第8章 また明日③
「これは噂話なんですが」
リンが唐突に話題を変えたので、アルティは頭を上げた。
「あの——アルティさんに連れていってもらった魔法道具の店で聞いた話ですが、近頃、禁呪に手を出した魔法使いが一人消えたと」
「消えた?」
「つまり——魔術審問官が、この近辺に出たらしいという噂です」
アルティは眉を寄せた。
「噂でしょ? 審問官なんて……そんな、本物を見た人なんて聞いたことない」
「そうですね。みんな噂しますが、本物はどこにいるのか、もしくはいないのか——。ただ、近辺に魔術審問官がいるなら、次に処断されるのはセドリックさんかもしれませんよ」
リンは「処断」と言ったが、その意味は要するに、「死」を意味することを、アルティは知っていた。
そう、それだけのことをセドリックはしている。……考えが当たっていれば、だが。
「知ってますか、アルティさん。なぜ審問官を見た人がいないか」
リンは薄く笑った。
「見た人は、この世にいないから、だそうですよ」
リンはいつもの軽い様子で言った。だが、いつもの穏やかなら声が、今は少し、冷たい。
「……リンは、審問官のことが嫌いなの?」
「そうですね、嫌いです」
アルティは、リンの態度に、眉を顰めた。「嫌い」とはっきりと言うのを、初めて聞いたからかもしれない。
「なんで……」
そこまで言って、審問官のことを改めて考えた。
魔術審問官は、魔法による罪を裁く。魔法使いにとっては、場合によっては畏怖の対象で、そして場合によっては天敵だった。少なくとも、自分たちを「裁く」存在を好きになることはないだろう。
「……いや、なんでってこともないか。魔法使いはみんな嫌いだよね、審問官」
「いえ、魔法使いとしてはどうでもいいんです。どう言えばいいか……正しく言うと、審問官が嫌いなんじゃなくて、制度が嫌いなだけです」
「制度?」
「——アルティさんは、魔術審問官はご存知なんですよね」
「一応ね。名前は知ってるよ。魔法使いの犯罪を取り締まる人」
「ええ。ただ、取り締まるだけじゃない。調べて、裁いて、罰するところまで、全部一人でやるんです。それが許されている人です」
アルティは曖昧に頷いた。知っていた。
「普通は違いますよね。調べる人がいて、裁く人がいて、罰を執行する人がいる。そうやって分けることで、一人の人間の判断で全てが決まらないようにしている。でも審問官にはその三つが全部、一身に与えられている」
リンは窓の外に目を向けた。午後の光が金の髪を透かしている。横顔は穏やかだったが、声には静かな硬さがあった。
「まあ、理屈はわかるんですよ。魔法の犯罪は証拠が消えます。犯人も魔法で逃げる。裁判官も、魔法の話となると及び腰になる。悠長にやってたら間に合わない。だから、現場で全部完結させる必要がある——と。今回もそうですよね、後数日もすれば、あのテディの店の魔法の痕跡は消えます」
「じゃあ、合理的じゃない?」
「合理的です。制度としては」
リンの声は静かだった。
「でも、それは裏を返せば、その人が間違えたら誰も止められないということです。そして、間違えたかどうかを後から確かめる仕組みもない」
アルティは黙っていた。違う、というには、勇気がなかった。
「もっと嫌なのはね、アルティさん」
リンがこちらに目を戻した。翡翠の瞳が、まっすぐにアルティを見ていた。
「問題が起きた時、王家はこう言えるんですよ。『あれは審問官個人の判断だ』と。審問官に全権を与えておいて、都合が悪くなったら切り捨てる。一人で調べて、一人で裁いて、一人で手を汚して——そして最後に責任まで一人で被る」
「…………」
「制度を作った側は傷つかない。傷つくのは、審問官自身です。そういう制度が嫌いなんです」
アルティは黙るしかなかった。
リンが「嫌いだ」と言うものを、出会ってから初めて見た気がした。
いつも飄々として、どこか一歩引いたところにいるこの男が、静かに、はっきりと、嫌悪を口にしている。
この男は、何を見てきたのだろう、とアルティは思った。制度の話をしているようでいて、これは誰かの話だ。リンが見てきた、誰かの。
聞きたいと思った。誰のことを考えて、そんな顔をしているのか。
けれど、聞けなかった。
「すみません、話がそれました。戻しましょう」
リンは表情を切り替えた。窓から視線を戻した時には、いつもの穏やかな顔になっていた。切り替えの速さが、かえって今の言葉が本心だったことを裏付けているようだった。
「とにかく、セドリックは一線を踏み越えてます。状況的にね。ただ——今我々に必要なのは、七賢者の書の行方、ですよね。セドリックの動機は関係なく、その——取り返す必要がある」
「うん、そう。そうなの」
アルティは膝の上で指を組み直した。セドリックの話に戻れることが、今は少しだけ楽だった。
「……返してくれるかな」
「どうでしょうね……まずは、物が本当にあるかどうかを確認しないといけない。つまり、手元に持っている時に話をつけた方がいいと思います」
「魔法で、そこにあるかどうかは確認できるんだよね」
「はい。ただ、魔法で探られるのは誰でも嫌でしょうから……」
「なんとか話し合いで、出してもらえたらいいよね……。じゃあ、鑑定所……鑑定所はダメか。またあの偉い人が出てくるかもしれないから。じゃあ、家に行く?」
「家だと、入れてもらえない気がしますけどね。無理矢理踏み込んでいいならやりますけど」
「なんとか話し合いでって言ってるでしょ」
「わかってますよ」
リンを睨みつけてから、アルティは頭の中でいくつかの方法を考えた。なんとか、穏便に、済ませたい。
「……じゃあ、持ち歩いているっていうなら、——治療院に行こうか」
アルティは、ゆっくりと言った。考えをまとめながら話している。
「荒っぽいことがやりたいわけじゃないし、ちゃんと話を聞きたいから。治療院でなら、話ができるんじゃないかな」
「話せる場所が治療院にあるかわかりませんが、いい案と思いますよ。地下で話すよりは、健全でしょう」
冗談混じりでリンが言ったが、全くもってその通りだった。あの地下では話せない。
「今日はもう無理だろうから——明日。明日はセドリックが鑑定に入ってない日になってたから、朝、治療院で待ってたら会えると思う」
「そうしましょうか」
リンは椅子の背に体を預け直した。組んでいた足を解いて、少し伸ばす。長い足が、狭い部屋では持て余し気味だった。
「今日は少しゆっくりしましょう。アルティさん、働きすぎと思いますよ」
アルティは寝台に手をついて、ふう、と息を吐いた。確かに、ここ数日休む間もなく走り通しだった。地下室の埃の匂いがまだ服に残っている気がする。
さすがに、頭も体も、少し休ませた方がいい。
「そうだね、うん、よし、じゃあお酒でも飲もうか」
アルティの明るい声に、リンが慌てて手で制した。
「いや、やめた方がいいです。上司の方も言ってたみたいですが、やめましょう。一人で飲むな、他の人といる時も飲むな——」
「えー! なんで!」
「アルティさんは、酒癖がね、あまりよろしくはないと思っておいた方が——」
「ちょっと、レントの時——もしかして、なにか、した? なにかあった?」
「……いいえ、なにも」
リンが視線を逸らす。
「嘘! なんで目をそらすの!」
「いえいえ、そんな目をそらしてなんて、ええ」
リンは両手を上げた。降参のポーズだ。顔は真面目だったが、目の奥がどうしようもなく笑っている。
「ちょっと、ちゃんと答えてよね——!」
アルティは枕を掴んだが、投げるのは思いとどまった。代わりに自分の膝に押しつけて、顔を埋めた。耳は、赤い。
リンは笑いを噛み殺していた。声は出さなかったが、肩が小さく揺れている。
窓の外で、子どもたちの声がまた聞こえた。さっきとは違う遊びを始めたらしい。甲高い歓声が、午後の空気に溶けていく。
重い話の後の、ほんの少しだけ、軽い時間だった。




