窓は小さく、見えるのは向かいの建物の壁と、その上に覗く空の切れ端だけだった。
リンのその声に、その言葉に潜んだ感情を、多分自分は知っていた。
いや、気のせいかもしれない。
リンは私に罪滅ぼしをしたい。
そして自分にとって、リンは仕事の役に立つ。
それだけの理由で十分だ。それ以外の理由は、要らない。
アルティは自分に言い聞かせた。
「……条件がある」
「どうぞ」
「一つ。断章が出てきたら、灰にする前に必ず私に相談すること」
「わかりました」
「二つ。私の正体を誰にも言わないこと」
「当然です」
「三つ」
アルティは間を置いた。
リンが、わずかに首を傾げた。金の髪が肩から滑った。
「——勝手にいなくならないで。私も、勝手にいなくならないように、努力するから」
リンは、一瞬きょとんとして、それから笑った。
声を出さない笑い方だった。目が細くなって、口元だけがほころぶ。
綺麗だな、と思った。
思ってしまってから、アルティは自分の顔が熱くなるのを感じた。
リンが綺麗なのなんて、最初に会った時から知っていたのに、こんな場面で改めて思ってしまったことが、やけに気恥ずかしかった。
頭の中で考えていた三つ目の条件、「逃げないで」ではなく「いなくならないで」と言ってしまった理由は、自分でもよくわからなかった。
「いいですよ。——どこにも行きません」
リンの声は静かだった。
静かで、柔らかくて、ほんの少しだけ、嬉しそうだった。
「……嬉しそうだね」
「嬉しいですよ?」
リンは笑顔で言った。
「祝杯をあげたいくらいには」
「えっ、飲む? 飲むなら付き合うよ、今から?」
アルティが顔を輝かせ、リンの顔が渋くなった。
「——駄目です。あなたのお酒は少々質がよろしくない……」
「リンのけち!」
「ああ……」
リンは頭を押さえた。アルティが代わりに笑った。
お酒は飲まなくても、確かに、今はちょっと気分が良い。
「お酒があったらもっとよかったけど……何か美味しいものでも食べに行かない? 朝から何も食べてなくて、もうお腹ぺこぺこなんだよね」
「いいですね。行きましょう」
宿屋の外に出ると、もう太陽は中天を過ぎていた。
「どこに行きます?」
「赤鳶亭?」
「甘いものもいいですが、食事ができるところにしましょうよ」
「昼からやってるとこ、あったかなあ……」
アルティの横に、リンが並んで歩く。
一人で歩くより、ほんの少し窮屈で、ほんの少しゆっくりで、そして、ほんのすこしだけ、心地よかった。
本当は考えなきゃいけないこと、終わりにできないこと、いろんなものが心の中に山積みだ。
ああ、次の仕事が来たら、この男のことをなんて説明しよう。
——まあ、それは食べてから考えればいいか。
アルティは大きく伸びをした。
それを見て、リンが小さく笑った。
<第1部 了>
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第二部も完成しましたので、また更新していきます。




