第8章 また明日⑤
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弟の髪を梳いていた。
治療院の個室は小さいが、清潔だった。窓から午後の光が差し込み、白い寝具を照らしている。寝台の上で目を閉じている青年は、穏やかな顔をしていた。穏やかすぎる顔だった。十年間、この顔は変わらない。怒りも、笑いも、痛みさえも浮かばない。ただ静かに、呼吸だけを繰り返している。
セドリックは木の櫛を動かしながら、弟の額にかかった髪を横に流した。少し伸びている。明日、看護人に頼んで切ってもらおう。
「今日は天気がいいよ」
声をかけた。返事はない。十年間、一度もない。
それでもセドリックは話しかけることをやめなかった。今日あったこと、鑑定所に来た客のこと、通りで見かけた犬のこと。他愛のない話を、毎日、飽きもせずに。看護人たちはもうそれに慣れていて、何も言わない。
櫛を置いて、枕元の水差しを確かめた。水は入っている。タオルも替えてある。看護人の仕事は丁寧だった。この治療院はとても費用がかさむが、その分、世話はきちんとしてくれる。
椅子に座り直した時、廊下に足音が聞こえたと思ったら、扉が叩かれた。
「セドリック、いるか」
聞き覚えのある声に、セドリックは眉を上げた。扉を開けると、同僚のハインツが立っていた。セドリックと同じ、魔法使いの鑑定士で、赤ら顔の、よく笑う男だった。
だが、今は笑っていなかった。
「今日は休みだったな。また見舞いに来てくれたのか?」
「ああ、それもあるが、いや——ちょっと話がある」
個室であるにも関わらず、ハインツは声を落とした。
「鑑定所に調査が入ってる」
セドリックの心臓が、一拍、強く打った。
「調査?」
「協会が動いてるらしい。先日、王家の使いが来ただろう、ほら。あれからどうもきな臭くなってな。内部調査だ。引き取ったものとか、鑑定記録の照合とかやってるっぽいぜ」
「鑑定記録の——」
「今日来たのは支部の事務方だ。朝寄った時に聞いたんだが——後日一人ずつ支部に呼び出して話を聞くって言ってたよ。俺は明日呼ばれた」
ハインツの目がセドリックを見ていた。心配の色があった。
「お前の番は明後日だそうだ」
明後日。二日。セドリックは喉が渇くのを感じた。
「何調べてんのか知らないけどよ、俺はちょっと、書類を省いてたからな……なんか言われるかもしれん」
ハインツはバツの悪そうな顔をしていた。
「お前みたいな真面目な奴が何かしてるとも思わないけどな。もし何かあるなら、気をつけろよ」
ハインツはそれだけ言って、肩を叩いた。
「……ありがとう」
セドリックは絞り出すようにそう言った。ハインツは頷くと、立ち上がり、病室を出ていった。
一人になった。
廊下の窓から、光が差し込んでいる。さっきと同じ光だった。何も変わっていないはずなのに、空気が冷たくなった気がした。
調べられて困るものはないはずだ。テディが来た記録は残っていても、あの時に鑑定した記録は残していない。鑑定書を求められた場合は記録しているが、あの時は「価値のあるものはそこになかった」のだ。
だが、なにか、なにかあるかもしれない。
セドリックは、椅子の上の鞄を手に取った。
鑑定所に行かなければ。状況を確認しなければ。だが——このまま鞄を持って鑑定所に行くわけにはいかない。
「すぐ戻るから」
もう一度弟に言って、鞄を掴み、部屋を出た。
自宅までは早足で四半時ほどだった。
通い慣れた道を、セドリックは足早に歩いた。頭の中で、帳簿の内容を思い出そうとしていた。テディの名前や日付は書いていただろう。他にはなにも……口頭で返したと言えば——そうだ、あの少女にはもうそう言った。同じことを調査員に言えば、辻褄は合う。
合うはずだ。
自宅の前に着いた。鍵を出して、差し込もうとした。
手が止まった。
鍵が、開いている。
セドリックは扉の取っ手に手をかけたまま、動けなかった。今朝、鍵をかけたはずだ。いや——かけたか? ハインツの話を聞いてから、頭がうまく回っていない。今朝のことを思い出そうとした。朝、家を出て、治療院に向かって——
鍵を、かけたか?
思い出せなかった。
扉を押し開けた。
暗い室内に目を凝らした。居間は朝のままだった。机の上のカップ。椅子。棚の本。何も動いていない。何も、荒らされていない。
奥の寝室を確かめた。寝台、衣装箱。枕元の本と——あの絵。二人で笑っている絵。触られた様子はない。
地下への入口を確かめた。布は元のまま掛かっていた。
セドリックは、長い息を吐いた。
今朝、慌てて出たのだ。鍵をかけ忘れたのだろう。それだけのことだ。
念の為にと、地下室も確認したが、誰もいなかった。鞄から革の書類袋を取り出すと、簡素な机の上にそっと置いた。
地下への床板を戻し、布をかけながら居間を見回す。やはり何も変わっていない。誰も見ていない。大丈夫だ。
そして今度は扉を閉めると、間違いなく、鍵をかけた。
鑑定所に着いた時には、もう昼を回っていた。
中に入ると、受付の男が顔を上げた。いつも通りの無愛想な顔だった。
「今日は勤務日じゃないのに、どうしたんですか」
「少し、忘れ物があって」
周りを見たが、特に変わった様子はない。調査員はもう帰ったのだろうか。
自室に入った。誰もいない。机の上や棚の書類に目をやるが、動かされた形跡はなかった。もとより、ここにはなにも残してないはずなのだが……
セドリックは、一つ一つ書類を取り出して確認する。見た範囲、抜き取られたものはないように思う。
受付の男に聞いてみた。今日誰が来たのか。支部からの調査員が来たのか。男は面倒くさそうに「上の指示で帳簿を見せろと言うから見せました」と答えた。
それ以上のことを聞くことは躊躇われた。余計なことを聞いてしまいそうだった。
鑑定所を出て、夕暮れの通りに立った。
明後日。あと二日しかない。
呼び出されて、何を聞かれるだろうか。テディの鑑定記録のことは間違いなく聞かれるだろう。
王家の使いが来て同じことを聞いたことを、支部長は知っているのだ。
嘘を重ねることはできる。口頭で返した。記録はつけていない。テディはもう死んでいるから、確認のしようがない。それで通るかもしれない。
だが、地下室を調べられたら、終わりだ。捨てるか。いや……明後日までに捨てられる量ではない。それに、捨てる決心が、できない。
まさか、家までは——家までは来ないだろう。
だが、王家が探していたのは……ただの骨董品じゃない。もしそのことに支部長が気がついていたら……
明後日。明後日、全てが終わるかもしれない。
セドリックが治療院に戻ったのは、もう日が暮れてからだった。
弟の手を取った。温かかった。生きている手だ。握り返してくることはない。
「——家に連れて帰りたいんですが」
廊下ですれ違った看護人の責任者に、セドリックは言った。
責任者は困った顔をした。
「今からですか。急ですね」
「少しの間でいいんです。家で、一緒に過ごしたいだけで」
「お気持ちはわかりますが、お体を動かすには人手が要ります。馬車の手配も。今日はもう……」
「明日の朝一番では?」
「明日の朝でしたら、人を手配できると思います。今日のうちに手続きをしていただければ」
「——わかりました。明日の朝、来ます」
セドリックは頭を下げた。
弟の部屋に戻って、しばらく、手を握ったまま座っていた。窓の外が暗くなっていく。治療院の廊下に、夜の灯りがともった。
もう、時間がなかった。
明日が、最後の機会になる。
セドリックは弟の手をそっと寝具の上に戻した。
「また明日」
返事はなかった。それは、十年間、一度もない。
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