第10章 小さくて、大きな嘘③
アルティは表の通りに出た。太陽の光が差し込んで、思わず目をつぶった。
あんなに長いことあの家にいたと思ったのに、世界はまだ朝だった。
人通りは多くなかった。元職人街の静けさが、今はありがたかった。
家の脇の、隣家との間の狭い隙間に身を寄せた。壁にもたれて、目を閉じた。
深く息を吐いた。もう一度。
たくさんのことがありすぎた。それでも、仕事は終わらせなくてはいけない。
腰の道具入れに手を入れると、冷たい金属片が触れた。審問官の印章だ。
周囲に見えないよう、両手に包み込み込むよう持ち上げた。口元に近づけ、小さく呟いた。決まった言葉を。
それだけだった。金属片は何の反応も示さない。
この合図がエルディンに届いているのかどうか、アルティには確かめる術がない。届いていると信じて、待つだけだ。
壁にもたれたまま、空を見上げた。
狭い隙間から見える空は、嘘みたいに青かった。
不意に、白い猫が、路地の向こうから現れた。
音もなく石畳を歩き、アルティの足元に来て座った。汚れのない、光り輝くような白い毛並み。
「ちょっと——早すぎない?」
白猫は、アルティの脚に擦り寄った。
「お前の位置が掴めなくなったからな。——ペンダントを外したんだろう。なにかあったと思って準備していたんだ」
猫から聞こえてきたのは、低い男の声だった。
「ああ……」
ほとんどのことは、この男にはお見通しなのかもしれない。
それでも、ここにはいない。いなくてよかった。いたら、もっとたくさんのことがわかってしまっただろうから。
「報告があります」
報告は手短に済ませた。事実だけを並べた。
断章を追って鑑定士セドリックに辿り着いたこと。
セドリックが再生の魔法を研究していたこと。
そして、断章を手に入れ——故買屋のテディの死はセドリックの実験の失敗によるものであること。
事故で寝たきりの弟に断章の魔法を使おうとして、アルティがペンダントを外して止めたこと。
セドリックを拘束したこと。
「それから——」
最後に、言わなければならないことが残っていた。
「断章は——」
一瞬、間が空いた。
白猫の透き通った青い目が、じっとこちらを見ていた。
喉が渇いて、一度唾をごくん、と飲んだ。
「到着した時には、すでに失われていました」
嘘だ。
それは嘘だった。
言えばよかったのだ。
そこにいた魔法使いが、灰にしたのだと。
確かにそこにあった断章を。
少しの間があった。
「——見つからなかったのではなく、失われていた?」
「はい——灰に」
「誰が?」
「……わかりません」
「そうか」
そう答えたきり、白猫は黙った。
しばしの沈黙。
それから、改めて口を開いた。
「——わたしもやられたことがある」
「え?」
「最初の仕事の時だ。ほら、お前を——保護した時。あの時、あるはずの七賢者の書がなかった。灰の山だけが残されていた」
「……」
初耳だった。それはアルティが5歳の頃で、当時のことはほとんど覚えていない。
記憶の片隅に、ぼんやりと——光を見た気がするが、それがなにかも思い出せない。
「前にも話したと思うが、わたしが生まれるよりももっと前から、そういった事は続いている。誰かはわからんが、その『賊』は、多分手練なんだろう。一人でもないと思っている」
「……」
「だから、気に病むな。元より——管理し損ねた審問院の失態だ。アルティ、お前の落ち度ではない」
そう答えたきり、白猫はそれ以上何も言わなかった。
「まあ、一人にしては十分よくやった。気に病むな。元より——管理し損ねた審問院の失態だ。アルティ、お前の落ち度ではない」
エルディンの言葉が、胸に刺さった。信頼してくれている人間に嘘をついた。
上司でもあり、恩人でもあり、友人でもあり、一番親しかったその人に。
「ごめんなさい」
「いい、謝るな」
そう言ってくれる、その人に。
今からでも本当のことを言おうか——
言った方がいい。
いや、言えない。
とても言えなかった。
リンを庇ったのか。自分の失敗を隠したのか。
わからなかった。
ただ、今ここでリンの名前を出す気にはなれなかった。
それだけが、はっきりしていた。
「一つだけお願いがあります」
「お願い?」
白猫が怪訝そうな声をだした。
「はい。これはお願いです」




