第9章 俺で試せ②
元職人街の朝は、まだ静かだった。
通りの両側に並ぶ古い家々は、戸を閉ざしたまま眠っている。空き家の窓板が、朝の薄日を反射して、白く光っていた。
扉は閉まっている。しかし、窓にかかった厚いカーテンの隙間から光が漏れていた。
白い、脈打つような光。
二人は立ち止まった。
「まずい、始まってます」
リンの声が低くなった。
アルティは腰の道具入れから金具を引き抜いた。指先が震えそうになる。
焦るな。ここの開け方を、自分は知っているはずだ。
錠前に金具を差し込む。構造を探る。
かちり。
リンを振り返った。リンは無言で頷いた。
扉を押し開けた。薄暗い居間。小さな窓から朝の光が差し込んでいる。
机、椅子、棚。昨日と変わらない。
しかしそこに、奥の寝室へ続く戸口から、光が漏れていた。
二人は足音を殺して戸口に近づいた。
寝室の扉は開いていた。
簡素な寝台の上に、痩せた青年が横たわっている。目を閉じ、微動だにしない。——弟だろう。
セドリックが寝台の脇に立っていた。右手で杖を握り、左手を弟の胸の上に重ねている。足元の床に魔法陣が描かれていた。白い線が寝台の脚を囲むように広がり、部屋の半分近くを覆っている。その線が光を放っていた。呼吸するように、ぼう、ぼう、と白い明滅を繰り返している。
セドリックの顔は汗に濡れていた。唇が途切れなく動いている。詠唱だ。低い、かすれた声が絶え間なく続いている。リンの詠唱と似ているようで、しかし、全く心地よさは感じられなかった。
リンが、アルティの前に腕を出した。それ以上進むな、と言いたげに。
セドリックがこちらを見た。
目が据わっていた。
「近づかないで」
詠唱の合間に絞り出すような声だった。
「あと少し——」
アルティは足を止めていた。リンの腕に阻まれたからではない。セドリックの目を見てしまったからだ。
暗かった。
暗く、うつろだった。
むしろ、もっとただの研究者の、研究を成功させたいだけの、暗くとも輝いた瞳をしていたならば、アルティは躊躇なく飛び込めただろう。
リンがアルティを腕で庇いながら、一歩下がった。アルティの体を戸口の外へ押しやるように。
「これ以上出ないで。下がってください。止めます」
アルティが、その声に我に帰った。
止める?
リンを見る。その手にはいつの間にか杖が握られていた。
寝室の中のセドリックに狙いを定めている。
「待って——」
「待てません」
アルティはリンの横顔を見た。冷たく、容赦のない目だった。
もう、アルティを見ていなかった。
セドリックの詠唱が、一段高くなった。魔法陣の光が強さを増している。弟の体を包むように白い光が広がり始めていた。
リンの詠唱が始まった。
——短い。
リンの杖の先に、光が集まり始めた。
空気が軋んだ。部屋の温度が一瞬で変わったように感じた。リンの杖の先端に凝縮された光が、形を成していく。細く、鋭く、引き絞った弓弦のように張り詰めた光が。
あの光はセドリックを貫くだろう。
そして——
そして?
アルティは動いた。
考えるより先に、体が動いていた。
リンの横をすり抜け、前へ。
アルティの手は、首元に伸びていた。
翠色の石を掴んだ。
鎖が、首に食い込んだ。
構わず、引いた。
ぶちり、と何かが切れる音がした。
そのまま白い光の中へ、踏み込んだ。
背後で、空気が裂けた。
リンの杖から放たれた光の矢が、空気を切り裂いて、セドリックめがけて飛んでくる。
いや、セドリックの前に飛び出したアルティの背中に。
リンの叫ぶ声が、聞こえた気がした。何を叫んだのかは、もう、わからなかった。
ペンダントの翠色の石が
カツン
と音を立てて転がった。
その時。
ふっと蝋燭の火を吹き消すように
魔法陣の光が消えた
リンから発されたはずの光の矢も、消えた。
なんの音もなく、まるで、最初から何もなかったかのように。
「な……」
セドリックの喉から、絞り出すような、呻き声のような声が出た。
「なにを……」
脈打っていた光の線がただの描線に戻った。何の力もない、白い粉の線に。
ベッドサイドの灯りも消えていた。
窓から差し込む朝の光だけが残った。白々とした、冷たい光だった。
沈黙が落ちた。
セドリックの詠唱は途切れていた。
手の下に弟の手がある。温かい。呼吸している。
セドリックの膝が折れた。寝台の脇に崩れ落ちた。手だけが弟の手を握ったまま離れなかった。
アルティはセドリックの肩を掴んだ。
「そのまま、杖を渡して」
自分の声が、思ったより静かだった。
動かないセドリックの手から、杖を取り上げた。抵抗はなかった。
杖は少し、温かかった。
そこでやっと、アルティは息をすることを思い出したように、大きく、息を吸った。




