見える
国立医療センターの検査室で、主治医の田中は画像を見ながら首を傾けた。
三度見た。結果は変わらなかった。
「水無瀬さん」と田中は言った。「少し確認させてください。今、デバイスなしで、私の顔が見えますか」
「はい」と芙由は言った。「白衣を着た人が、椅子に座っています」
「私の顔は」
「眼鏡をかけています。少し疲れた顔をしています」
田中は眼鏡を触った。
「正確です」と田中は言った。「信じられませんが、正確です」
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画像を同僚に見せた。
「これを見ろ」と田中は言った。
同僚が画面を見た。
「視覚野の周辺だな」と同僚は言った。「これは——」
「デバイスの信号を取り込もうとしていたニューロンが、アポトーシスしている」と田中は言った。「デバイスが不要になったと判断したんだ」
「脳が、自分でデバイスを切り離した」
「そうです」と田中は言った。「代わりに、視覚野そのものが再構成されています。デバイスなしで機能するように」
同僚が画像から顔を上げた。
「治験データとしては」
「予想をはるかに超えた成果です」と田中は言った。「ただし——」
田中は画像を見た。
「これは私たちの設計通りではない。脳が自分で判断した結果です」
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経産省の技術審査官、中村は報告書を三回読んだ。
読むたびに頭痛がした。
「つまり」と中村は言った。「デバイスが不要と判断されたら、ニューロンネットワークから外れる、ということか」
「そうです」と部下は言った。「脳側が自律的に判断します。こちらの制御が及ばない」
「電脳化の研究にとって、これは」
「新しい課題です」と部下は言った。「脳はデバイスを道具として使うが、必要がなくなれば捨てる。人間がスマホを買い替えるのと同じように」
中村は窓の外を見た。
「ただし」と部下は言った。「水無瀬さんは見えるようになりました。これは素晴らしい成果です。どう評価するかは別として」
「そうだな」と中村は言った。しばらく間があった。「そうだな」
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芙由は病院の廊下を歩いていた。
見えていた。
白い廊下。窓から光が入っていた。人が歩いていた。顔が——まだよく分からなかった。顔は難しかった。輪郭は見えるが、誰が誰か分からなかった。
それでも、見えていた。
自動販売機の前を通った。
立ち止まった。
缶コーヒーを一本買おうと思った。お金を入れた。パネルを見た。ボタンを押した。
缶が落ちてきた。
普通に落ちてきた。
芙由はしばらくその缶を持っていた。
自動で選んでくれない。ボタンを押さなければならない。当たり前のことだった。
当たり前のことだけど——少し寂しかった。
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病院の外に出た。
春だった。桜がまだ少し残っていた。見えた。ちゃんと見えた。
「フユ?」
声がした。
男の子だった。同い年くらい。背が高かった。学校の制服を着ていた。
「タケル?」と芙由は言った。
「なんだ、分かったのか」とタケルは言った。「見えるようになったんだ」
「そうだよ」と芙由は言った。「でも、まだ分からないことだらけなの。特に顔が難しくて」
「俺のことは分かったじゃないか」
「あれ?」と芙由は言った。「そうだね。なんでだろうね」
タケルが少し考えた。「さあ」
「あ」と芙由は言った。「入院前に、顔を触らせてくれたじゃない」
「ああ」とタケルは言った。声が少し変わった。
「あれで分かったんだと思う」と芙由は言った。「記憶と一致した」
「そうか」
「ねえ」と芙由は言った。「もう一度触らせて」
間があった。
「……バカ。いやだよ」
「なんで?」
「なんでも」
タケルが顔を横に向けた。芙由にはその顔がよく見えた。耳が赤かった。
「なんで赤いの」と芙由は言った。
「赤くない」
「赤いよ」
「うるさい」とタケルは言った。「病院来たのか。もう退院したんじゃないのか」
「検査だよ」と芙由は言った。「タケルは?」
「祖母の見舞い」
「そっか」
二人でしばらく桜を見た。
「見えるって、どんな感じ」とタケルは言った。
「まだよく分からない」と芙由は言った。「でも——」
芙由は桜を見た。
「きれいだと思う。花ってこういう形なんだね」
タケルが桜を見た。
「そうだな」とタケルは言った。
春の光の中で、二人は並んでいた。
―― 番外編3 了 ――




