第8章 また明日②
宿の部屋は狭かった。
寝台が一つと、机と椅子が一脚。アルティの部屋にリンを呼んだ形だった。リンは椅子に座り、アルティは寝台の端に腰を下ろしている。
窓の外から午後の光が差し込んでいた。まだ昼過ぎだ。
さっき、空腹なのはよくないと、リンに促されて仕方なく昼飯を食べてきた。トマトのスープで、黙々とパンを押し流して食べた。食べ物に申し訳ないと思いながら。
しばらく、二人とも黙っていた。
あの地下室の光景が、まだ目の裏に貼りついている。
何年分もの実験の記録。「失敗」とだけ書かれ続けた結果の欄。弟の経過を綴った日記。終着点が見えない走り書き。
でも、アルティが一番思い出すのは、枕元に立てかけてあった絵だった。二人の少年が並んで笑っている。子どもの手で描かれた、拙く、まぶしい絵だった。
リンも同じものを見たはずだ。椅子の背にゆるく体を預けたまま、窓の外をぼんやりと眺めている。何を考えているのか、その整った横顔からは読めなかった。
もしかすると、ただ、アルティの準備が整うのを待ってくれているのかもしれない。全てを飲み込んで、そして吐き出す準備を。
アルティが先に口を開いた。
「一旦、整理しよう」
「ええ」
リンが窓から視線を戻して、頷いた。
「セドリックの弟さんが、治療院に入院している。十年近く。溺れた後起きないまま。セドリックは毎日通っている」
「はい」
「セドリックは、何年も前から魔法の研究をしていた。地下にあった記録は……全部、失敗してたけど」
「そうですね。僕が見た一番古い記録は四年前でしたので、もっと前からしていたかもしれません」
四年。少なくとも四年。あの棚にならんだ帳面は、一日一日の積み重ねだった。
毎日のように記録をつけ、毎日のように失敗し、それでも次の日にはまた同じ机に向かっていた。
四年前、自分はなにをしていただろう。そう思ってもすぐに思い出せず、そしてその月日にため息をついた。
「内容は、再生について。——禁呪、ギリギリラインの」
「ギリギリか、踏み越えてるかは微妙ですね」
アルティは、リンをちょっと恨みがましそうな目で見た。
「十日くらい前に、テディが断章? か、なにかを持ち込んだ。セドリックは返した
と言ってるけど、それが断章なのか、返したのか不明。不明
だけど、多分家に持ち帰って……断章の内容を自分の研究と照合して——興奮していた。あの走り書きは、そういうことだよね」
「おそらくは」
リンは顎に手を当てた。長く細い指が、その輪郭を描いた。
「何年も一人で手探りでやっていた研究に、初めて理論的な裏付けが見つかったと。まあ、同じことを七賢者も研究していたことを知った興奮かもしれませんが……」
「断章は、あそこにあったと思う?」
「あのメモを見ると、書かれていた言葉がかなり特徴的——七賢者が使っていた単語が入っていたので、多分間違いないと思います。が、確実とは——。少なくとも、あの場に断章はありませんでした」
「で、断章は今、セドリックが持ち歩いている……?」
「持ち歩いてるんじゃないですかね。鞄に入れているか、身につけているか」
アルティは膝の上で手を組んだ。指先に力が入る。ここまでは、状況の確認だ。わかっていることを並べただけ。問題は、ここから先だった。
「それで……テディの店で魔法が使われた痕跡があった。時期はテディが死んだ頃と重なる」
「そうですね」
「どう思う?」
リンは少し間を置いた。言葉を選んでいるようだった。
「状況から考えると、テディの店に、セドリックが行って、実験したんじゃないですかね。なんでそうなったのかはわかりませんが」
「なんでそんな場所で——あ」
そこまで話して、すっかり忘れていたことを思い出した。
花屋の店主が言っていたこと。テディの遺体を見つけた時の話。困惑と、恐れと、信じがたいものを見た人間の顔。声を落として、言いにくそうに、それでも誰かに言わずにはいられないという表情で——
「ああ……そのご遺体が……私の見間違いかもしれないんだけどね」
「その——あったんだよ、手が」
「ほら、エルクさん、左手がないじゃない。昔事故で無くしたって聞いたんだけど——だけど、あの時、手があったんだよね」
「手が……生えていた」
「手?」
リンが身を起こした。椅子の背から体を離し、アルティの方に向き直る。翡翠の瞳が鋭くなっていた。
「えっと——覚えてるかな。テディは左手がないって話」
「……ああ、そう言えば、盗賊が言ってましたね」
「うん。で、その死体、左手があったかもしれないって、発見者の人が言ってたの」
リンは、親指で自分の唇を撫でた。だが、何も言わなかった。
「その人以外、その話してる人がいなかったから、勘違いかと思ったんだけども」
「——断章の理論を元に術式を組んで、テディの腕を再生しようと試したのかもしれません」
静かな声だった。だが、その一言が落ちた瞬間、部屋の温度が変わった気がした。
「そして、失敗した」
アルティは答えなかった。答える必要はなかった。
テディは死んでいる。腕は、生えた。だが、テディは死んだ。
これは「失敗」だ。
部屋に沈黙が落ちた。
窓の外で、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。陽気な声が、今はひどく遠い。
アルティは自分の手を見下ろした。膝の上で組んだ指が、白くなるほど力が入っていたことに気づき、ゆっくりと、手を開いた。
リンが徐に口を開いた。
「そうであれば、その理論が断章であろうとなかろうと、完全に一線を踏み越えてる、ということになります」
アルティは答えなかった。
一線。その言葉の重さを、噛み締めていた。
あの穏やかな顔をした男が、あの疲れた目の男が。




