第11章 三つの条件①
リンは最後まで、逃げなかった。
セドリックの引き渡しの間も、弟の搬送の間も、ただ淡々とアルティの作業を手伝った。
いつでも逃げることはできたのに。
アルティも、わざと目を離していたのに。
逃げてしまいたい気持ちは、アルティの方が強かったかもしれない。
だが、リンが逃げずにここに残ったのだから、もうきちんと向き合う時間なのだろう。
「——宿に戻ろう」
アルティは前を向いたまま言った。
リンは何も言わずについてきた。
アルティが借りている宿の部屋は、昨日と同じように狭かった。寝台と、机と、椅子が一脚。
昨日もここで二人で話をした。あの時はまだ、セドリックをどうするか相談していた——たった一日前のことなのに、随分前に感じた。
アルティは寝台の端に座り、リンに椅子を示した。
リンは椅子に座った。
重く、苦しい話をした昨日と同じ配置だった。
扉は閉めた。ここなら誰にも聞かれない。
しばらく、二人とも黙っていた。
窓の外から、通りの喧騒がくぐもって聞こえてくる。
馬車の車輪の音。商人の声。遥か遠くのウミドリの声。
世界はいつも通りに回っている。
アルティが、口を開いた。
「——なんで逃げなかったのよ」
「え?」
「逃げればよかったのに……」
思わず本音が出た。本当はやり場のない怒りをぶちまけようと思っていたのに。アルティは頭を抱えた。
リンは不服そうに口を尖らせた。
「だって、逃げるなって言ったじゃないですか」
「犯罪者なら逃げなさいよ」
「いや、犯罪者……犯罪者、うん、まあ、そう? ですかね?」
「勝手に人のものを焼いちゃダメでしょ!」
「え——あ、はい」
「いい? あれは、王家の蔵書! ハンコあったでしょ? 勝手に焼いたらダメ!」
アルティの勢いに飲まれて、リンはうっかり
「ごめんなさい」
と口にした。
アルティは、大きく深呼吸をして、肩を落とした。
「まあね、それを隠蔽したから、私も同罪になっちゃったけど——」
リンは、息を呑んだ。
「……言わなかったんですか? 上司に」
「言えるわけないでしょ」
アルティはリンをギロリと睨んだ。
「『七賢者の書を焼きました』なんて報告したら、次のターゲットはあなたよ。わかる? あんな古臭い紙切れ1枚で、屋敷1個建つくらいの価値があるんだよ。それが十三枚だよ? そこ理解してる?」
「そこまで高くなってるんですか」
「なってるの!」
声を荒げたところで、目の前の男は少し困ったように眉を寄せるだけだった。
アルティは、大きくため息をついた。
「もう、何を話せばいいかわからなくなったじゃない……」
片手で頭を押さえて、こめかみを押した。
「それじゃあ、僕から聞いてもいいですか」
アルティはゆっくりと息を吸ってから
「どうぞ」
と言った。
「アルティさんが魔術審問官というのは理解したんですけど、その——どうして魔法使いじゃない人が審問官をやってるんですか。魔法使いに対抗するには、魔法がないと拘束すら難しい——」
そこまで言ったところで、リンは「あ」と呟いた。
自分で答えに辿り着いたのだろう。
どう伝えたらいいだろうか。
もう目の前で見せてしまったのだ。誤魔化すことはできない。
素直に話すにしても、伝えることがとても難しい。
アルティは答えのないままに口を開いた。
「どう説明したらいいか、ちょっと自分でもわかんないんだけど、私には、その——特異体質みたいなのがあって……」
リンはアルティの言葉を聞き、膝の上で組まれた指を開いた。
「ん? あの魔法を消したのは——魔法じゃなくて、体質?」
「そう」
「いつからです?」
「生まれた時からじゃないかな。私、昔のことあまり覚えてないんだよね。ただ、ペンダント手に入れるまでは制御できなくて、魔法を消したり、寝込んだりしてたって聞いてる」
「魔法を消したり、寝込んだり……」
リンが言葉を繰り返して、黙った。
「ただ、これ」
アルティは、自分の胸元を指した。見えないそこには、まだ鎖を直していないペンダントが入っていた。
「このペンダントをすれば、その体質を抑えられることがわかったんだよね。貰い物で、理屈はわかってないんだけど」
「……」
リンは黙ってなにかを考えているようだったが、何を考えているかはわからなかった。
「で、エルディンが……魔術審問院の上司がその体質をかってくれて、審問官になったんだよね。ただ、私、魔法使いじゃないし、理論もまだよくわかってなくて——だから、仕事中は一人では行動してないの。他の審問官とペアになって動いてるんだよね」
「ああ……」
リンが声を漏らした。
「やっと腑に落ちました。その、あまりにあなたが審問官というのが……」
「半人前、ってことでしょ?」
「半人前というか、仕事を遂行するのに支障が出そうな魔法の知識だな、と……」
言ってから、言いすぎたなと思ったのか、リンが口を閉じた。アルティは苦笑した。事実だ。
「ちょっと今事情があって、組む相手がいないもんだから、一人で動いてたの。まあ、あくまでも盗品を追うだけの予定だったから、私だけでも大丈夫の予定だったんだよね……」
ぽんぽん、と傍に置いた短剣を叩いてみせた。なるほど、普通の冒険者がするような仕事であれば、アルティ一人で問題なかったのだろう、とリンは思った。そう、彼女の腕であれば。
「だけど結局、私一人では不完全で——」
アルティの手が知らず、握られていた。指の関節が白くなっていた。
「私一人じゃ、セドリックに辿り着いても、止めることはできなかったと思う。だから」
アルティは、リンをまっすぐに見た。
「ありがとう」
アルティの言葉に、リンは少なからず驚きの色を見せた。
「いや……いえ、感謝されていい身分では」
「……感謝はするけど、リンがやったことには怒ってるよ」
「はい……」
アルティの声色が変わり、リンはしゅんと肩を落とした。
そう、怒っているのだ。
とても、怒っているはずなのだ。
「じゃあ次は私から」
「どうぞ」
「どうぞって言って大丈夫?」
「——そうですね。答えられることと、答えられないことがありますね」
リンの座った椅子が、きぃ、と軋んだ音を立てた。
「……聞きたいことはいくつかあるんだけど、多分、その答えられないことな気がするんだよね」
「それは、聞いてもらえないことにはなんとも」
リンは肩をすくめた。
ただ、とアルティは思った。ただ、その質問をしたら、もう全てが「おしまい」になる気がしていた。
だから……
「質問をするのは、やめておくことにする」




