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七賢者の涙  作者: 相川晴(HAL)
第一部
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28/54

第9章 俺で試せ②

 元職人街の朝は、まだ静かだった。

 通りの両側に並ぶ古い家々は、戸を閉ざしたまま眠っている。空き家の窓板が、朝の薄日を反射して、白く光っていた。

 扉は閉まっている。しかし、窓にかかった厚いカーテンの隙間から光が漏れていた。


 白い、脈打つような光。


 二人は立ち止まった。


「まずい、始まってます」


 リンの声が低くなった。

 アルティは腰の道具入れから金具を引き抜いた。指先が震えそうになる。

 焦るな。ここの開け方を、自分は知っているはずだ。

 錠前に金具を差し込む。構造を探る。

 かちり。

 リンを振り返った。リンは無言で頷いた。


 扉を押し開けた。薄暗い居間。小さな窓から朝の光が差し込んでいる。

 机、椅子、棚。昨日と変わらない。

 しかしそこに、奥の寝室へ続く戸口から、光が漏れていた。

 二人は足音を殺して戸口に近づいた。

 寝室の扉は開いていた。



 簡素な寝台の上に、痩せた青年が横たわっている。目を閉じ、微動だにしない。——弟だろう。

 セドリックが寝台の脇に立っていた。右手で杖を握り、左手を弟の胸の上に重ねている。足元の床に魔法陣が描かれていた。白い線が寝台の脚を囲むように広がり、部屋の半分近くを覆っている。その線が光を放っていた。呼吸するように、ぼう、ぼう、と白い明滅を繰り返している。


 セドリックの顔は汗に濡れていた。唇が途切れなく動いている。詠唱だ。低い、かすれた声が絶え間なく続いている。リンの詠唱と似ているようで、しかし、全く心地よさは感じられなかった。

 リンが、アルティの前に腕を出した。それ以上進むな、と言いたげに。

 セドリックがこちらを見た。

 目が据わっていた。


「近づかないで」


 詠唱の合間に絞り出すような声だった。


「あと少し——」


 アルティは足を止めていた。リンの腕に阻まれたからではない。セドリックの目を見てしまったからだ。


 暗かった。

 暗く、うつろだった。

 むしろ、もっとただの研究者の、研究を成功させたいだけの、暗くとも輝いた瞳をしていたならば、アルティは躊躇なく飛び込めただろう。


 リンがアルティを腕で庇いながら、一歩下がった。アルティの体を戸口の外へ押しやるように。


「これ以上出ないで。下がってください。止めます」


 アルティが、その声に我に帰った。

 止める?

 リンを見る。その手にはいつの間にか杖が握られていた。

 寝室の中のセドリックに狙いを定めている。


「待って——」

「待てません」


 アルティはリンの横顔を見た。冷たく、容赦のない目だった。

 もう、アルティを見ていなかった。

 セドリックの詠唱が、一段高くなった。魔法陣の光が強さを増している。弟の体を包むように白い光が広がり始めていた。

 リンの詠唱が始まった。


 ——短い。


 リンの杖の先に、光が集まり始めた。

 空気が軋んだ。部屋の温度が一瞬で変わったように感じた。リンの杖の先端に凝縮された光が、形を成していく。細く、鋭く、引き絞った弓弦のように張り詰めた光が。

 あの光はセドリックを貫くだろう。

 そして——

 そして?



 アルティは動いた。

 考えるより先に、体が動いていた。

 リンの横をすり抜け、前へ。



 アルティの手は、首元に伸びていた。

 翠色の石を掴んだ。

 鎖が、首に食い込んだ。

 構わず、引いた。

 ぶちり、と何かが切れる音がした。



 そのまま白い光の中へ、踏み込んだ。

 背後で、空気が裂けた。

 リンの杖から放たれた光の矢が、空気を切り裂いて、セドリックめがけて飛んでくる。

 いや、セドリックの前に飛び出したアルティの背中に。

 リンの叫ぶ声が、聞こえた気がした。何を叫んだのかは、もう、わからなかった。



 ペンダントの翠色の石が

 カツン

 と音を立てて転がった。



 その時。



 ふっと蝋燭の火を吹き消すように

 魔法陣の光が消えた



 リンから発されたはずの光の矢も、消えた。

 なんの音もなく、まるで、最初から何もなかったかのように。



「な……」


 セドリックの喉から、絞り出すような、呻き声のような声が出た。


「なにを……」


 脈打っていた光の線がただの描線に戻った。何の力もない、白い粉の線に。

 ベッドサイドの灯りも消えていた。

 窓から差し込む朝の光だけが残った。白々とした、冷たい光だった。

 沈黙が落ちた。

 セドリックの詠唱は途切れていた。

 手の下に弟の手がある。温かい。呼吸している。

 セドリックの膝が折れた。寝台の脇に崩れ落ちた。手だけが弟の手を握ったまま離れなかった。


 アルティはセドリックの肩を掴んだ。


「そのまま、杖を渡して」


 自分の声が、思ったより静かだった。

 動かないセドリックの手から、杖を取り上げた。抵抗はなかった。

 杖は少し、温かかった。

 そこでやっと、アルティは息をすることを思い出したように、大きく、息を吸った。

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