第7章 失敗①
鑑定所の斜め向かいに、果物を並べた屋台があった。
アルティはそこで林檎を二つ買い、一つをリンに渡した。屋台の脇の石段に腰を降ろすと、鑑定所の入口がちょうど見える。
日が傾き始めていた。通りを歩く人の影が長くなり、建物の壁が橙色に染まっている。
酸味の強い林檎を齧りながら待つこと、小半時ほどだっただろうか。
鑑定所の扉が開き、セドリックが出てきた。
地味な長衣の上に外套を羽織り、革の鞄を肩にかけている。昼間の応接室で見た時よりも、猫背が目立った。疲れているのか、俯きがちに歩いている。
セドリックは通りに出ると、北に向かって歩き始めた。自宅の方角ではない。
「行こう」
アルティは林檎の芯を屋台の屑箱に放り込み、立ち上がった。
二人の尾行は、さほど難しいものではなかった。セドリックは一度も後ろを振り返らなかった。周囲を警戒する様子もない。ただ、足早に、一つの場所を目指して歩いていた。
北の街区を抜け、城壁に近い地域に入ると、道幅が少し広くなった。通りに面した建物は、商店ではなく、落ち着いた造りの施設が多い。石壁に蔦が這い、庭木が通りにはみ出していた。
セドリックは、その一つの建物の前で足を止めた。
門柱に小さな看板が掛かっている。距離があって文字は読めなかったが、建物の佇まいと、出入りする人々の様子から察しがついた。
——治療院だろう。
セドリックは門を潜り、中に消えた。
「病気……でもあるのかな」
「どうします? ここで待ちましょうか」
リンが言った。
「うん。あ、でも……ちょっと見張っててくれる? どんなとこなのか、ちょっとその辺で聞きこみしてくるよ」
リンは頷いた。
治療院の向かいには、小さな雑貨屋があった。軒先に日用品や小物が並んでいる。銅の鍋、小さなお皿、藤の籠。あまり客は来ないのかもしれない。店番の老婆が椅子に座って編み物をしていた。
アルティは店先の品物を眺めるふりをしながら、声をかけた。
老婆は話好きだった。
向かいの治療院のことを聞くと、堰を切ったように話し始めた。長くやっている治療院で、重い病や怪我の患者を受け入れていること。入院もできるため、とても有り難がられていること。
話があちこちに逸れていきそうになるのを、アルティは必死で何度も引き戻しつつ話を続けると、入院している患者の中には、もう何年も意識が戻らない若い男がいる話に辿り着いた。
「可哀想にねえ。まだ若いのに。溺れた小さな子を助けようとして、自分も溺れたってね……そこから意識が戻らないままなんだよ」
老婆は編み棒を握りしめながら、顔を曇らせた。
「それはいつ頃の話なの?」
「いつだったかねえ、もう随分前だよ。確か隣のじいさんが孫娘の結婚式で着る服がないからって大騒ぎして」
「うんうん、それっていつ頃?」
「ああ、そうそう、ええと……10年くらい前かねえ……しばらく見舞いに行く人もたくさんいたんだけど、意識が戻らないから、みんな辛くなってねえ——でもね、お兄さんがね、毎日のように通ってるんだよ」
「お兄さんがいるの?」
「そうさ。ああ、ついさっき通り過ぎるのを見たよ」
兄。
それは——セドリックのことではないか?
「ほとんど毎日来てるよ。仕事のある日は仕事のあとに、仕事のない日は何時間も」
「……毎日?」
「ああ。朝来て、昼過ぎまでいることが多いかねえ。それから帰って行くよ。真面目な人だよ、本当に。私みたいなおばあちゃんにも、いつも挨拶してくれる。酒を飲むところも見たことがない。あの子のことだけで生きてるみたいでね……」
老婆は目を細めた。
「でも、顔色もよくないし、あの人の方が倒れやしないかと心配になるよ……」
アルティは、これ以上話を聞いてはいけないような気持ちになっていた。
老婆に礼を言って店を離れると、リンが通りの反対側で壁にもたれて待っていた。
アルティは聞いた話を手短に伝えた。
リンは、ただ黙って、聞いていた。ただ静かに、治療院の門を見ながら。
セドリックが治療院の門から出てくるまで、あまり時間はかからなかった。治療院も終わり間際の時間だったのだろうか。
行きよりもさらに疲れた顔をしているように、アルティには見えた。鞄の紐を握る手に、力がない。
傾いた陽の中、セドリックは来た道を戻り始めた。二人はまた、距離を取って後を追った。
途中、酒場の前を通り過ぎた。中から笑い声と食器の音、窓からはいい匂いのする湯気が漏れていた。セドリックは目もくれずに通り過ぎた。
その姿に、老婆が言っていた言葉が胸をよぎった。
大通りから細い路地に折れると、通りの様子が変わった。
人の気配が薄い。軒先に道具を広げた跡や、壁に煤の染みた換気口が残っているのに、どの家も静まり返っている。かつては職人が住んでいた一角なのだろう。鍛冶か、染物か——作業場のあった家が並んでいたのだと思えば、この古びた建物の造りにも納得がいく。
今はその職人たちも去ったようで、空き家が目立つ。窓板を打ちつけたままの家もあった。人通りもほとんどない。
二人は静かに歩を進めた。
もう一度角を曲がると、セドリックは二階建ての古い家の前で立ち止まった。鍵を出して、扉を開け、中に入った。
一階の窓に、淡い明かりが灯った。
質素な家だった。壁の漆喰は手入れされているが、飾り気はない。窓は小さく、庭もない。隣の家は空き家のようだった。
一人で住んでいる男の家だ。——家族の、弟のいない家。
「……行こう」
「夜の様子は確認しなくていいですか?」
リンが問いかけたが、
「——多分、もう出てこないよ」
アルティは踵を返した。
二人は宿に向かって歩き始めた。もう日は沈んでいた。通りに魔法の街灯がぽつぽつと灯り、石畳を薄く照らしている。
「ねえ、リン」
「はい」
「あの人のこと、どう思う」
リンはしばらく答えなかった。静かな足音だけが聞こえた。
「嘘をついている可能性は、まだあると思います。それはまた、別の話でしょう」
「うん。でも——」
「わかってます」
リンの声は静かだった。
「あまり楽しくない仕事になりそうですね」
アルティは黙って歩いた。
尾行をしている間、ずっと考えていた。セドリックの背中を見ながら。あの猫背の背中を、人ごみの中で見失わないように追いかけながら。
もしこの人が本当に断章を隠しているのだとしたら、それはなんのためなのだろう。金のため? 出世のため?
あの背中は、そういうものとは、あまりにもかけ離れているように見えた。
「——セドリックが仕事の日まで待てないから、明日の朝、あの人が治療院に行った後に入る。いい?」
「ええ。段取りを決めましょうか」
「セドリックが家を出るのを確認してから動く。リンには外で見張ってほしいんだよね」
「僕も一緒に入った方がよくないですか?」
「それはそうだけど、見張りがいないと流石に……」
「——じゃあ、治療院のところに魔法を仕掛けておきましょうか。出てきたところがわかればいいんですよね」
「そんなことができるの?」
「はい。家の付近にしかけるとセドリックに気づかれるかもしれませんが、まあ治療院のところならバレないでしょう」
リンの言う理屈はよくわからなかったが、まあ、この男がそう言うのであれば、そうなのだろう。
「じゃあ、リンも一緒に入って」
「わかりました」
「セドリックが戻ってきそうになったら、すぐに合図を出して。その時点で切り上げる。何があっても」
「了解です」
宿が見えてきた。通りの向こうに、見覚えのある看板が、きい、きいと風に揺れている。
「朝早く出ないと……そうだ、リンは宿どうしてるの?」
「今日の分はまだ決めてないですね」
「じゃあ、うちと同じとこにする? あそこ。空きがあればだけど」
「そうですね、その方が明日が楽です」
リンが頷いた。
「ねえ、リン」
「はい」
「あの人が悪い人じゃなかったとしても——断章があったら、回収するからね」
「そうですね」
「もし本当にセドリックが持っていて、なにか事情があったとしても——それでも、回収するよ」
アルティはリンに話しかけながら、本当は自分自身に言い聞かせているのだと気づいていた。
「それが、アルティさんの仕事なんでしょう?」
「うん」
アルティは小さく頷いた。
「それでいいと思いますよ」
「——うん」
もう一度頷いて、宿の扉を押した。




