出産
真夜中に目が覚めたルシアテは大きな腹を抱えて用を足しに行ったのだけれど、その帰りにムザブの居室の窓から明かりがこぼれていたので驚き、悪いことだとは分かっていたのだが思わずそっと扉から覗いたのだった。
「……ムザブ」
数か月前、入学初日で大騒動を起こした少年と同一人物とは思えない。
今のムザブは教本と、帝国城の蔵書庫から借りてきた本に埋もれるようにしてまだ勉強をしていた。
「何だ!? 義姉さん、こっそり開けるんじゃねえよ!」
少年は怒ったし、それと同じくらいに驚いていた。
「ごめんなさいね。 でもあまり無理しないで。 どうか体を大事にしてね」
そう言ってムザブの頭をそっと撫でると、いきり立っていたムザブが一瞬でとろける。
「……なあ、義姉さん。 子を産むことが怖くないのか?」
撫でられて喜ぶ犬のような顔をして、けれど瞳には悲しみを隠して、彼は呟いた。
この数か月で体は大きくなっても可愛い義弟のままだわ、とルシアテは微笑んだ。
「本当は怖いわよ。 でもね、この子に会えると思ったら待ち遠しくもあるの。 それに、誰よりもお慕いしているモルガ様の御子、ずっと欲しかったから……」
「そうか。 兄貴は本当に良い夫人を貰ったもんだ。 兄貴には勿体ないくらいだな!」
「こら」きゅっ!とムザブの鼻をつまんでお仕置きしてから、彼女は目を伏せた。「……聞いたわ、ラーレルカイトウの国境付近で何が起きているのか……」
『鳥籠』のことを思い出した瞬間に、ムザブは【狂犬】の顔で激怒した。
「誰が話したんだよ!? 身重の義姉さんに聞かせていい話じゃねえだろうが!」
狂犬かも知れないけれど他愛なくて可愛らしいわ。
穏やかにルシアテは微笑んだ。
この少年はしっかりと感情を表に出して、相手構わず吠えたり噛みついたりするけれど、後宮の女人達のように、言葉にまでトゲと毒を盛ろうとしない。
彼女の愛する夫の優しさとは方向性が違うけれど、人を思いやる温かみは持っているのだ。
「この帝国城では、なかなか隠し事は出来ないのよ。 でも気遣ってくれて有難うね」
ふて腐れた顔でムザブはそっぽを向き、舌打ちした。
「何だよ……礼なんて要らねえよ……」
「……っ!」
が、突如ルシアテが腹を抱えてその場にうずくまった。
「おい!? どうしたんだよ! おい、義姉さん!?」
ムザブは椅子を蹴り倒すようにして立ち上がり彼女を支える。
ルシアテに付いてきた女官が慌てて彼女に駆け寄ってきたのに、ルシアテは半ば呻き声で答える。
「生まれる、兆しが……!」
「ムザブドリック皇子殿下!」女官の動きは迅速だった。「【胡蝶宮】の控えの間に医者が待機しておりますので、呼んできてはいただけませぬか!」
「わ、分かった!」
返事もそこそこにムザブは脱兎のごとく走り出す。
数分しない内に青い顔をしたモルガと医者と女官達が押し寄せてきて、担架でルシアテを運んで行った。
夜明けが来た頃、【胡蝶宮】に産声が響き渡った。
「元気な男児でございます」
医者の一人がそう告げようと部屋から顔を出したのに、目の前でモルガとムザブが取っ組み合っていたので笑顔のまま表情を引きつらせる羽目になった。
「で、殿下がた……?」
モルガは産声を聞いてようやく大人しくなったムザブを手放す。
「気にするな。 【狂犬】があまりにも暴れるので抑えていたところだ。 ――その、そんなことよりも!」
「ええ、お聞きの通りに健やかな皇子殿下でございまする。 ルシアテ様もお元気であらせられまする」
モルガはどうにか椅子に座り込んで、ほう、と安堵の息を漏らした。
「ですがもうしばらくご面会はお待ち下さいませ。 ルシアテ様もお疲れでございます故……」
「うむ、うむ、分かった」
ややあって、中年の女官が微笑みながら進み出て、大事に大事に腕にモルガの息子を抱いて姿を見せる。
「……あ」
モルガは可能な限り優しく、大事に、産まれたばかりの息子を抱いた。
何よりも愛しい小さな命がそこにあった。
「あああ……」
ボロボロと自然に涙がこぼれて、慌てて彼は天を向いた。
「産んでくれて、産まれてくれて、有難う、有難う……!!!」
そのままモルガは泣きじゃくった。
暴れ疲れたムザブでさえその光景にもらい泣きしそうになり、急いで舌打ちをしたり顔をしかめたりしたのだった。
……三年かけて、古い書物に記されていたのをようやくムザブは見つけた。
「【天馬】……」
かつて彼が愚かな子供のふりをして手に入れた情報の一つが、その書物には詳しく語られていた。
天翔ける力を持つ、いわゆる霊獣の一種である。
知能と気位が非常に高く、数百頭前後の群れで生活していたらしい。
その群れのリーダーは人間の言葉すら理解して操るが、常に人間を見下すので滅多に従わない。
ラーレルカイトウ北部の草原で生活していたが、その草原の支配を巡って【天竜族】と激しく争ってから所在不明……。
「クソ!」
ムザブは苛立って書物をぶん投げようとしたが、思い直して最後まで読むことにした。
この書物が書かれたのは【七義帝】の時代が始まる前である。
【七義帝】――有能で偉大な皇帝が七代続いたので、【七義帝】と呼ばれているのだ。
そうだ。
優秀なことで知られる彼ら彼女らが、ただ屈辱的にラーレルカイトウに貢ぎ物をするだけだったとは思えない。
背後では、何らかの対抗手段を模索していたと見るべきだ。
しかし【天馬】なんて真っ先に名が上がりそうなのに、どうしてこんな古い書物にしか記載が無かったのか?
「……機密事項」
彼はようやくそこに気付いた。
とすれば、帝国城の武官文官で年かさの者なら知っている可能性が出てきた!
「兄貴の伝手を使うか」




