第10章 小さくて、大きな嘘④
アルティが出て行った後、寝室には静寂が訪れた。
セドリックと、リンと、机の上の白い灰。
ベッドからは弟の寝息が聞こえている。規則正しい、穏やかな音だった。
セドリックは椅子に座ったまま、自分の縛られた手を見ていた。時折、机の上の灰を見て、ベッドの方には、目をやらなかった。
沈黙が長く続いた。
「あなたにお願いがあります」
唐突に、リンが口を開いた。壁に背をつけたまま。
セドリックはゆっくりと、そちらに顔を向け、リンがなにか言う前に、口を開いた。
「——灰にした人間のことは、言いません。言ってほしくないでしょう」
セドリックの言葉に、リンは少し驚いた顔をした。
「ありがとうございます。——いえ、それは、まあどちらでも……。アルティさんと関係ない人間が、アルティさんとは関係のないところでやったことだけ話してもらえたらいいです」
セドリックは、ゆっくりと首を横に振った。
「いえ、言いません。あなたが誰かは知りません。だけど、あなたがいなければ、わたしは、ただ後悔したままここにいたでしょうから——ご教示いただき、ありがとうございました」
セドリックは、座ったまま深く頭を下げた。研究者としての、最後の矜持だったのかもしれない。
リンは、セドリックが頭を上げるのを待って、口を開いた。
「——僕が頼みたかったのは、僕のことの口止めではなく、あなたの証言です」
「証言?」
「弟を助けたかったのだと、動機は、行動原理はただそれだけだったと、それを証言してください」
「……?」
セドリックは、眉を寄せた。
「……一体、そう言うことで、誰に、メリットが? わたしは」
「あなたが」
リンは、声でセドリックの言葉を止めた。
「あなたが、最後の最後に弟さんに魔法を使おうとした時。ただ、助けたかっただけなのか、そうではないのか——そこに僕の興味はありません」
リンの言葉に、セドリックは小さく息を呑んで、視線を下に落とした。
「そこになんの動機があったのか、感情があったのか、それを正直に話すと、傷つく人がいます。あなたを裁かなかった人間の判断を、あなたの証言で覆させないでください」
リンの声は穏やかだった。
だが、その穏やかさの下に、有無を言わせないものがあった。
単純な助言ではないと、静かに告げている声だった。
セドリックが顔をあげると、リンは窓の方を見ていた。
厚いカーテンの隙間から差し込む光が、金の髪を透かしている。
この男が何者なのか、セドリックにはわからなかった。
あの魔法陣を一目で理解し、断章を迷いなく焼いた男。
自分が何年もかけて辿り着けなかった理論の欠陥を、一瞬で見抜いた男。
何者なのか。わからなかった。
だが、この男が言っていることの意味は、わかった。
あの小柄な少女——審問官が、今この場で自分を裁かなかった。
その判断を、汚すなと言っている。
セドリックは目を伏せた。
弟を助けたかった。それは、本当だった。
助けたい、もう一度目を開いて欲しい。
もう何年も、何年も願い続けた。
弟の命を繋ぎ止めるためには、多額のお金が必要だった。働いて、働いて、働いた。
寝に帰るだけの家は、汚れる暇すらなかった。
研究を重ね、失敗した。
疲れ果て、そして自分を信頼してくれた友人の命を犠牲にして、その先にあったのはなんだっただろうか。
今朝、馬車に揺れながら、そこに眠る弟を見ながら、自分が求めていたもの。
それは、弟の命だったのか、それとも、終焉だったのか。
自分でも、もうわからなかった。
その時、静かな寝息が、セドリックの耳に入った。
穏やかな、規則正しい、もうずっとずっと聴いてきた寝息。
それから、あの審問官の目を思い出した。
印章を出す前に、一瞬だけ迷った目を。
迷いながら、それでも自分を見ていた目を。
なんの縁もない、審問官の少女。
セドリックは、短く返事をした。
リンは窓から視線を戻した。
それ以上は何も言わなかった。
アルティが戻った時、リンは壁にもたれて、目をつぶっていた。
セドリックも椅子に、元の姿勢で座っていた。
何も変わった様子はなかった。
二人の間に何があったのか、それとも何もなかったのか、アルティには読み取れなかっ
ここからは、実務だった。
白猫——エルディンの指示に従って、引き渡しの段取りを整えた。
王都の魔術審問院から、転送ゲートを使って護送の役人が来る。馬車が手配される。馬車が来るまでの間、セドリックはこの家に留めておき、家は最終的に審問院の管理になる。
しかし、それだけではなかった。
「なるほど、王宮に頼むのは、よい手段ですね」
「一番の証言者でもあるから、無碍にはできないんじゃないのって思ってね。なにかやれることもあるかもしれないし」
白猫に頼んだ「お願い」は、それだった。
セドリックの弟を、王都の王宮付属治療院に移してほしい。エルディンの権限があれば、手配ができるはずだった。
セドリックの口から、引き出さなくてはならない証言が、少なからずある。それらの証言を引き出す見返りとして、弟の処遇を保障する。
そう、エルディンに伝えた。
エルディンは、その場で処罰しなかったことを責めなかった。処罰しなかったことで様々な「余計なこと」が生まれたことにも、苦言を呈さなかった。
ただ、
「ペンダントを取って対応しなければならんような相手のところに踏み込む前に、私に連絡を取れ」
と、その点にだけ、文句を言った。アルティは、
「気をつけるね」
と、白猫の首筋を撫でながら、答えた。
セドリックは、少しだけ、唇を震わせた。
もう、ずっと二人きりと思っていた。
弟と自分、流れる時間の中で、ずっと二人閉じ込められていた。
そうではなかった。
地下室から出た外には、光があったのかもしれない。
セドリックは、アルティを見、それからリンを見、もう一度アルティを見てから、深々と頭を下げた。
昼過ぎに、馬車が通りに止まった。翼を広げた鳥の紋章が、馬車の脇に金で押されている。元職人街には、明らかに不釣り合いな馬車だった。
役人が二人、馬車から降りた。
セドリックは、促されるままに、馬車に乗り込んだ。
乗り込む前に、一度だけ、寝室の窓を振り返った。
その向こうにあるなにかを見ようとして。
それから、馬車に乗り、扉が閉じられた。
馬車が、ゆっくりと動き出した。
車輪が石畳を踏む音が、通りに響いた。
馬車が通りの角を曲がって、見えなくなった。
それが、二人が見たセドリックの最後の姿だった。
治療院から人が来て、弟を引き取っていった。
担架に載せられた青年の顔は穏やかだった。
十年間ずっとそうだったように、何も知らずに眠っていた。
それが良いことなのか、それとも悪いことなのか、アルティにはわからなかった。
アルティはセドリックの家の扉に鍵をかけ、エルディンの指示で、馬車の御者に鍵を渡した。
弟が乗せられた馬車が、通りの先へ、消えていった。
それで、全部終わりだった。
通りに、二人が残った。
日が高くなり、古い漆喰の壁に光が当たっている。どこか遠くで、子供の声がした。
2人とも、何も言わなかった。




