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七賢者の涙  作者: 相川晴(HAL)
第一部
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21/53

第7章 失敗②

 翌朝。

 空がまだ白みきらない頃に宿を出た。

 通りにはまだ人気がなく、石畳が朝露で湿っていた。

 アルティはセドリックの家の近くで、路地の角に身を寄せて待った。朝の空気は冷たかったので、マントの端を引き寄せた。

 朝の日差しがかじかんだ手を温め出した頃、セドリックの家の扉が開いた。

 外套を羽織り、鞄を肩にかけたセドリックが出てくる。昨日と同じ格好だった。扉に鍵をかけ、通りに出ると、北へ向かって歩き始めた。治療院の方角だ。

 その背中が角を曲がって完全に見えなくなるまで、アルティはじっと動かなかった。


「どうですか?」


 反対側の路地からリンが姿を現した。


「こっちは行ったよ。感知の魔法は?」

「仕掛けてきました。まだ治療院には着いてないですね」


 頷き合ってから、二人はセドリックの家の前に立った。

 朝の光の中で見ると、昨夜よりも家の質素さが際立った。壁の漆喰に小さなひびが入っている。窓枠の塗装が剥がれかけている。金に困っているわけではないだろうが、自分の生活に金をかける余裕はないのかもしれない。

 人通りはなかった。元より、住んでいる人も少ないようだ。


 アルティは腰の道具入れから細い金具を取り出し、錠前に差し込んだ。指先に集中する。錠の内部の構造を探り、引っかかりを見つけて、回す。

 かちり。


「——入るよ」


 扉を押し開けると、薄暗い室内が目に入った。

 埃の匂いはしなかった。掃除はされている。だが、生活の匂いが薄い、とアルティは思った。


「断章がないか探します」


 リンは杖を取り出し、呪文を詠唱した。

 それは彼に任せ、アルティは内部を荒らさないように探り始めた。

 入ってすぐの部屋は、居間と台所を兼ねたような空間だったが、台所はほとんど使っている形跡がない。

 小さな机と椅子が一脚。棚には最低限の食器と、数冊の本。壁に掛かった外套。それだけだった。

 奥に寝室がある。簡素な寝台と、衣装箱が一つ。小さなテーブルに、椅子。枕元の小さな棚に、本が何冊か重ねられていた。


 その隣に、一枚の絵が立てかけてあった。

 二人の少年が並んで笑っている絵だった。兄の方は少し背が高く、弟の肩に手を回している。子どもが描いたものだとわかる。素朴な筆致だが、描いた人間の愛情が伝わってくるような、そんな絵だった。

 アルティはそれを見て、思わず目を逸らした。


「アルティさん」


 リンが、居間から声をかけた。低い声だった。


「こっちに——何かあります」


 居間の隅に、ぼろ布が広げられていた。リンがそれを指差している。


「この下に、魔法の気配が——微かにですが」


 アルティは慎重に布をどかした。床板の一枚が、他とわずかに色が違う。縁を指で探ると、持ち上がった。

 その下に、狭い石段が続いていた。



 地下は、思ったよりも広かった。

 天井は低く、立つとリンは頭を屈めなければならなかった。壁は石を積んだだけの簡素な造りで、小さな魔法の灯りが四つ、部屋の隅にともされていた。消し忘れなのか、それとも常につけているのか。

 部屋の片側に、木の棚があった。棚には、革綴じの帳面のようなものが何冊も並んでいた。

 反対側の壁は、薄汚れた作業台のような机があった。何かの道具や、小さな瓶が並んでいる。


 アルティは棚に近づいた。

 一番端の帳面を一冊、手に取った。

 表紙に日付が書いてある。四年前のものだった。

 開くと、几帳面な文字が並んでいた。日付、対象、魔法の術式、経過時間、結果。一行ずつ、丁寧に書かれている。

 結果の欄は、すべて——


「失敗」


 アルティは小さく声に出して読んだ。

 次の行も、その次も。ページをめくっても変わらない。


「失敗、失敗、失敗——失敗……」


 対象の欄には、動物の名前が書かれていた。鼠、兎、猫。

 一冊目の終わりに近づくと、文字が少し荒れていた。それでも記録は途切れていない。二冊目に手を伸ばした。三年前の日付。同じ構成、同じ結果。


 三冊目。二年前。四冊目。一年前。


 何年もだ。何年も、この男はここで、一人で、動物を相手に実験を繰り返していた。


 成功は、一度もない。一度も。


 ただ、アルティには、そこに書かれた魔法の内容の理解ができない。


「リン」

「断章はないですね——」


 リンは作業台の方で、杖を下ろしたところだった。


「ここには、ないです」

「——これ」


 アルティは記録帳を開いたまま差し出した。リンが受け取り、数ページをめくった。

 リンは、その整った眉を顰めた。


「魔法の理論を——実験して試しているものですね。内容は徐々に変遷していますが——おそらく、再生の研究ですね」

「再生?」

「生き物の体を、元の状態に戻す——あるいは、失われた部分を再び作り出す。そういう魔法の研究です」

「傷を治す魔法とか、そういうのじゃなくて? そういうの、あるよね?」

「神聖魔法の方ではありますが、古代魔法では、傷を治す魔法はほぼないんですよ」

「んん? 神聖魔法と古代魔法……?」

「ええと……詳しく解説しましょうか?」

「いや、ちょっと手短にお願いしていい?」

「手短か——ええとですね、僕みたいな魔法使いが普段使っているのが、古代魔法です。アルティさんが普段目にするのが多いのは古代魔法ですし、みんなが魔法と言ったら、普通は古代魔法を指してます。で——古代魔法では、体や傷を治す魔法はほとんどないし、あまり効果的なものもありません。理論上、難しいんですよ。だから、生命を直接操作するような魔法は、協会でも、王家でも禁じられていますよね」

「あ、禁呪……」

「そうです。よくご存知で」


 リンは一息ついて、そして手帳をもう一度めくった。


「——そう、禁忌に近い領域です。これは、再生を、試そうとしている記録です」


 アルティは棚に目を戻した。何冊もの記録帳が、年月の順に並んでいる。何年分もの失敗の記録が、几帳面に、一つも欠かさずに。


「弟さんのため、だよね」


 アルティが静かに言った。


「……おそらく」


 棚の端に、別の束があった。アルティが近づいて手に取る。これも記録帳だったが、中身が違った。

 日付と、短い文章だ。


「今日は調子がいいようだ。呼吸が落ち着いている」

「昨日瞼が少し動いたと看護人さんに教えてもらったけれど、自分には見せてくれない」

「体がかたまらないように、屈伸を頑張る」


……だが、先に進んでいくうちに、短くなっていく。


「変化なし」

「今日も変化なし」

「変化なし」


——繰り返し。何年分も。弟の経過記録だった。

 アルティは、そっと記録帳を棚に戻した。手が少し震えていた。


「アルティさん、こちらに」


 作業台の端に、他とは明らかに違う紙の束があった。

 紙質が新しい。記録帳の古びた紙とは違った。まだ綴じる前の紙なのだろう。

 そして、内容も違った。ただの記録ではなく、興奮した走り書きのようなものだった。

 何かの理論を、自分の研究と照合しているようだった。矢印や図が書き殴られ、余白に「これだ」「合う」といった走り書きが散っている。

 その中に、日付の入った短いメモがあった。


 日付は——10日前。


「これ……」


 アルティの声が掠れた。

 10日前。テディが鑑定所を訪れた後だ。

 リンがアルティの肩越しにそれを読んだ。

 長い沈黙があった。


「時系列は、合う……」

「アルティさんは、その……探している断章の内容って知っていますか?」


 アルティは黙って、首を横に振った。

 本当だ。自分は魔法のことはわからないから、内容を聞いていない。聞かなかった。

 聞かなかったことを、後悔した。


「……なんにしろ、断章は、ここにはありません」


 リンが言った。部屋を一通り確認した結果だった。


「持ち歩いてるのかな……」

「おそらくは。手放せないんでしょう」


 何年も失敗し続けた研究に、初めて理論的な裏付けを与えてくれたもの。手放せるはずがない。

 その時、リンの目が、ふっと上を向いた。


「——出てきた」

「え?」

「感知に反応がありました。治療院を出てきた。おかしいですね、まだ時間はそんなに経ってないと思うんですが……」


 アルティは作業台の紙を元通りに戻した。記録帳も、棚の元の位置に。

 元に戻すことを想定して動いていた。大きくものは動かしていない。


「行こう」


 石段を上がり、床板を戻し、布を掛けた。

 寝室を確認し、居間を通り、玄関の扉を開ける。

 幸い、通りに人はいなかった。


「鍵を——」

「無理かも。どうする?」

「——やめておきましょう。閉め忘れたと思ってくれる方にかけた方がいい」

「でも」

「鍵を覗き込んでる姿を見られたくなければ」


 アルティは鍵を一瞬だけ見たが、頷いた。

 扉を閉めると治療院とは反対方向に歩き出す。振り返らなかった。

 角を2つ曲がったところで、アルティは壁に手をついた。

 息が荒い。走ったわけでもないのに、心臓が早鳴りしていた。


「……大丈夫ですか」

「うん」


 大丈夫じゃなかった。

 あの記録帳の山が、目に焼きついていた。何年分もの失敗。それでもやめられなかった男。弟のために。

 そして、最後に見た走り書き。


「ごめん、ちょっと考えがまとまらない。一旦宿に帰ろう」

「そうですね。——ここで話す内容でもないでしょう」

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