第9章 俺で試せ③
アルティは、振り返らなかった。
リンが戸口に立っていることはわかっていた。
振り返れなかった。
コツ、コツという足音。リンはアルティの横を通り過ぎて、寝台の弟に手を伸ばした。首筋に。それから顔に手を翳した。
「——生きてますね。途中で止まったので……助かったんでしょう」
穏やかな、低い、落ち着いた声だった。アルティには、そう聞こえた。
足先で、ざっざっと、床を掻く仕草をした。床の白線が、歪み、掠れ、消えた。
「魔法陣も、こうなってはただの落書きですね」
「……もう大丈夫?」
「ええ。もう、これは動きません」
「よかった」
返事をしたが、アルティはリンの顔を見ることができなかった。どんな顔をしてるか、知るのが怖かった。
リンが、床に転がっていた、涙型の小さな翠色の石を拾い上げた。白く、長い指で。
千切れた鎖がぶら下がったままの石を一瞥し、眉を僅かに寄せた。親指と人差し指でつまむ。翠色の石は、外の光を受けて鈍く光った。
この石、どこかで——
「返して」
アルティの小さな低い声に、リンは我に帰った。
セドリックの方を向いたまま、こちらを見ようとしないアルティの手を取った。
「どうぞ」
リンは冷たいアルティの手を開くと、石と鎖を置き、優しく包むように握らせた。
「杖をもらいましょうか」
促されて、リンの手にセドリックの杖を渡す。
まだ、リンの顔を見れないでいると、リンがアルティの亜麻色の髪をくしゃりと掴んだ。
その手が震えていた。
「あなたを、殺したかと思いました」
顔を上げると、リンの目が、少しだけ怒りを湛えていた。その怒りが、リンの魔法の前に飛び出したこと——自分を危険に晒したことへの怒りだと思い、それから、そんな都合のいいことを考えた自分に驚いた。
「ごめんね」
アルティは、頭で考える前にそう言った。
リンは首を横に振り、少しだけ口元を緩めた。
リンはセドリックに杖を向けたが、セドリックは、床に崩れ落ちたまま動かなかった。
鎖はちぎれていた。アルティは少し悩んだ後、鎖ごと石を短衣の胸元に押し込んだ。肌に冷たい石が触れた。
キチ、という、なにかが軋むような音。それから、なんとも形容し難い——体の奥で何かが閉じるような感覚。いつもの感覚だった。
部屋は、ずっと静寂に包まれていた。
厚いカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
しばらく、誰も動かなかった。
ガラガラガラという音が遠くで響いていた。荷車が石畳の上を走っているのだろう。船に積むための荷でも運んでいるのだろうか。
朝だった。まだ朝なのだ。世界はいつも通りに回っているのに、この部屋の中だけが時が止まっているようだった。
「さて」
リンが、ぱん、と手を叩いた。
「用事を片付けていきましょうか。一つずつ。まず、アルティさんからどうぞ」
まず、という言葉を聞き返そうと思ったが、どうでもいいことだ。アルティは首を小さく振った。
「どこから——話せばいいのかな」
「時間はあるので、思いつくところからでいいんじゃないですか」
「——あのね、セドリックさん。私は……話をしにきたの。戦いに来たわけじゃなくて……」
セドリックの目がこちらを向いた。据わった目ではなかった。先ほどの暗い、うつろな目でもなかった。もっと——空っぽだった。何もかもが終わった後の、がらんどうの目をしていた。
「止めに来たの。取り返しのつかないことに、なる前に」
セドリックの目が揺れた。
「話してくれないかな、なにがあったのか」
アルティは急かさなかった。
セドリックが自分から話し始めるのを、待った。
セドリックはしばらく黙っていたが、ようやく、口を開いた。
「——何を、どこから話せばいいか……」
「私は王宮からの探し物をしていて、それが、テディ……エルクさんの手元にあると聞いてここまで来たのだけど、その先がわからなくてあなたのところに向ったの」
「……テディからは、書物を預かっています」
「そっか。——それは今、どこにある?」
セドリックは無言で、ゆっくりと腕をあげ、遠くを指差した。その指の先には、布で隠された地下室があった。
「実験室?」
「……ああ……じゃあ、昨日鍵が開いていたのは、あなた方だったんですね」
声は低く、平坦だった。感情を削ぎ落としたのではなく、感情を載せる力が残っていない声だった。
「ごめんね。全部見たと思う」
「そうですか……」
その後、セドリックは、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
アルティたちが来た後に協会の調査が入ったこと。明後日には自分が呼ばれること。地下室を調べられたら、全てが終わること。弟のこと。
話はあまりまとまっておらず、とてもわかりにくかった。
しかし、アルティは黙って聞いていた。口を挟まなかった。セドリックの言葉の間にある沈黙の方が、言葉よりも多くを語っていた。
リンは壁に背を預けて立っていた。腕を組み、目を閉じている。聞いていないように見えるが、一言も聞き漏らしていないだろう。
「あなた方が何者かは知りません。見逃してほしいとも思っていません。でも——」
そこで言葉を区切ってから、ぽつり、と言った。
「邪魔だけは、しないでほしかった」
一つ一つの言葉が、乾いた砂のように落ちていった。
「わたしが捕まれば、この子ももう——」
その先の言葉はなかった。言う必要はなかった。
あてもない治療と看病を続けるのには、少なくない労力とお金が必要だ。セドリックが捕まれば、その先にあるのは……。




