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七賢者の涙  作者: 相川晴(HAL)
第一部
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26/54

第8章 また明日⑤


 弟の髪を梳いていた。

 治療院の個室は小さいが、清潔だった。窓から午後の光が差し込み、白い寝具を照らしている。寝台の上で目を閉じている青年は、穏やかな顔をしていた。穏やかすぎる顔だった。十年間、この顔は変わらない。怒りも、笑いも、痛みさえも浮かばない。ただ静かに、呼吸だけを繰り返している。

 セドリックは木の櫛を動かしながら、弟の額にかかった髪を横に流した。少し伸びている。明日、看護人に頼んで切ってもらおう。


「今日は天気がいいよ」


 声をかけた。返事はない。十年間、一度もない。

 それでもセドリックは話しかけることをやめなかった。今日あったこと、鑑定所に来た客のこと、通りで見かけた犬のこと。他愛のない話を、毎日、飽きもせずに。看護人たちはもうそれに慣れていて、何も言わない。

 櫛を置いて、枕元の水差しを確かめた。水は入っている。タオルも替えてある。看護人の仕事は丁寧だった。この治療院はとても費用がかさむが、その分、世話はきちんとしてくれる。

 椅子に座り直した時、廊下に足音が聞こえたと思ったら、扉が叩かれた。


「セドリック、いるか」


 聞き覚えのある声に、セドリックは眉を上げた。扉を開けると、同僚のハインツが立っていた。セドリックと同じ、魔法使いの鑑定士で、赤ら顔の、よく笑う男だった。

 だが、今は笑っていなかった。


「今日は休みだったな。また見舞いに来てくれたのか?」

「ああ、それもあるが、いや——ちょっと話がある」


 個室であるにも関わらず、ハインツは声を落とした。


「鑑定所に調査が入ってる」


 セドリックの心臓が、一拍、強く打った。


「調査?」

「協会が動いてるらしい。先日、王家の使いが来ただろう、ほら。あれからどうもきな臭くなってな。内部調査だ。引き取ったものとか、鑑定記録の照合とかやってるっぽいぜ」

「鑑定記録の——」

「今日来たのは支部の事務方だ。朝寄った時に聞いたんだが——後日一人ずつ支部に呼び出して話を聞くって言ってたよ。俺は明日呼ばれた」


 ハインツの目がセドリックを見ていた。心配の色があった。


「お前の番は明後日だそうだ」


 明後日。二日。セドリックは喉が渇くのを感じた。


「何調べてんのか知らないけどよ、俺はちょっと、書類を省いてたからな……なんか言われるかもしれん」


 ハインツはバツの悪そうな顔をしていた。


「お前みたいな真面目な奴が何かしてるとも思わないけどな。もし何かあるなら、気をつけろよ」


 ハインツはそれだけ言って、肩を叩いた。


「……ありがとう」


 セドリックは絞り出すようにそう言った。ハインツは頷くと、立ち上がり、病室を出ていった。


 一人になった。


 廊下の窓から、光が差し込んでいる。さっきと同じ光だった。何も変わっていないはずなのに、空気が冷たくなった気がした。

 調べられて困るものはないはずだ。テディが来た記録は残っていても、あの時に鑑定した記録は残していない。鑑定書を求められた場合は記録しているが、あの時は「価値のあるものはそこになかった」のだ。


 だが、なにか、なにかあるかもしれない。


 セドリックは、椅子の上の鞄を手に取った。

 鑑定所に行かなければ。状況を確認しなければ。だが——このまま鞄を持って鑑定所に行くわけにはいかない。


「すぐ戻るから」


 もう一度弟に言って、鞄を掴み、部屋を出た。



 自宅までは早足で四半時ほどだった。

 通い慣れた道を、セドリックは足早に歩いた。頭の中で、帳簿の内容を思い出そうとしていた。テディの名前や日付は書いていただろう。他にはなにも……口頭で返したと言えば——そうだ、あの少女にはもうそう言った。同じことを調査員に言えば、辻褄は合う。

 合うはずだ。


 自宅の前に着いた。鍵を出して、差し込もうとした。

 手が止まった。


 鍵が、開いている。


 セドリックは扉の取っ手に手をかけたまま、動けなかった。今朝、鍵をかけたはずだ。いや——かけたか? ハインツの話を聞いてから、頭がうまく回っていない。今朝のことを思い出そうとした。朝、家を出て、治療院に向かって——

 鍵を、かけたか?

 思い出せなかった。

 扉を押し開けた。

 暗い室内に目を凝らした。居間は朝のままだった。机の上のカップ。椅子。棚の本。何も動いていない。何も、荒らされていない。

 奥の寝室を確かめた。寝台、衣装箱。枕元の本と——あの絵。二人で笑っている絵。触られた様子はない。

 地下への入口を確かめた。布は元のまま掛かっていた。


 セドリックは、長い息を吐いた。

 今朝、慌てて出たのだ。鍵をかけ忘れたのだろう。それだけのことだ。

 念の為にと、地下室も確認したが、誰もいなかった。鞄から革の書類袋を取り出すと、簡素な机の上にそっと置いた。

 地下への床板を戻し、布をかけながら居間を見回す。やはり何も変わっていない。誰も見ていない。大丈夫だ。

 そして今度は扉を閉めると、間違いなく、鍵をかけた。



 鑑定所に着いた時には、もう昼を回っていた。

 中に入ると、受付の男が顔を上げた。いつも通りの無愛想な顔だった。


「今日は勤務日じゃないのに、どうしたんですか」

「少し、忘れ物があって」


 周りを見たが、特に変わった様子はない。調査員はもう帰ったのだろうか。

 自室に入った。誰もいない。机の上や棚の書類に目をやるが、動かされた形跡はなかった。もとより、ここにはなにも残してないはずなのだが……

 セドリックは、一つ一つ書類を取り出して確認する。見た範囲、抜き取られたものはないように思う。

 受付の男に聞いてみた。今日誰が来たのか。支部からの調査員が来たのか。男は面倒くさそうに「上の指示で帳簿を見せろと言うから見せました」と答えた。

 それ以上のことを聞くことは躊躇われた。余計なことを聞いてしまいそうだった。


 鑑定所を出て、夕暮れの通りに立った。

 明後日。あと二日しかない。

 呼び出されて、何を聞かれるだろうか。テディの鑑定記録のことは間違いなく聞かれるだろう。

 王家の使いが来て同じことを聞いたことを、支部長は知っているのだ。

 嘘を重ねることはできる。口頭で返した。記録はつけていない。テディはもう死んでいるから、確認のしようがない。それで通るかもしれない。

 だが、地下室を調べられたら、終わりだ。捨てるか。いや……明後日までに捨てられる量ではない。それに、捨てる決心が、できない。

 まさか、家までは——家までは来ないだろう。

 だが、王家が探していたのは……ただの骨董品じゃない。もしそのことに支部長が気がついていたら……

 明後日。明後日、全てが終わるかもしれない。



 セドリックが治療院に戻ったのは、もう日が暮れてからだった。

 弟の手を取った。温かかった。生きている手だ。握り返してくることはない。


「——家に連れて帰りたいんですが」


 廊下ですれ違った看護人の責任者に、セドリックは言った。

 責任者は困った顔をした。


「今からですか。急ですね」

「少しの間でいいんです。家で、一緒に過ごしたいだけで」

「お気持ちはわかりますが、お体を動かすには人手が要ります。馬車の手配も。今日はもう……」

「明日の朝一番では?」

「明日の朝でしたら、人を手配できると思います。今日のうちに手続きをしていただければ」

「——わかりました。明日の朝、来ます」


 セドリックは頭を下げた。


 弟の部屋に戻って、しばらく、手を握ったまま座っていた。窓の外が暗くなっていく。治療院の廊下に、夜の灯りがともった。


 もう、時間がなかった。

 明日が、最後の機会になる。


 セドリックは弟の手をそっと寝具の上に戻した。


「また明日」


 返事はなかった。それは、十年間、一度もない。



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