第8章 また明日④
結局、二人は酒は飲まなかった。
代わりに、二人で宿を出た。あの狭い部屋にこれ以上いると、あの地下室の話の続きをしてしまいそうだったからだ。
当てもなく歩いた。港側の通りに出て、荷下ろしの喧騒を横目に、石畳の道をぶらぶらと進む。
時折、アルティの頭が下を向くことにリンは気づいていた。石畳に、おそらく楽しいものは落ちてないだろうから、少しでも前を向けるとよいのだけど。
歩幅を合わせて歩いていると、アルティが
「あれ?」
と、声をもらした。港に近い賑やかな通り、小さな看板が揺れている。「赤鳶亭」と書かれていた。
その軒先に、小さな屋台が出ていた。
粗末な板の台に白い布が敷かれ、焼き菓子が並んでいる。湯気の立つ鍋も一つ。甘い匂いが漂っていた。バターと、焼いた砂糖の匂い。
屋台に立っているのは、髪を三つ編みにして垂らした若い女性だった。客がもう数人並んでいて、横では女たちが立ったまま菓子をつまんでいる。子どもが母親の服を引っ張って何かをねだっていた。
「……なにあれ」
アルティが変な顔をしてその様子を見ている。美味しそう、と思っている顔とは違う。
「行ってみましょうか」
リンが促し、二人が露店に近づくと、品書きの板が立てかけてあった。林檎の焼き菓子、蜂蜜の練り菓子、木の実のタルト。どれも小さく、一つ銅貨数枚の値段だった。
「これは……赤鳶亭の、もの、じゃないよね?」
アルティが屋台の女に聞くと、女はにこりと笑った。
「赤鳶亭ですよ。昼だけなんですけどね。うちの主人が作ってるんですよ」
「うちの主人……」
アルティが呟く。きれいな眉を顰めて、鳶色の瞳で焼き菓子を一つ一つ見ていた。
アルティが悩んでいる理由はわからなかったが、アルティが石畳を見つめなくなるのはよいことだ。
リンは銅貨を出した。
「二つください」
林檎の焼き菓子を二つ。白い紙に包まれたそれを受け取り、一つをアルティに差し出した。
「はい」
「……ありがと」
アルティが、ごくりと唾を飲んだ。しかし、美味しそう、という表情ではなかった。そして桜桃のような唇を小さく開けると、かじった。
リンもかじってみる。外の皮はさくりと軽く、中の林檎がとろりと甘かった。バターの香りが鼻に抜けて、最後にほんの少しだけ酸味が残る。素朴だが、雑ではなかった。一つ一つの加減が、丁寧だった。
アルティは足を止めて、もう一口食べた。
「……おいしい。すごくおいしい。えっ、なんで酒場の主人がこんなもの作れるの」
「酒場の主人だから、では?」
「いや、それはそう……そうなんだけどね——いや、そんな感じの人じゃなかったんだよ。こう、用心棒みたいな」
「用心棒」
「謎すぎる……」
アルティは渋い顔をしながら、食べかけの林檎の焼き菓子をまじまじと見つめた。
「甘いものは好きですか?」
「好きだよ。お酒を飲む時は好きじゃないけど」
「お酒好きですね……」
「種類によるのかもしれないけどね、甘いものよりしょっぱいやつがいいな……お腹にたまりすぎないやつ」
そこまで強くもないのに、この少女はなぜそこまで酒が好きなのか。
まああの時の楽しそうな様子を思い出すと破顔せずにはいられないのだが、ただ、もし飲むことで疲れを癒しているのだとしたら、まだ年若い少女には今の任務は似つかわしくないのではないか——とも考えてしまう。
小さな焼き菓子は、あっという間に二人のお腹に収まってしまった。
それでも、アルティの頭が沈み込まなくなってきた。
二人は、港に向かう道を、特に理由もなく選んだ。夕方の風が、潮の匂いを運んでくる。
歩き疲れて、河岸の石段に並んで座った。荷揚げの作業はもう終わったのか、人の姿はまばらだった。目の前に川が広がっている。夕日が水面を橙色に染めていた。
「リンは好きなものないの?」
「食べ物ですか?」
「食べ物でもなんでも」
「……なにかありますかねえ。どうかな……」
好きなものを聞かれたことなどどれくらいぶりか。リンは少し考えたが、なかなか、思いつかなかった。心を動かすような好きなもの——
「魔法とか?」
アルティの言葉に、リンは顔をあげた。
「ああ、なるほど。魔法は好きですよ。魔道具を作るのも好きですかね」
「自分で作るの?」
「作りますよ。使えるものになるかは別ですけど」
「そうか、あれって誰かが作ってるんだ……」
世にある魔道具は魔法使いが作っている。目にすることもないだろうから、知ることもないだろう。魔法を使えない人でも、同じような便利さを手にできるように。過去には独占されていた技術が、今はもう、街の至る所にある。あの街灯も、あそこにある大時計も、向こうに見える外壁の結界も。
「あとはなんですかね。読書。それと——」
「それと?」
「果実水」
アルティは吹き出した。
「やっぱりそこなんだ」
「果実水は美味しいですよ。なぜ皆わざわざ発酵させてしまうのか。果実への冒涜です」
「それを言ったら世界中の酒飲みを敵に回すよ」
「構いません。僕はどこまでも果実水の味方です」
リンは真面目な顔で言った。あまりに真面目だったので、アルティはまた笑った。
眩しい笑顔だった。よかった。彼女には、笑顔の方がよほど似合う。
「あ」
アルティが唐突に言った。
「軟膏のこと、忘れてた!」
「ああ……あの高級軟膏」
リンもすっかり忘れていた。飛竜との戦いの後に、手を癒した軟膏のことだ。どう考えてもまともな品ではない。かと言って、傷を癒す魔道具は技術的に難しい。神聖魔法であればありうるかもしれなかった。
「高級じゃなかった軟膏ね。レンスティアに着いたら鑑定に出そうと思ってたのに……」
確かに鑑定所には行ったが、どう考えてもそれを言い出せる雰囲気ではなかった。
そもそも、鑑定に出してわかるものかは微妙だった、神聖魔法がわかる教会に行った方が早いかもしれない。
なんにしろ、今急ぐことではなかった。時間は、あるのだ。
「まあ、それどころでもなかったですし。また今度でいいんじゃないですか」
「……そうだね」
アルティが素直に頷く様子に、リンは頬を緩めた。
日が沈んでいく。空の色が橙から紫に変わり始めていた。
「……そろそろ戻ろっか」
「ええ」
二人は石段を登り、宿への道を歩いた。街灯の魔法の明かりが一つ、また一つとともっていく。
アルティが顔を上げて、その様子を見ていた。横顔を、街灯の白い光が照らしていた。
「きれいだね」
と、アルティが言い、
「そうですね」
とリンが答えた。アルティの横顔を見ながら。
宿に戻り、廊下でそれぞれの部屋の前に立った。
「おやすみ」
アルティが小さく手を振った。その顔は、この宿を出た時よりも穏やかで、晴れやかだった。
「おやすみなさい」
リンも、手を振った。
「また明日」
「また明日」
扉が閉まる。
リンはしばらくその扉を見ていた。それから、自分の部屋の鍵を開けて、中に入った。
明日、と、誰にともなく呟いた。
明日が、彼女にとって、楽しくなくとも、「良かった」と締めくくれる日でありますように、と、小さく、祈った。




