第9章 俺で試せ④
リンが壁から背を離した。
セドリックの話が途切れた後の沈黙に、自然に入り込むように。
「邪魔をしてもしなくても、どちらにしろ、あの魔法ではうまくいきませんでした」
セドリックが、のろのろとリンの方に顔を向けた。
「あの魔法陣も……術式も、全部、七賢者の書を元にしたでしょう」
「あれには、わたしが何度実験してもうまくいかなかった理論の頂点があった。あれなら……」
リンは遮るように首を振った。
「いえ、残念ですが、頂点などではない。間違えているんです。あれは——あれは再生を促す魔法ですが……かけられた本人の精神体を消費して再生を行う魔法です。『ルバートの制御』を知っているでしょう、あれがあるから、現代の魔法では術者の精神体を命の危険があるまでは消費しないようにできている。あの制限がなければ、魔法の威力は増すでしょうが……危険になります」
アルティにはリンがなにを言っているのか意味がわからなかった。だが、セドリックは静かに聞いている。
「あの七賢者の書に書かれている術式は——古いのでわからなかったのだと思いますが、『ルバートの制御』が入っていない。しかも、精神体を消費するのは術者ではないんです。再生の魔法をかけられた、本人の精神体です。制限なく消費するから、再生の威力は強い。だが——」
「——精神体を使い果たすまで再生し、そして……」
リンの言葉を継ぐようにセドリックが声を絞り出し、「そして」の先の言葉は続かなかった。
セドリックの顔から、最後の色が抜けた。
がらんどうだった目に、もっと深い暗さが落ちた。空っぽの部屋の底が抜けたような——そういう暗さだった。
アルティはリンの言葉を聞きながら、自分の理解が追いつかないことを承知していた。精神体の理論も、再生魔法の構造も、アルティにはわからない。ただ、リンの声に揺らぎがないことだけは、わかった。
これまでの説明と合わせて考えると、精神体を使い果たした人間は——死ぬのだろう。
再生のために本人の精神体を使い、そして、使い果たして、死ぬ。
あの魔法は、再生の名を借りた、死の魔法だった。
リンがなぜ、そこまでのことを語れるのか、ここまで断言ができるのか、アルティにはわからなかった。だが、今はそれを追う時ではなかった。
セドリックの手が、弟の手を離れた。自分から離したのではなかった。力が抜けたのだ。
寝台の上の弟は、何も知らずに眠っている。穏やかな寝息を立てている。もうずっと、この顔で、この息で、ここにいたのだ。
*
夕方の光の中、赤い扉を叩くと、中から「開いてるよ」と声がした。
いつもの声だった。少しかすれた、低い声。
扉を開けると、テディは奥の椅子に座って、何かの金具を磨いていた。片手なのに器用だ、もうずっとこうなのだろう、
セドリックの顔を見て、テディは目を上げた。
「おう。珍しいな、こんな時間に」
「少し——話があって」
「どうした、震えてるぞ」
テディは金具を置いた。セドリックの顔を見て、何かを察したようだった。
「まあ座れよ。茶でも入れるか」
「いえ、いい。——これを」
抱きしめるように抱えてきた鞄を開けた。
少し震える指で革の書類袋を取り出し、テーブルの上に置いた。
「先日、預けてくれた古文書」
「ああ、あれか。どうだった?」
「あれは——」
セドリックは唾を飲んだ。
「テディ。あれは本物だった」
テディの目が変わった。椅子の背にもたれていた体が、前に傾いた。
「本物って——七賢者の、か?」
テディが声を落とした。店内には誰もいないのに、誰かに聞かれては困る、と言いたげに。
「多分。いや——間違いない。王家の印章がついてる。中身も確認した。本物だ」
セドリックは書類袋を開けた。古い紙の束。黄ばんだ紙に細かい文字。
テディは身を乗り出して覗き込んだが、全く読めなかった。古い言葉で、かつ、魔法の理論だ。
「それだけじゃない」
セドリックの声が、自分でも驚くほど熱を帯びていた。
セドリックには、七賢者の書であることは、どうでもよかった。
「書かれている内容が——テディ、わたしがずっと研究していたものと同じなんだ」
「同じ?」
「再生だよ。ああ……その、あまり、人には言えない研究なのだけど……失われたものを元に戻す魔法だ。わたしが何年もかかって辿り着けなかった理論が、書かれているんだ。ここに」
テーブルに置かれた手が震えていた。
テディはセドリックの顔を見ていた。
「一旦、落ち着けよ」
「落ち着いてる」
「落ち着いてねえよ。手ぇ震えてるじゃねえか……」
テディはセドリックを椅子に座らせると、棚から瓶を取り出して、二つのカップに注いだ。
片手で。慣れた動作だった。
安い蒸留酒の匂いがした。
「飲め」
「酒は——」
「いいから」
渋い顔をしながら一口飲んだ。喉が焼けた。
だが、手の震えが少し収まった。
「それで——その、再生の研究ってのは、つまり、あれか」
テディも自分のカップを傾けながら言った。
「弟のためか」
「……うん」
「それで、俺にはわかんねえんだけどな、うまくいきそうなのか」
「それは——わからない。でも——今までうまくいかなかったことが、多分これがあれば……」
セドリックは紙の束を指で押さえた。何かの本からちぎられたような断章だ。薄い、紙の束だ。
そこに、希望の光が灯っている。
「ただ——理論だけじゃ足りない。試さないと、わからないことがある」
セドリックは目を伏せた。
試す。動物で、ずっと試してきた。
記録帳に「失敗」と書き続けてきた。
鼠。兎。猫。全部、失敗した。
この術式であれば、結果は変わるはずだ。理屈は合っている。
だが、動物で成功したとしても、人間は違う。
最終的には——人間で試さなければ——
テディは黙ってセドリックの顔を見ていた。カップの酒の残りを一息で空けた。
カップをテーブルに置く音が、静かな店に響いた。
テディは自分の左手を見た。
何年も前に失ったものだ。
「なあ、セドリック」
「うん」
「お前が弟のことで、ずっと頑張ってたのを、俺は知ってる」
「……うん」
テディは、テーブルを指で数回突き、それから、セドリックの目をまっすぐに見た。
「俺で試せ」
セドリックの思考が止まった。
「——え?」
「人間で試さなきゃわからねえんだろ。俺で試せよ」
「何を——」
「これだよ」
テディが右手で、手先のない左の手首を叩いた。
「こいつを生やしてみろよ。できるんだろ、再生ってのは」
「待ってくれ、そんな——」
「いいか」
テディの声が変わった。いつもの気だるい調子ではなかった。
低く、静かで、真剣だった。
「お前がこれまでやってきたことは詳しく知らねえ。けど、何年も付き合ってきたんだ。お前が弟さんのことでずっと、ずっと身をすり減らしてきたのを俺は知ってるよ。毎日毎日」
「テディ——」
「うまくいきゃあ、弟さん、目を覚ますんだろ。けど、あれだ、頭の中の話だろ。いきなり弟さんで試すわけにもいかねえだろうし」
図星だった。なんのために実験してきたか——それは、弟に直接使うことが、弟で実験するわけには、いかなかったからだ。
「腕一本だ。頭に比べりゃちっせえもんだろ。生えりゃ儲けもんだ」
「そんな簡単に——」
「そうだな、簡単じゃねえな」
テディが笑った。だが、目は笑っていなかった。
「俺には家族もいない。なんかあっても困るやつはいねえよ。それにさ、ちっぽけな手だけどな、ないと不便なんだぜ。生えたらラッキーだろ。あった方が、いいに決まってる。——弟さんだって、同じだろ」
セドリックはテディの顔を見ていた。
赤ら顔の、無骨な、いつも気だるそうに椅子にもたれて、たまに茶を飲んでどうでもいい話をするこの男の——
ぽたり。
セドリックの目から、涙がこぼれた。
テディは、バカだなあと言って、目を赤くした。
*
アルティは立ち上がった。
膝が少し痛んだ。しゃがみ込んでいた時間は、思ったより長かったらしい。
腰の道具入れに手を入れた。
指先が、金属の輪郭に触れた。冷たいな、と思った。いつ触っても、冷たい。
迷いがなかったと言えば嘘になる。
この男の話を聞いた。弟のことを聞いた。何年もの失敗の記録を見た。あの絵を、見た。
気持ちはわかる。理解もできる。自分がその立場になれば、そうしたかもしれない。
だが。
アルティは金属片を取り出し、セドリックに差し出した。
王家の鳥。それを打ち消すように、杖が×印に交差している。一見すると不敬にすら見える意匠。
セドリックの目が、その紋章を見た。
彼は鑑定士だ。いろいろな紋章を見てきた。紋章の意味は、多分誰よりも知っている。
顔色が変わった——いや、もうこれ以上変わりようがないほど蒼白だった顔が、それでもなお、一段、深く沈んだ。
その紋章が何を意味するか、わかる人間には一目でわかるのだ。
「魔術審問官……」
掠れた声が、セドリックの口から出た。
背後で、リンの息を呑む音が聞こえた。
ああ、本当は知られたくなかったな。そう思った。
今は振り返らない。
まだもう少しだけ。
アルティは、印章を掲げたまま、短い言葉を言った。
定型の文言だ。何度か口にしたことがある。だが、今日ほど重く感じたことはなかった。
「あなたを拘束します」
拘束する、とだけ、言った。
処断する、とは言わなかった。
セドリックは黙って頷いた。抵抗する気力は残っていなかっただろう——いや、残っていたとしても、しなかっただろう。きっと、そういう人間なのだと、アルティは思った。




