雌伏
ウルガンドの父は、首筋に少しの鱗が覗いている以外は人間と変わらなかった。
ウルガンドによく似ていて、さぞや若い頃は女から持てはやされたであろう容姿をしている。
彼も既に事情を知っていて、落ち着いた様子で話してくれた。
「殿下、一つだけ誤解をなさっているようです。 かの霊峰は上層、中層、下層の三層に分かれておりまして、下層には霊峰と神々のための小さな神殿があるのです。 あの神殿までならば、女子供でも容易に到達可能でしょう」
ムザブはしっかりと頷いて、更なる話の続きを友人の父に促した。
「ですがその先は人間では決して踏破できません。 何故かと申しますと、霊峰の中層は地続きの山ではなく、空中に岩が寄り集まって浮かんでいる浮遊岩礁帯だからです。 それこそ空を飛べねば雪の冠の下に緑の野が広がる上層には……たどり着けないでしょう」
己はあくまでもその神殿に詣でたに過ぎないのだ、と彼は語った。
それでも、とムザブは思う。
あのまま隙を見つけて帝都から抜け出し、霊峰クォルタスへ突撃していたであろう己の無謀を思えば、この情報は大きな進展である。
「そこで【天馬】らしい何かを見かけなかったか? 何でも手掛かりが欲しいんだ」
ウルガンドの父はしばらく遠い記憶を探っていたが、
「そう言えば、程度ですが……。
殿下もご存じのように、神殿の参道の左右には、魔除けとして対の霊獣の像が飾られております。 あの神殿の左右には翼の生えた馬の像が飾られておりました。 ……今思えば、あれが【天馬】の姿だったのでしょうか」
ここで背後に控えていたウルガンドが手を挙げる。
「父上。 人間が決して登れないはずなのに、どうして霊峰の上層の様子が伝わっているのですか?」
確かにそうだ。
頂を雪が覆っている下には実は緑の野が広がっているなんて、実際に目にした者でなければ絶対に分かる情報ではない。
そうなのだ、とウルガンドの父もその謎は素直に認めた。
「そう伝わってはいるが、実際は分からない。 もしかすれば、運よく【天馬】に乗れた人間が上層を見たのかも知れぬが……」
「そう、ですか……」
ウルガンドは落胆した様子だったが、仕方ないとムザブは割り切った。
今できることは他にあるかも知れないのだ。
「忙しいところに悪かったな。 話してくれて助かったよ」
「おじうえー! あしょんでー!」
最近はやんちゃな悪戯坊主になって女官や宦官を困らせてばかりになったケンドリックは、悪戯の師匠である叔父ムザブに構って欲しくなってこっそりと遊びに行った。
ムザブは本の山に埋もれるようにして昼寝していたが、ケンが何度か尻を叩くと目を覚ます。
「ん……? おう、ケンか!」
ニマーっと悪い笑いを顔に浮かべて、ムザブは周囲を見渡した。
良し、邪魔をする者達はいなさそうだ。
「では早速、悪戯の計画を練り上げるとしようか!」
「あい!」
と勢いよく返事した小さな破壊神の頬っぺたが背後からムキュッ!とつままれる。
「こらっ!」
ルシアテだった。
お昼寝の時間だったのに密かに抜け出したケンに気付いて、追いかけてきたのだった。
「わあ! ははうえー!」
ケンは母親の胸に飛び込んで甘えた。
「ケン、悪戯はいけないわよ?」
「ごめんなちゃい! えへへー!」
幸せな母子の姿を見つめながらも、ふとムザブはリーセルブルユを思い出す。
幾ら水をかけようとも燃え上がるばかりの憎悪と共に。
彼も『鳥籠』の女達にこうやって甘えたのだ。
「どうすりゃいい……」
「ちちうえ! ちちうえー!」
仕事で疲れ切って【胡蝶宮】に項垂れながら帰ってきたモルガを出迎えたのは、我が子をその腕に抱いている愛する妻だった。
「あのね! ちちうえ、きょう、すうじおぼえたの。 ぼく、けいさんしたの! えっへん!」
「ケンは凄く頑張ったの。 貴方、どうか褒めてやって下さいな」
「ああ…………」
また寵姫達から嫌味と毒のある言葉を言われ、父や兄の我儘と無関心に振り回された。
仕事は山のようで、やっと一つ片付けたと思ったら十は増える。
いつもと大して変わらぬ、酷く散々な一日だったはずなのに――そんなものはたちどころに消し飛んだ。
モルガは片手で何度も我が子の頭を撫でる。
何度も何度も、優しく撫でる。
今日は何て、何て良い日なのだろうか!
「頑張ったな! 本当に良くやったな! ケンが私の子で、私は世界一に幸せだよ……!」
ムザブも加わって、四人は食卓を囲んだ。
皇族にしては質素で、けれど温もりのある食卓であった。
「もう体調も問題ないし、ケンの皇族教育も始まったから、少しずつ私も公務に戻ろうかと思っているのだけれど……」
他愛ない会話をしている折に、ルシアテが言った。
モルガは少し嬉しそうに頷いて、
「助かるよ。 実はシロナサが抜けた分、困っていたんだ。 けれど決して無理はしてはならないよ?」
「もう」と彼女は呆れた様子で、「貴方は私に対してあまりにも過保護よ?」
「そんなことは無いさ。 なあケン、父様は母様のことが大好きなのだぞ。 私の妻なのだぞ。 絶対に誰にも渡さないからな!」
またやっていやがる、とムザブは呆れた。
モルガの唯一の欠点は、ルシアテが関わると途端に我儘で甘えた男になってしまうことだ。
案の定、ケンは泣き出した。
「ぼくもー! ははうえだいすきー! ずるいー! ちちうえずるいー!」
「駄目だ! 悔しかったらケンも結婚しろ! 結婚は本当に良いものだぞ!」
「うわーん! ずるいー!」
いい加減にしろよ……。
自分の息子相手に何度も何度も下らないことやっているんじゃねえよ。
口の中に甘ったるい変な味が広がった気がして、ムザブは水を飲んだ。
「こらっ!」
ルシアテは素早くケンを抱き寄せて泣き止ませると同時に、机の下でモルガの足を蹴飛ばした。
「ぐっ! そんな、ルシアテ……っ!」
泣きそうな顔をする三十路の男を冷めた顔で見やりながら、ムザブは先に食べ終えて席を立った。
「……御馳走様」
ムザブの顔つきがいつもと違うようだったので、無様に拗ねていたモルガも我に返る。
「どうした、ムザブ?」
「熱々の惚気を食わされて口がおかしくなったんだよ」
それだけ言い残してムザブは部屋に引きこもった。
――ラーレルカイトウの地図と地形図は飲み込むがごとく暗記した。
【天竜族】についても調べ尽くした。
その社会、心理、軍事、全て最新の情報を手に入れている。
ラーレルカイトウに絶対的に勝てる戦略もこの数年かけて練り上げた。
なのにだ、未だに最後にして最大の駒がまだ欠けているのだ。
【天馬】!
ムザブは胸元の木の指輪を強く握りしめた。
「畜生……!」




