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七賢者の涙  作者: 相川晴(HAL)
第一部
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第9章 俺で試せ③

 アルティは、振り返らなかった。

 リンが戸口に立っていることはわかっていた。

 振り返れなかった。


 コツ、コツという足音。リンはアルティの横を通り過ぎて、寝台の弟に手を伸ばした。首筋に。それから顔に手を翳した。


「——生きてますね。途中で止まったので……助かったんでしょう」


 穏やかな、低い、落ち着いた声だった。アルティには、そう聞こえた。

 足先で、ざっざっと、床を掻く仕草をした。床の白線が、歪み、掠れ、消えた。


「魔法陣も、こうなってはただの落書きですね」

「……もう大丈夫?」

「ええ。もう、これは動きません」

「よかった」


 返事をしたが、アルティはリンの顔を見ることができなかった。どんな顔をしてるか、知るのが怖かった。

 リンが、床に転がっていた、涙型の小さな翠色の石を拾い上げた。白く、長い指で。

 千切れた鎖がぶら下がったままの石を一瞥し、眉を僅かに寄せた。親指と人差し指でつまむ。翠色の石は、外の光を受けて鈍く光った。


 この石、どこかで——


 「返して」


 アルティの小さな低い声に、リンは我に帰った。

 セドリックの方を向いたまま、こちらを見ようとしないアルティの手を取った。


「どうぞ」


 リンは冷たいアルティの手を開くと、石と鎖を置き、優しく包むように握らせた。


「杖をもらいましょうか」


 促されて、リンの手にセドリックの杖を渡す。

 まだ、リンの顔を見れないでいると、リンがアルティの亜麻色の髪をくしゃりと掴んだ。

 その手が震えていた。


「あなたを、殺したかと思いました」


 顔を上げると、リンの目が、少しだけ怒りを湛えていた。その怒りが、リンの魔法の前に飛び出したこと——自分を危険に晒したことへの怒りだと思い、それから、そんな都合のいいことを考えた自分に驚いた。


「ごめんね」


 アルティは、頭で考える前にそう言った。

 リンは首を横に振り、少しだけ口元を緩めた。

 リンはセドリックに杖を向けたが、セドリックは、床に崩れ落ちたまま動かなかった。


 鎖はちぎれていた。アルティは少し悩んだ後、鎖ごと石を短衣の胸元に押し込んだ。肌に冷たい石が触れた。

 キチ、という、なにかが軋むような音。それから、なんとも形容し難い——体の奥で何かが閉じるような感覚。いつもの感覚だった。


 部屋は、ずっと静寂に包まれていた。

 厚いカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。



 しばらく、誰も動かなかった。

 ガラガラガラという音が遠くで響いていた。荷車が石畳の上を走っているのだろう。船に積むための荷でも運んでいるのだろうか。

 朝だった。まだ朝なのだ。世界はいつも通りに回っているのに、この部屋の中だけが時が止まっているようだった。


「さて」


 リンが、ぱん、と手を叩いた。


「用事を片付けていきましょうか。一つずつ。まず、アルティさんからどうぞ」


 まず、という言葉を聞き返そうと思ったが、どうでもいいことだ。アルティは首を小さく振った。


「どこから——話せばいいのかな」

「時間はあるので、思いつくところからでいいんじゃないですか」

「——あのね、セドリックさん。私は……話をしにきたの。戦いに来たわけじゃなくて……」


 セドリックの目がこちらを向いた。据わった目ではなかった。先ほどの暗い、うつろな目でもなかった。もっと——空っぽだった。何もかもが終わった後の、がらんどうの目をしていた。


「止めに来たの。取り返しのつかないことに、なる前に」


 セドリックの目が揺れた。


「話してくれないかな、なにがあったのか」


 アルティは急かさなかった。

 セドリックが自分から話し始めるのを、待った。



 セドリックはしばらく黙っていたが、ようやく、口を開いた。


「——何を、どこから話せばいいか……」

「私は王宮からの探し物をしていて、それが、テディ……エルクさんの手元にあると聞いてここまで来たのだけど、その先がわからなくてあなたのところに向ったの」

「……テディからは、書物を預かっています」

「そっか。——それは今、どこにある?」


 セドリックは無言で、ゆっくりと腕をあげ、遠くを指差した。その指の先には、布で隠された地下室があった。


「実験室?」

「……ああ……じゃあ、昨日鍵が開いていたのは、あなた方だったんですね」


 声は低く、平坦だった。感情を削ぎ落としたのではなく、感情を載せる力が残っていない声だった。


「ごめんね。全部見たと思う」

「そうですか……」


 その後、セドリックは、ぽつり、ぽつりと話し始めた。

 アルティたちが来た後に協会の調査が入ったこと。明後日には自分が呼ばれること。地下室を調べられたら、全てが終わること。弟のこと。

 話はあまりまとまっておらず、とてもわかりにくかった。

 しかし、アルティは黙って聞いていた。口を挟まなかった。セドリックの言葉の間にある沈黙の方が、言葉よりも多くを語っていた。


 リンは壁に背を預けて立っていた。腕を組み、目を閉じている。聞いていないように見えるが、一言も聞き漏らしていないだろう。


「あなた方が何者かは知りません。見逃してほしいとも思っていません。でも——」


 そこで言葉を区切ってから、ぽつり、と言った。


「邪魔だけは、しないでほしかった」


 一つ一つの言葉が、乾いた砂のように落ちていった。


「わたしが捕まれば、この子ももう——」


 その先の言葉はなかった。言う必要はなかった。

 あてもない治療と看病を続けるのには、少なくない労力とお金が必要だ。セドリックが捕まれば、その先にあるのは……。

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