別離
『祭典』の前日だった。
ムザブは母姉のような『鳥籠』の女達を一人ずつ抱きしめた。
抱きしめて慰めることしか今の彼には出来なかった。
だから、せめてムザブは己の記憶に深い深い憎悪と共に刻み込んだ。
赤ん坊のムザブが喋って、よちよち歩くだけで喜んでくれた。
毎日の食事を作ってくれた。
彼の服を洗って、風呂に入れて、喧嘩で怪我を負っていれば手当てしてくれて、『あまり悪いことはしちゃ駄目よ』とムザブの鼻をつついた。
母が恋しくて涙が出る夜に優しく抱きしめて、一緒に眠ってくれた。
彼を心から愛して育んでくれた彼女達が、これから女にとっても最も酷い方法の一つで殺されていく。
魂と尊厳を土足で幾度も踏みにじられて。
ただ産むためのモノとして扱われて。
助けてと叫んでも無かったことにされる。
俺だけは忘れない。
忘れる時は死んだ後だけだ。
平然とやって来た『祭典』の日。
まず彼女達の目の前で、『鳥籠』の裏庭の碑石に名前が刻まれた。
その跡に催された、生贄を捧げるお祭りの中で、ムザブは【天竜族】と初めて相対する。
檀上の席で贅沢な饗応を受けていたのは、ボロボロの、しかも統一性の無い服装を着た男達であった。
ムザブは好奇心旺盛な子供のふりをして、【天竜族】の近くをうろついた。
目敏い彼は、用を足しに行った【天竜族】に近付いて声をかけたのだった。
「空を飛べるんだろ?」
「はあ?」
その【天竜族】の中でも一際目立つ、大柄な体躯の男は小便をしながら、面倒そうにムザブを見下ろす。
ムザブは殺意と復讐心を隠し通して、無邪気に訊ねた。
「飛べるなんて凄いな! どうやって飛ぶんだ!? その翼で飛ぶのか!?」
男の蛇めいた顔に、無知で下等な弱者への絶対的で覆らぬ哀れみと、そこから滴る愉悦によって戦化粧のごとく彩られた侮蔑がゆっくりと浮かんだ。
「そんなに知りたいか?」
「だって、だって凄いだろ!?」
明らかにムザブは子供だった。
見た目も中身も、ちっぽけな子供であった。
既にその魂に永劫の烙印のごとく【天竜族】への憎悪と復讐を焼き付けてあったとは思えないくらいの、幼い子供であった。
「俺様達にはな、ほら、ここに『逆鱗』があるんだ」
そう言って男は己の喉元を指差した。
確かに、一枚だけ色の違う鱗がある。
「ここに魔力を込めると、ほら、こうやって飛べるんだよ」
鱗が光ると、男の体が宙に浮かんだ。
「わあー! 俺も飛びたいなあ!」
「人間は飛べないさ。 精々、地べたを這いずって俺様達に女を差し出せばいい」
覚えていろ。
貴様らに後悔させてやる。
俺が。
この俺が必ず貴様らを打倒してやる!
しかしムザブは、今はあくまでも愚かで無垢な少年のふりをとことん貫いた。
「でも、俺だってこうすれば飛べるぞ!」
ぴょんぴょんとその場で何度も跳ねると、男はゲラゲラと涙が出るくらいに笑ったのだった。
「何て馬鹿だ! 本当に人間は馬鹿で可哀想だぜ! 【天馬】しか、俺様達に敵う相手なんていないのによお!」
何も奇跡など起こらないまま『祭典』は終わりを迎え、ムザブを実の家族のように愛してくれた女達は全て連れて行かれた。
「おふくろ……」
がらんとした『鳥籠』の館に帰ってから、ムザブは暴れながら泣いた。
「悔しいよお、悔しいよお! 悔しいよお! 俺は悔しいよお!!!!」
「お黙り!」
暴れるムザブの頬を張り飛ばし、ビーラは怒鳴りつけた。
「何も出来なかったヤツが今頃悔しいなんて泣いた所で何の価値がある! あたしらはこうやって生きていくしか無いんだ!」
女達を生贄に差し出すのは、ビーラは二度目である。
内心では、『鳥籠』の管理人の仕事と、『祭典』の繰り返しに慣れつつある己が許せない。
それでも無理にでも慣れていかねば彼女はこの地では生きていけない。
そうやって生きていくことを拒んだ者は軒並み死んだか殺された――それくらいの年月が過ぎてしまったのだ。
諦めて生きていくことを彼女だって受け入れつつあるのだ。
「おふくろ……」
ムザブは呆然と叩かれた頬に手をやったが、やがてニヤリと笑った。
悪童らしく獰猛に。
否、狂犬じみた笑みだった。
「もうしばらくだけ生きていてくれ。 必ず俺が【天竜族】を追い払ってやるからさ」




