第7章 失敗②
翌朝。
空がまだ白みきらない頃に宿を出た。
通りにはまだ人気がなく、石畳が朝露で湿っていた。
アルティはセドリックの家の近くで、路地の角に身を寄せて待った。朝の空気は冷たかったので、マントの端を引き寄せた。
朝の日差しがかじかんだ手を温め出した頃、セドリックの家の扉が開いた。
外套を羽織り、鞄を肩にかけたセドリックが出てくる。昨日と同じ格好だった。扉に鍵をかけ、通りに出ると、北へ向かって歩き始めた。治療院の方角だ。
その背中が角を曲がって完全に見えなくなるまで、アルティはじっと動かなかった。
「どうですか?」
反対側の路地からリンが姿を現した。
「こっちは行ったよ。感知の魔法は?」
「仕掛けてきました。まだ治療院には着いてないですね」
頷き合ってから、二人はセドリックの家の前に立った。
朝の光の中で見ると、昨夜よりも家の質素さが際立った。壁の漆喰に小さなひびが入っている。窓枠の塗装が剥がれかけている。金に困っているわけではないだろうが、自分の生活に金をかける余裕はないのかもしれない。
人通りはなかった。元より、住んでいる人も少ないようだ。
アルティは腰の道具入れから細い金具を取り出し、錠前に差し込んだ。指先に集中する。錠の内部の構造を探り、引っかかりを見つけて、回す。
かちり。
「——入るよ」
扉を押し開けると、薄暗い室内が目に入った。
埃の匂いはしなかった。掃除はされている。だが、生活の匂いが薄い、とアルティは思った。
「断章がないか探します」
リンは杖を取り出し、呪文を詠唱した。
それは彼に任せ、アルティは内部を荒らさないように探り始めた。
入ってすぐの部屋は、居間と台所を兼ねたような空間だったが、台所はほとんど使っている形跡がない。
小さな机と椅子が一脚。棚には最低限の食器と、数冊の本。壁に掛かった外套。それだけだった。
奥に寝室がある。簡素な寝台と、衣装箱が一つ。小さなテーブルに、椅子。枕元の小さな棚に、本が何冊か重ねられていた。
その隣に、一枚の絵が立てかけてあった。
二人の少年が並んで笑っている絵だった。兄の方は少し背が高く、弟の肩に手を回している。子どもが描いたものだとわかる。素朴な筆致だが、描いた人間の愛情が伝わってくるような、そんな絵だった。
アルティはそれを見て、思わず目を逸らした。
「アルティさん」
リンが、居間から声をかけた。低い声だった。
「こっちに——何かあります」
居間の隅に、ぼろ布が広げられていた。リンがそれを指差している。
「この下に、魔法の気配が——微かにですが」
アルティは慎重に布をどかした。床板の一枚が、他とわずかに色が違う。縁を指で探ると、持ち上がった。
その下に、狭い石段が続いていた。
地下は、思ったよりも広かった。
天井は低く、立つとリンは頭を屈めなければならなかった。壁は石を積んだだけの簡素な造りで、小さな魔法の灯りが四つ、部屋の隅にともされていた。消し忘れなのか、それとも常につけているのか。
部屋の片側に、木の棚があった。棚には、革綴じの帳面のようなものが何冊も並んでいた。
反対側の壁は、薄汚れた作業台のような机があった。何かの道具や、小さな瓶が並んでいる。
アルティは棚に近づいた。
一番端の帳面を一冊、手に取った。
表紙に日付が書いてある。四年前のものだった。
開くと、几帳面な文字が並んでいた。日付、対象、魔法の術式、経過時間、結果。一行ずつ、丁寧に書かれている。
結果の欄は、すべて——
「失敗」
アルティは小さく声に出して読んだ。
次の行も、その次も。ページをめくっても変わらない。
「失敗、失敗、失敗——失敗……」
対象の欄には、動物の名前が書かれていた。鼠、兎、猫。
一冊目の終わりに近づくと、文字が少し荒れていた。それでも記録は途切れていない。二冊目に手を伸ばした。三年前の日付。同じ構成、同じ結果。
三冊目。二年前。四冊目。一年前。
何年もだ。何年も、この男はここで、一人で、動物を相手に実験を繰り返していた。
成功は、一度もない。一度も。
ただ、アルティには、そこに書かれた魔法の内容の理解ができない。
「リン」
「断章はないですね——」
リンは作業台の方で、杖を下ろしたところだった。
「ここには、ないです」
「——これ」
アルティは記録帳を開いたまま差し出した。リンが受け取り、数ページをめくった。
リンは、その整った眉を顰めた。
「魔法の理論を——実験して試しているものですね。内容は徐々に変遷していますが——おそらく、再生の研究ですね」
「再生?」
「生き物の体を、元の状態に戻す——あるいは、失われた部分を再び作り出す。そういう魔法の研究です」
「傷を治す魔法とか、そういうのじゃなくて? そういうの、あるよね?」
「神聖魔法の方ではありますが、古代魔法では、傷を治す魔法はほぼないんですよ」
「んん? 神聖魔法と古代魔法……?」
「ええと……詳しく解説しましょうか?」
「いや、ちょっと手短にお願いしていい?」
「手短か——ええとですね、僕みたいな魔法使いが普段使っているのが、古代魔法です。アルティさんが普段目にするのが多いのは古代魔法ですし、みんなが魔法と言ったら、普通は古代魔法を指してます。で——古代魔法では、体や傷を治す魔法はほとんどないし、あまり効果的なものもありません。理論上、難しいんですよ。だから、生命を直接操作するような魔法は、協会でも、王家でも禁じられていますよね」
「あ、禁呪……」
「そうです。よくご存知で」
リンは一息ついて、そして手帳をもう一度めくった。
「——そう、禁忌に近い領域です。これは、再生を、試そうとしている記録です」
アルティは棚に目を戻した。何冊もの記録帳が、年月の順に並んでいる。何年分もの失敗の記録が、几帳面に、一つも欠かさずに。
「弟さんのため、だよね」
アルティが静かに言った。
「……おそらく」
棚の端に、別の束があった。アルティが近づいて手に取る。これも記録帳だったが、中身が違った。
日付と、短い文章だ。
「今日は調子がいいようだ。呼吸が落ち着いている」
「昨日瞼が少し動いたと看護人さんに教えてもらったけれど、自分には見せてくれない」
「体がかたまらないように、屈伸を頑張る」
……だが、先に進んでいくうちに、短くなっていく。
「変化なし」
「今日も変化なし」
「変化なし」
——繰り返し。何年分も。弟の経過記録だった。
アルティは、そっと記録帳を棚に戻した。手が少し震えていた。
「アルティさん、こちらに」
作業台の端に、他とは明らかに違う紙の束があった。
紙質が新しい。記録帳の古びた紙とは違った。まだ綴じる前の紙なのだろう。
そして、内容も違った。ただの記録ではなく、興奮した走り書きのようなものだった。
何かの理論を、自分の研究と照合しているようだった。矢印や図が書き殴られ、余白に「これだ」「合う」といった走り書きが散っている。
その中に、日付の入った短いメモがあった。
日付は——10日前。
「これ……」
アルティの声が掠れた。
10日前。テディが鑑定所を訪れた後だ。
リンがアルティの肩越しにそれを読んだ。
長い沈黙があった。
「時系列は、合う……」
「アルティさんは、その……探している断章の内容って知っていますか?」
アルティは黙って、首を横に振った。
本当だ。自分は魔法のことはわからないから、内容を聞いていない。聞かなかった。
聞かなかったことを、後悔した。
「……なんにしろ、断章は、ここにはありません」
リンが言った。部屋を一通り確認した結果だった。
「持ち歩いてるのかな……」
「おそらくは。手放せないんでしょう」
何年も失敗し続けた研究に、初めて理論的な裏付けを与えてくれたもの。手放せるはずがない。
その時、リンの目が、ふっと上を向いた。
「——出てきた」
「え?」
「感知に反応がありました。治療院を出てきた。おかしいですね、まだ時間はそんなに経ってないと思うんですが……」
アルティは作業台の紙を元通りに戻した。記録帳も、棚の元の位置に。
元に戻すことを想定して動いていた。大きくものは動かしていない。
「行こう」
石段を上がり、床板を戻し、布を掛けた。
寝室を確認し、居間を通り、玄関の扉を開ける。
幸い、通りに人はいなかった。
「鍵を——」
「無理かも。どうする?」
「——やめておきましょう。閉め忘れたと思ってくれる方にかけた方がいい」
「でも」
「鍵を覗き込んでる姿を見られたくなければ」
アルティは鍵を一瞬だけ見たが、頷いた。
扉を閉めると治療院とは反対方向に歩き出す。振り返らなかった。
角を2つ曲がったところで、アルティは壁に手をついた。
息が荒い。走ったわけでもないのに、心臓が早鳴りしていた。
「……大丈夫ですか」
「うん」
大丈夫じゃなかった。
あの記録帳の山が、目に焼きついていた。何年分もの失敗。それでもやめられなかった男。弟のために。
そして、最後に見た走り書き。
「ごめん、ちょっと考えがまとまらない。一旦宿に帰ろう」
「そうですね。——ここで話す内容でもないでしょう」




