第10章 小さくて、大きな嘘②
居間の隅に置かれた布をどかし、地下室への扉を開けた。石積みの狭い階段が下に続いている。
降りた先には、小さな魔法の灯りが、まだ四つともっていた。あの時のままだ。
棚に並んだ記録帳も作業台も。たくさんの命を使った実験の、そして失敗の記録の、墓標だ。
作業台の上に、革の書類袋が置かれていた。
アルティは袋を開けた。
古い紙の束。形は少し不揃いだ。片側に綴じられた跡が見える。
黄ばんだ少し硬い紙には、細かい文字がびっしりと並んでいた。一枚、二枚……十三枚。図や記号も書かれていたが、アルティには内容は全くわからなかった。古い言葉なのか、それとも読めない仕掛けでもあるのか、その両方かもしれない。
古いものだとは思う。だが、とても、千年……いや、数千年前のものとは思えなかった。インクで書かれた文字は、掠れてもおらず、色褪せてもいない。紙もしっかりしたものだ。
七賢者の書の断章。これ自体、魔法がかかっているのかもしれない。
最後の紙に、大きく見覚えのある紋章が押されていた。王家の鳥。その下に「禁帯出」の文字。
間違いなく、アルティが十日以上探し続けたものだった。
こんな引きちぎられた、たった十枚ちょっとの紙に、一体どれだけの人が振り回されてきたのだろう。
そして、そんなものがまだ無数にあるのかと思うと、アルティの背筋が少し寒くなった。
アルティは紙の束を書類袋に戻し、階段を上がった。
居間から寝室に戻ると、リンは壁に背をもたれて立っていた。セドリックは椅子で座ったまま、動いていなかった。
アルティは机の上に書類袋を置いた。口を開け、セドリックに向ける。中の紙束がそこからは見えた。
「これで間違いない?」
セドリックはゆっくりと顔を上げると、うつろな瞳のまま、頷いた。
アルティは、大きく息をついた。
これで、長くかかった今回の仕事は終わりだ。
リンが、壁から離れた。
その影が机に伸びる。
小さく息を吸う音を、アルティは聞いた。
リンの手が古い紙の束に伸びた。
長い指が、古い紙の端に触れた。
アルティは口を開きかけた。
その瞬間。
リンが紙束を掴み上げた。
短い詠唱。一言か二言。聞き取れないほど短かった。
アルティが言葉を発する隙もなかった。
リンの手の中で、
紙が燃えた。
いや、炎ではなかった。
紙の端から光が走り、一瞬で白い灰になった。
音もなかった。
リンの指の間から、白い粉が、さらさらと机の上にこぼれ落ちた。
アルティの咄嗟に伸ばした手が宙に浮いていた。止めようとした手が、何もないところで止まっていた。
灰が机の上に薄く広がっている。
王家の印章も、
禁帯出の文字も、
何千年も前の賢者たちの叡智も、
もうそこにはなかった。
止まった指先に、白いものが付いていた。
——灰だ。
人差し指と親指で、のろのろと擦った。
細かく、白い粉は、そっと薄れて消えた。
口を開いたが、声が出なかった。
だから、唾を飲んで、大きく息を吸って、吐いた。
「——なんで」
やっと出た声は、掠れていた。
その声を聞いて、やっと、自分が怒っていることに気づいた。
「なんで、こんなことを——!」
アルティの鳶色の瞳が、リンを射抜いた。
リンは、手にまとわりついた細かい灰を、無造作にはたき落としながら、アルティに視線を向けた。
「アルティさんも見たでしょう。ここにあるのは——ここにあったのは、誤った知識です。今の人の手に余る、誤った知識だ」
翡翠の瞳は、ただ、静かにアルティを見ていた。
頭の中で、ぐるぐると何かが回った。気持ち悪い。
「そうだとしても、それを決めるのはあなたじゃない!」
気持ち悪いまま、叩きつけるように叫んだ。
リンは、その言葉に、一瞬顔を顰めたように見えた。それから一度アルティから目を逸らし、それから、またアルティを真っ直ぐに見た。
「じゃあ、誰が決めますか。危険なものを危険なものとも見分けられず、ただ蔵書にした挙句に泥棒に盗られた王家の魔術府? 魔法を魔法使いのものと勝手に決めて、魔法使い以外の人が魔法の知識に触れないようにしながら私腹をこやしている協会?」
「それは……」
いつもより早口で、いつもより穏やかではなく、いつもより少しだけ声が高く、いつもより少しだけ、悲しそうに。
そんなリンの言葉に、アルティは答えられなかった。
「誰が決めますか。今そこに、犠牲者が出ようとした知識を、誰が」
リンが、ベッドの上を指差した。
静かな寝息を立てている、一人の青年を。
リンの声は静かだった。
ただ、そこに、静かな怒りを見た。
アルティは、次の言葉を探していた。
「だけど、それはあなたが決めていいものじゃない」
とアルティは反論しようとしたのだ。
けれど、その言葉を音にすることができなかった。
わからなかった。
リンは確かに、審問官である自分よりも魔法の知識があり、そして、セドリックが取り返しのつかない事を起こすのを防いだ。
事前に、危険を察知して。
成功しても失敗しても、無事では済まないと、そしてそこにアルティを巻き込まないように動いていた。
リンが正しいとは決して思わない。思えない。
けれど、アルティには、そんなリンを非難するだけの十分な材料を持ち合わせていなかった。
「ただ——」
リンの声に、アルティは顔をあげた。
「……アルティさんの仕事が、これの回収と知っていながら、相談もなく灰にしたこと。その一点については、謝ります。ごめんなさい」
静かに、リンが頭を下げた。
長身の体を、ゆっくりと折り。
金の髪が、肩からゆらりと落ちた。
アルティは、それを、どうすることもできなかった。
信頼していた。
少なくとも、信頼し始めていた。
断章を一緒に探し、必要な知識をくれ、セドリックの家に走った。
目の前で魔法を消しても、審問官だと明かしても、怒らなかった。逃げなかった。
アルティは、机の上の灰を見下ろした。
その同じ人間が、自分の仕事を、灰にした。
今自分の心の中にあるものがなんなのか、アルティにはわからなかった。
多分、リンへの怒りではなかった。
リンが間違っているとは、思えなかった。そう思えなかった自分に、一番腹が立っていた。
ただ——一つだけ、気になったことがある。
さっき断章を灰にしたあの瞬間——
リンの手には
杖がなかった。
「——あとから、話をさせて。私は、報告しないといけない」
その言葉を言うのが精一杯だった。
「逃げないで」
「逃げませんよ」
リンは頷き、静かに寝室の壁に背をもたれさせた。そっと目を閉じて、腕を組んだ。
セドリックは黙って、全てを見ていた。
自分が何年もかけて追い求めた理論が、目の前で一瞬で消えた。
ただの、白い塊になった。
だが、その目には何の感情も浮かんでいなかった。
もう、何かを感じる余力が残っていないように見えた。




